第3話 追憶 (上)
サッカーか、何かしているのだろうか?遠くから、クラスメイト達が快活に呼び合う声する。今は4時限目の体育の授業中だ。左足を怪我しているユウは、教室で一人、自習をしていた。
窓際にある机に腰掛けながらぼんやりと空を眺めると、朝より幾分か色を失った青空がそれでも眩しく透き通っている。そんな空の中を、飛行機が白い雲を引きながら飛んでいた。
こうして下から見ると、随分ゆっくりと進んでいる様に感じる。だが実際は物凄く早いスピードで、空を切り裂いて進んでいるのだろう。
そんな事を考えながら、ユウは自分に起きた怒涛のような数ヶ月のことを、思い返していた。
目を覚ますと、白い天井が見えた。
部屋全体に霧がかかっているように、上手く視点が合わない。
首を動かして辺りの様子を伺おうとするが、まるで鉛が固まったように上手く動かす事が出来なかった。体も動かそうと試みたが、同様だった。
疲れてしまってぼんやりとしていると、また意識が遠のいていく。
目蓋が俺の意志とは関係なく閉じて、また暗闇に閉ざされた。
そんな事を何度、繰り返しただろう。何度目かに目覚めた時、いつもないモノが視界に入った。
……女性。
若い女性が無表情で、何か管のようなものを弄っている。
点滴、点滴だ。
気付いてもらおうとして声を上げようとしたが、上手く声が出なかった。だから焦って、必死に左手を動かそうと渾身の力を入れた。
嫌だった。また同じことを繰り返すのは、絶対に嫌!
気付いてくれ。頼むから!気が付いて!
その時、カタッっと左手が何かに当たった音がした。女性が少し驚いた顔をして、こちらを向いた。
目と目が合う。
女性は大きく目を開くと「如月さん!如月さん!」と叫びながら、軽く頬を触った後で、ナースコールを押した。
暫くして、室内は急に慌ただしくなった。何人かが入室してきて、代わる代わる自分の顔を覗いてくる。皆、知らない顔だった。その中で、白衣を着た中年の男性が落ち着いた声で問い掛けてきた。
「如月君、分かるか?ここは病院だよ。君は事故にあって怪我をしたんだ。でも、もう大丈夫だよ。もうすぐ、ご家族も来るからね」
その問い掛けに、俺は何とかコクリと頷いた。声が、出てこなかったからだ。
一度、意識を戻してからは、回復は早かった。痛みはあったが、ゆっくりとだが体を動かすことが出来るようになった。ただ左足の痛みは特に強く、動かすことも出来ない。左足は骨折していて、固定しているのだと医者から説明を受ける。
数時間すると、声も少しずつだが出せる様になっていった。
状況が呑み込めると気持ちにも余裕が出てくるもので、部屋の様子にも次第に目が向き始める。俺がいるのは、随分と小さな部屋だった。左手側に窓があり、白いカーテンが下がっている。今は、昼間のようだ。
右手側に視線を向けると扉と壁があった。壁の一部はガラス張りになっていて、廊下を見ることが出来る。そして廊下には、ガラスに張り付くように二人の人影が立っていた。30代くらいの女性と、中学生くらいの少女だ。
二人は目が合うと笑顔になり、手を振ってきた。何も出来ずに二人を見ていると、医者が声を掛けてきた。
「お母さんと妹さん、来てくれたんだね」
え……? 母親と妹? 誰の?
