ヨウさんは、軽く肩をすくめてそのまま前へ向き直った。

 「寒いよ。明日の昼頃出ていけば。暖かくなってから。」

 「でも……、」

 「でも?」

 「俺、ずるずるここにいちゃいそうだから。」

 言ってから、はっきりと自覚した。

 この暖かい部屋は、居心地がいい。家具らしきものはないし、無個性だけれど、学校の保健室で授業をさぼって寝ているときみたいに、妙な安心感がある。

 「そう。」

 ヨウさんは、淡々と言った。

 「じゃあ、いればいいじゃない。」

 「でも……、」

 「でも?」

 「俺がここにいたら、ヨウさん、犯罪者になっちゃうかもしれない。」

 ヨウさんにだって、俺が未成年であることくらい、分かっているはずだ。俺はどう見たって中学生にしか見えないだろう。だから、俺がここにいるだけで、ヨウさんは危ない。万が一、母さんが正気になって警察に行きでもしたら、問答無用で捕まってしまうはずだ。

 「別にいいよ。」

 「え?」

 「別にいい。」

 聞き間違えかと思って訊き返したけれど、ヨウさんは全く同じ抑揚で、全く同じ言葉を繰り返した。その声はさらりとしていて、本当に別にいいみたいだった。俺のことがというか、なにもかもが。

 俺は戸惑って、立ち上がってヨウさんの正面に回り込んだ。彼の表情を確かめたいと思ったから。けれど彼は、表情さえも確かにどうでもよさそうだった。この世にこの人にとってどうでも良くないものなんて存在するのだろうか、と思ってしまうような顔をしていた。

 「風呂入って、飯食いなよ。」

 その、どうでもいい、の顔のまま、ヨウさんはそう言った。

 俺は、ヨウさんの顔に押されるみたいにして頷いた。

 なんだかこの人は遠いと、不意に思った。なんというか、感情が全然つかめないのだ。俺は他人の感情を読み取るのが得意ではない、でも、それにしてもヨウさんは掴みがたかった。

 「着替え、風呂場に出しとくから。」

 「……ありがとうございます。」

 明日の昼になったら、と思う。明日の昼になったら、多分俺は、ここを離れられなくなる。ここを、というか、ヨウさんから、だろうか。この、感情の全然読み取れないきれいな人に、俺は多分もう、気持ちを持っていかれはじめている。男の人に、そんなことを思うのははじめてだった。正確に言えば、女の人に対しても、こんなにはっきりと気持ちを自覚したことはなかった。だから俺は、戸惑ってヨウさんの顔を見た。ヨウさんは、軽く首を傾げて俺を見返した。彫刻みたいにきれいな顔をしていた。どきりとした。どきりとしたことに驚いて、俺は慌ててヨウさんの脇をすり抜け、風呂場に向かった。

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