24
五月十八日水曜日、午前4時46分。
スポーツウェア姿の美優は自宅玄関前にてタイミングをうかがっていた。
(来た)
偶然を装って外に出る。
母は鈍いが、念のため音は立てない。かつ怪しまれない程度の開閉スピードも出す。
「あ、おじさん」
「え? 美優ちゃん!?」
走り込みにでも行くのか軽装――上下とも長袖長ズボンのジャージですっぽり包んだ忍が、足を止める。
律儀にビクッと反応しているが声量は抑えられており、ともすれば通行人さえ気にも留めまい。自分も演技はよくやるからわかるが、絶妙な塩梅だ。美優は改めて確信を宿しつつ、
「私も一緒に走っていいですか?」
忍の視線が美優を舐める。
美優も長袖に裾長できめている。山に行くから肌出てると危ないよといった言い分を封殺するためだ。
ポケットからシュシュを取り出し、その場で髪を束ねてみせる。うなじをさりげなく見せつけるが、忍は目を逸らすこともなく、注視することもなく微動だにせず。
「……いいけど、終わるまで一言も喋らないよ」
「構いません」
「遅れても置いてく」
「大丈夫です」
忍は美優の非凡さを認めることにしたらしい。なら母がどうとか未成年がどうとかいった一般論など持ち出さない。
その上で、干渉を減らそうと先手で条件を出してきた。
(想定どおり)
猫を被り続けたところで関係は進展しない。一線を引き続ける忍の忍耐力ならなおさらだろう。そもそも近所付き合いは決して短くはない。
一方で、一昨日の
もう一つは、以前から仕掛けているセンサーのデータ。
今週――おそらくは週末の影響と考えられるが、生活リズムの乱れが観測された。
忍がかなりの時間を軽装による外出に費やしていることは知っている。裏山で会った光景は今でも脳裏に焼き付いていて、同志なのだとわかる。
近々発散するための外出を行うはずだと見た美優は、自分が知っている情報とセンサーのデータを総動員してタイミングを推し量って。
それが今日の早朝、午前4時から6時の時間帯で。
おおよそ45分間の張り込みを経て、見事的中した。
「じゃあ行くか」
美優に語りかけるというよりは独りごちている。
走り始めようとするその横顔も、日頃の物腰柔らかい雰囲気が嘘のように無表情。しかし強張ってはいないし、ともすると自分に気づいていないのではないかとさえ錯覚する。
それは不思議な心地であり、美優はふふっなどと緩んでしまう。
忍の一歩後方をキープして追いかける。
日の出から間もない、薄暗い住宅街にリズミカルな足音が差し込まれる。
美優は意識的に合わせにいって、やがて一つになった。忍は特にずらす真似はせず、曲がり角や信号でペースを乱すこともない。屋内ではないが勝手知ったるとはこのことだろう。
(マラソンランナーって感じ)
観察は美優の趣味であり特技の一つ。
忍の走り方は、運動神経の高い男子らでも勝てない陸上部長距離勢のそれだった。
大通りに合流して、ロータリーをぐるりと走る。
駅は始発すら動いておらず閉鎖されているが、ちょうど職員が出勤してきたらしく目が合った。忍の会釈が先で、職員と美優がほぼ同時。
大通りの向かい側をしばらく走った後、住宅街へと入っていく。
中田家堀山家の反対側のエリアであり、美優も普段は足を運ばない場所だ。住宅と公園しかないから当然といえば当然だが、それでも忍の足取りに迷いはないし、相変わらずリズムも一定である。
慣れている。
一定のリズムやテンポの死守はランナーの両分だ。
とはいえガチ勢なら珍しくもない。美優でもできる。それよりも気になるのは、
(視線が低いし安定してない気がする)
後頭部と後ろ姿全身から察するだけでもブレている。というより、あちこち飛ばしているかのようだ。
川沿いなど安全を担保されたコースではないから致し方ないと言えばそれまでだが、それにしては美優がそうするのとはずいぶんと違った配分であり、強い違和感をおぼえた。
一方で親近感も強い。
世界が全然違うから一瞬思い当たらなかったが、わかれば単純だ。
一人称視点ゲームのものである。
美優の場合はマイクラだ。
特にクラオは周囲の認識が非常に重要であり、最高位
この事がわからない大多数のプレイヤーは、突如訪れた脅威を前に乱れて終わる。それを運ゲーだの反射神経だのと正当化する。
「……」
その背中に思わず問いたくなったが、ギリギリで堪えた。
(気のせいかもしれない)
美優をして注視してようやく、というくらいだし、走ることはなんだかんだ気持ちいい。観察はこれくらいでいいか、と誘惑に負けそうになる。
はぁ、はぁと規則的な旋律も自己主張を始めている。
呼吸までさすがに忍と合わせるわけにはいかず、ぴたりと合っていたハーモニーは乱れていった。
注意も散漫になっていく中、美優は忍の足音にフォーカスする。
普段は自分の音を聴くが、それよりも心地が良い。
(心地……?)