言葉に詰まりながら医者を見ると、医者は少し不思議そうな顔をしながら「お母さんと妹さん、来てくれたよ?」ともう一度、聞き返してきた。
「……だれ、です?」
俺のか細いその一言に、部屋が静まり返る。
「あ、あの……? あの二人は、誰なんですか?」
先程より大きめな声で医者に質問すると、その言葉に部屋にいる全員が明らかに戸惑いの表情を浮かべた。
完全に凍りついてしまった部屋の空気が、気まずかった。
母と妹と名乗る二人に面会したのは、2日後のことだ。俺の記憶に障害がある事は事前に話してあったようで、二人の顔には緊張の色が見て取れる。
「ユウ、具合はどう?」
俺に、母らしき人が声を掛けてくる。
「大丈夫です」
と、俺も緊張しながらそれに応えた。
「……そう、よかった」
その人は、そう言いながら俺の手を握り涙を流した。そして、また同じ言葉を繰り返す。
「本当に、よかった……」
俺は暫く黙って、その人の泣き声を聞いていたが、思い切って話を切り出すことにした。
「あの、俺、二人のことを覚えていないんです。それに自分自身のこともよく分からなくて…… すみません」
その人はコクリと頷いて、俺の頭を優しく撫でてくる。
「先生から話は聞いているわ。大丈夫、事故のショックによる一時的な事だろうって。すぐに思い出すわよ」
その行為に少し戸惑いながら、俺は二人に一番聞きたいことを聞いた。
「あの…… 俺、如月ユウで間違いないんですか?」
その人は一瞬だけ驚いた顔をしたが、俺の顔を真っ直ぐ見つめてハッキリと……
「あなたは、私の息子のユウよ。如月ユウで、間違いない」
と、言った。
その人の両目からは涙が流れ落ちていたが、強い意志が伝わってくる。
「そう…… ですか」
目線を逸らしながら力なく答えた俺に、ずっと黙っていたもう一人がこう言った。
「お兄ちゃん、なに言ってるの?そんな間抜けな顔した人、お兄ちゃん以外の誰だっていうの?生まれた時から一緒にいる私が言うんだから間違いないよ。あなたは、私のお兄ちゃんだよ」
その言葉を聞いた時、俺は初めて自分が如月ユウなんだと理解したんだ。
それからは、リハビリの日々だった。母と妹のユメと面会した次の日には一般の病室に移り、リハビリをしながら精神科の診療も受けた。
俺は、トイレなども出来るだけ一人で行く様に心掛けた。始めのうちは看護師や家族が同行していたが、どうも落ち着やしない。
トイレで手を洗っている時に鏡で自分の顔をまじまじと見つめると、違和感しか感じなかった。
……俺は、こんな顔だったろうか?
俺は何か大切な事を忘れている気がして、不安で心が圧し潰されそうだった。
そんな俺の心を軽くしてくれたのは、母と妹のユメだった。彼女達は毎日顔を出しては、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
ユメは夕方になると学校帰りの制服姿のまま顔を出し、仕事で遅くなる母が来るまで俺達は一緒にいた。母も仕事帰りのまま顔を出し、母が来るとユメが帰るというローテーションだ。
仕事や学校で忙しいから毎日来なくてもよい旨を伝えたが、彼女達は頑として言うことを聞かなかった。
ユメには夜に一人で帰る事が心配だったし、食事をちゃんと摂っているか心配で、本当に無理して毎日来ないでくれと頼み込んだのだが、家は病院から直ぐだし、食事もちゃんと摂っているから心配ないよ。怪我人のくせに余計なことを考えないで、と怒られてしまった。どうやら、気の強い娘らしい。
それと母の職業は医者だった。俺の入院しているこの病院とは別の病院で内科医として働いているらしい。自分を担当している医師と母は、昔馴染みであるようだった。
そんな二人との時間は、俺にとって心休まる時間になった。
ユメが話してくれる今日学校であった他愛ない話を聞くのも好きだったし、母が話してくれる病院であった珍事や、病院内での噂話、俺の担当医の若い頃の失敗談など笑えた。
今思い返してみれば、二人とも記憶に関して触れてくることはしなかったな。きっと二人とも、内心とても不安だったろうし聞きたい事も沢山あっただろうに……
でも、聞いてこなかった。
二人の優しさと温かさには、感謝しかないな。
そして……
いつしか俺は、彼女達に家族としての親愛の情を抱いていったんだ。
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