20

母さんは、どうしているのだろうか。

 父さんをなくしてから、俺たちは二人きりだった。そこに無数の男たちが割り込んでくるまで、俺は案外幸せだったのかもしれない。少なくとも、母さんが一番近くにいてくれた。

 ここにはいられない、と当たり前の帰結みたいに思う。

 このままここには、いられない。だって、俺にはずっと母さんが引っ掛かっている。夢にまであの人の姿を見るくらい。またここで眠ったら、俺は母さんの夢を見るだろう。荒れた手をした、母さんの姿を。

 母親では、いられなかったひとだ。元からそうだったのか、父さんの弟に犯されてからそうなったのかは分からないけれど、とにかく、母親ではいられなかったひと。昼の母さんは俺に優しかったけれど、俺の膝にまとわりつく姿は母親とはとても呼べなかったし、夜の母さんはたくましく、俺が生きていくのに必要なお金を稼いできてはくれたけれど、あくまでも母親ではなく一人の女性であり、売春婦だった。どちらの母さんも、手放しで母親と呼べる人ではなかった。それでも俺は、どうしようもなく母親を求めていた。昼間の母さんの優しさや、夜の母さんのたくましさに触れるたび、もしかしたら、と思った。もしかしたら、今日こそは昔みたいに俺を愛してくれた、あの母さんが戻ってきてくれているのかもしれない、と。結局その望みが叶えられることはなく、俺はこらえきれずにカッターナイフを持って夜の街を彷徨う羽目になったのだけれど。

 風呂場に置き去りにされたカッターナイフの柄の冷たさを思い出す。ヨウさんは、カッターありでもここにいていいと言ってくれた。でも、そんなことができるはずもない。いつ自分で自分を傷つけるかもわからないような状況で、母さんの面影を抱えて、ここにいられるはずもない。

 「……ヨウさん、」

 隣で気配の一つも立てずに横になっていてくれる、植物みたいにきれいなひとの名前を呼ぶ。

 「ヨウさん、寝てますよね。」

 彼が起きていることくらいは、分かっていた。分かっていたし、そう言えば眠ったふりをしていてくれるであろうことも分かっていた。

 「俺、家に帰ります。」

 ヨウさんはやはり、気配の一つも立てずに眠ったふりをしてくれている。

 俺にとってそれは、涙が出るくらいありがたいことだった。

 「帰って、母さんと話してみて、それで、ここに戻って来ても、いいですか。」

 いいとも悪いとも言わない、眠ったふりのヨウさんは、寝返りを打つみたいなふうをして俺の方に身を寄せると、肩を抱いてくれた。

 俺はその動作の意味を噛み締めた後、布団を出た。風呂場で自分の服に着替え、カッターナイフは洗濯機の隣にあったごみ箱に捨てた。そして、ヨウさんのマンションを出た。一度あの公園に寄って、池の鯉の様子を確かめてから帰るつもりだった。もしかしたら、一匹くらいあそこにだって鯉は泳いでいるかもしれない。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鯉のいない池のほとりで 美里 @minori070830

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