「あっ」
思わず漏れ出てしまい、その口をサッと塞ぐ美優。
「……」
聞こえているはずだが、先行する背中に変わりなし。
一方で美優は頬を膨らませそうになっているのを自覚して、それも堪えて。
「なるほどです」
意味深に呟いてみせる。
得心したのは本当だった。
(プロのリズムだ)
自身もその域に足を踏み入れ、また繊細で鋭敏な感覚を有しているからこそわかる
まるで時計のような。あるいはメトロノームのような。
ここで突如、思い起こされる。
――……マイクラの大会?
――ノーコメント。
――ごめんなさい、目に入っちゃって。
目を見開く美優。
「そうですか」
「そうなんですね、なるほど……なるほどです」
しばらくブツブツと呟いていた。
その間も、忍の走りが乱れることはなかった。
一時間程度、住宅街内をぶらぶら走ったところで自宅へと至る生活道路に入る。
玄関前で会話したくないからだろう、数十メートル手前で忍が足を止めた。
すでにペースダウンはしている。息切れも落ち着いており、会話はできる。
「それじゃまた」
「おじさん」
早々に帰ろうとする忍を呼び止めるのみならず、美優は数歩ほど先行して進路を塞ぐ。
もう朝日もはっきりと見える。
忍の顔も。しわも。髭のあとまでも。
「楽しかったです。ランニング友達になってもらえませんか」
「断る」
「断るんですね」
あまりに清々しくて、美優はあははと笑ってしまった。
「ではマイクラ友達になってください」
「……マイクラ?」
想定外の言葉が出たのか、忍の瞳孔が微かに揺れたのを美優は見逃さなかった。
動揺ではなく、どちらかと言えば好奇の色――
「たぶんですけど、おじさん、マイクラがすごく上手ですよね?」
声を少しだけ張ってみせる。
もうじき午前6時。犬の散歩が増える時間帯だ。往来で話したくはあるまい。さっさと切り上げるためには譲歩するのが一番だ。
(譲歩しろ)
「上手の定義がよくわからないけど、一応仕事でも触れてるから慣れてはいるね」
「私、もっと強くなりたいんです。教えを請えたらと」
「強く? マイニングアンドクラフティングだよね?」
「マイクラオンラインの話です」
「ああ、そっち」
「おじさんのランクは?」
「無いよ。やってないから」
(わからない)
嘘をついているようには見えない。
マイクラオンラインすら知らないのは信じられないが、クラバー――マイクラバーチャルオフィスの利用がメインならありえるだろう。そういう社会人も少なくない。
もう少し突っ込んでも良かったが、JSCはコンプライアンスにうるさい。あまり深堀りすると、なぜそんなところまで知っているのかと疑われてしまう。高奈にチクられでもしたら面倒だ。
「えっと、もう行くね」
「嫌です」
「いや、嫌って……」
距離を近づけておきたいが、妙案が浮かばない。
既にお互いある程度の本性を開示したことで、家が隣同士のおじさんと娘のロールプレイはもはや通用しない。踏み込みすぎたら、忍は遠慮なく拒否してくるだろう。
高奈への働きかけも強く行うはずだ。高奈は忍を嫌っているが、ある程度の信頼は寄せているように見える。鬱陶しいくらい甘えてくることもある母だが、親バカではない。働きかけられたら、割を食うのは自分だ。
(一方的な観察は飽きるからなぁ)
美優としても避けたい展開だった。
この得体の知れない男との交流は心が弾む。少なくとも現状維持はしたいし、できればもっと近づきたい。踏み込みたい。むしろ踏み込まれたい。
「と、友達になってほしいんです……。その、おじさん……優しいから……」
先輩や教師も操る自慢の演技だったが、「演技うまっ」忍の感想は何ともあけすけなもので。
これも通じない。
何もかも通じない。
やはり堀山忍は只者ではない。
美優はニタリと笑って、
「おじさん。これからも仲良くしてくださいね」
半ば強引に収めることを選ぶ。「では」丁寧な会釈を差し込んでこれ以上の追及もガード。
先に帰宅した。
就寝中の母を起こさないよう静かに閉めて、鍵はまだ掛けずに、そのまましばらく気配に注視――高奈が一階にいないことを確認してから。
ずいっと。
ドアスコープに張り付く。
(おじさん)
「おじさん」
「おじさん。おじさん。おじさん……」
つん、つん、とフレンチキスのようにまぶたでドアスコープをつっついていたが――
「――どこに行った?」
三十秒過ぎても忍が通りがからないのである。また出かけたわけではあるまい。仕事があるのだから。
美優はバッと顔を上げ、ビュバッとドアハンドルに手を伸ばす。母にさえ見せられない、異様に素早くて正確な動きだ。すでに握っており、グッと力を込めて、引きそうになったところで、
「……」
何とか堪えた。
代わりに、ごくりと。生唾を飲み込んでしまう。
反射的に空いた手が鍵に伸びていた。
数秒ほど固まっていたが、はぁとため息をついてロック。もちろん音を出さずに締める要領は習得済。
靴を脱いで、玄関から上がったところで、ぺたんと。
いわゆる女の子座りと呼ばれる体勢で腰を下ろす。というより落ちた。
「もうダメかも……」
はぁ、はぁと息が少し荒い。
消耗ではない。淡白な彼女には久しく無縁だったそれは――高揚。
「おじさんっ――」
その場で自らを掻き抱く美優。
直後、高奈の気配への注視が疎かになっていると自覚して頭を振った。
それでも抑えられなくて、美優は浴室に入ると。
シャワーのついでに、久しぶりに自らを慰めた。
◆ ◆ ◆
美優と散会した後、忍は仕掛けていた。
中田家のドアが閉まった瞬間、無音でダッシュをして通り抜けたのだ。しばらく高奈の気配に警戒することやドアスコープを覗き込むことも見越した上で。あるいは、そうでなくとも、消音行動的にゆっくり施錠をするのなら、その間に通り抜けられる。忍には造作もないことだ。
そうして静音で自宅に入った後、浴室へと向かう間に少しだけ意識を向ける。
(とりあえず様子見)
自分は年齢の割に賢い美優のおもちゃになってしまったのだろう、と。そう忍は考えていた。
同世代や同校の生徒には見向きもせず、大人に憧れる子供は少なくない。賢ければなおさらだろう。もちろん忍にプライベートを費やす気などないので、相手の出方次第では対処が必要になる。
全く興味も無かったから情報も乏しかったが、幸いにも向こうから踏み込んでくれた。
とりあえず忍も一つ仕掛けてみることにしたのだ。
一般人には気付けない、この高速移動のからくりに気付けるか。気付けないか。あるいは気付いた上で気付かないふりをするか。
とはいえ、別段深刻な心理戦でもない。仕事でチャットを一つ送るくらいの、軽微な行動でしかなかった。
手洗いを済ませた後、忍はジャージを脱ぐ。
続いて負荷用のリストとバンドを外した。装備品など邪魔でしかないが、忍は自分の活動が妨害されることを警戒して、これらをつけることがある。妨害された場合はランニングなど軽めの運動で凌ぐのだ。それでも負荷がついている分、トレーニングにはなる。
別の言い方をすれば、美優が仕掛けてくることを読んだ上で装着していたのだった。
忍にとって、美優など赤子でしかない。
裸になった頃にはもう意識から消えていた。
今日のルーティンはまだまだ山積みだ。
忍は次の行動を開始する。
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