22
レース案件の進め方がスクラボベースになったことで、忍の自由度は一気に増した。
基本的に空いたタイミングでスクラボを更新すればいいだけだ。当面は打ち合わせも要らない。あったとしても美咲に取り次ぐようにしてある。
もう一つ、仕事にかかわらず所属組織の会議――上司品川や部長大田の開催する定例会議も存在したが、マクロソフトの名の下に、言い分をでっちあげてサボっている。
美咲も結託してくれるのが地味に強かった。
JSCはただでさえコンプラとセキュリティを謳っているし、生真面目な社員も多い。美咲のように融通を利かせてくれる社員は貴重だ。実はそうでもなくて、忍が単に信頼関係をつくるのが下手なだけなのだが、自覚はない。
「あまり美咲に頼るのもなぁ」
忍は他人事のように呟いた後、仕事部屋を出て、配信部屋に入った。
近所の自動車音さえ遮断する高防音の部屋は静寂そのもの。耳栓を付けたときのように自分の鼓動さえ聞こえる。忍にはこれが快適で、口角が緩んだりもする。
スタンディングデスクのため着席することはなく、ティーラーズ用のPCを操作してスクラボを開いた。
画面右下の日時表示は6:07、2022/05/17、火曜日。
今週はまだスクラボを見ていない。
情報量が多いし、忍が休日と定める土日も平気で書き込まれるため、こまめなチェックは必須だ。
スクラボのトップページに並ぶカードエリアはスルーして、右上のソートをいじる――更新順に並べ替えた。
未読ページを一気にタブで開くこともできるが、忍はじっくり精読するタイプである。最新のカードから順に開いて、読んで、必要なら書き込んでから戻るボタンを押して、次のカードを開いて、とひたすら繰り返していく。「ん」珍しい雰囲気のページがあり、
「【アパートを丸ごと買い取りたい】」
忍も思わず読み上げた。
つくったのは麗子で、新規日時は昨日。
曰く、徒歩圏内に四戸アパートがあるらしく、仕事部屋兼スタジオにしたいそうだ。
麗子の事情は既に知られている。
ティーラーズのメンツとして金は問題無いし、防音工事のセオリーやノウハウもスクラボにまとめてある。麗子個人は既にコウニズム用のスタジオを持っているが、自宅から少々遠くて不便との書き込みは二年以上前から見かけている。要は自宅の近くに構えたいのだろう。
どうせ金は持て余す。時間や生活の質のために費やすのは当たり前だ。誰も疑問や当惑は示していなかった。
一人を除いて。
「やっぱ番人さんか」
麗子の期待も法的な知識だろう。
ティーラーズには通称『番人』と呼ばれる専任弁護士が存在する。顧問ではなく社員として正式に所属し、ティーラーズのためだけに働いている人物だ。
忍は本名や容姿を知らないし、興味もないが、普段は不正な切り抜きコンテンツの取り締まりや誹謗中傷への開示請求といった悪質行為に対処している。法的にいじめるのが生き甲斐だという嗜虐的な性格をしており、ラキあたりは露骨にひいているが、仲間として頼もしい。
事実、ティーラーズの治安は配信者グループ最高峰と評されるが、番人によるところが大きかった。
最近はほとんど荒れておらず、欲求不満だと以前本人は書き込んでいただけに、思わぬ活躍の場が出て嬉しいのだろう。今現在も番人のカーソルは慌ただしく動いて、文字を量産したり削ったりしている。
「解説もわかりやすい」
優秀な人にありがちだが、素人への説明が下手である。番人もそうだったが、忍含むメンバー達で鍛えまくったこともあって、今ではずいぶんと簡潔に説明できるようになった。
麗子もやる気マンマンで、既に金額や時期といった数字が書かれている。そのそばには「なまなましいね」ナナスの感想も一言書き込まれていた。忍もアイコンを足して同意しておく。
「……」
マウスの手を止める忍。
「俺も引っ越すか?」
自身に問いかけるように独りごちる。
最近は欲求不満である。
主因の一人、宮崎美咲に昨日自宅を知られてしまった。これまでどおり居留守は使うマンマンだが、そうでなくとも隣家や実家は前々から少々煩わしかった。
忍はいったんリビングに下りて、黒くて四角い板状の何かを取ってきた。
別に一階で続けても良かったが、庭から覗き込まれても面倒だ。律儀に配信部屋に戻って、板を開く。
デジタルメモデバイス『キメラ』。
マウスやネット接続すら使えない、キーボードと小さな画面のみの折りたたみ式テキスト入力特化デバイスで、お値段数万円以上と高価な部類に入る。プロのライターや作家に愛用者が多い。
忍はもっぱら思考を支援する用途に使っている。
裏山の存在。
実家の利便性。
住宅街の利便性。
都内へのアクセス性。
住み慣れた実家感。
堀山家。
中田家。
宮崎美咲。
引っ越しは面倒くさい。
もうちょっと田舎寄りでもいいかも。
新しい山を開拓したい。
三億くらいなら出せる。
ナナスみたいに生活装置を雇う気はない――
ぱちぱちと書き殴り、目に入れて、また書き殴って、時には要約して、とメモと脳を行き来する。
「ふぅ……」
おおよそ30分ほど
忍はその場で軽く飛び上がり、どんっと地面に仰向けに寝そべる。素人ならば普通に打ちつけてしまうが、忍には朝飯前だ。相応の身体と受身技術があればベッドは要らない。
探索的思考は疲れる。
人によっては1日30分も保たないという。忍は保つ方だが、それでもせいぜい3時間。
探索の対義語は作業である。プロとは探索に頼らず作業で済ませられる力を持つ者をいう。
そのまま数分ほど休んだところで、いったん起き上がりリビングへ。
冷蔵庫に入れていたお土産――未瑠奈からもらった高級チョコレートをキッチンで開封する。
「無駄にかさばるし、なんかずっしりしてんな」
どう見ても万円はかかっているだろう。
まるで高価なデジタルデバイスのように、箱からしてやたらかさがある。
宝石のように陳列されたチョコレートをしばらく眺めた後、忍は。
元通り丁寧に仕舞った後、ポイっと――ゴミ箱に投げ捨てた。
忍は菓子を食べない。
特にチョコレートなど虫歯に通じやすいものやスナック菓子など添加物の多いものは毒だと考えているし、もらった時点で運搬コストも発生する。すぐにでも捨てたいくらいだ、といった持論は過去スクラボでも熱弁した。バレンタインネタから派生させたこともあって麗子、ラキ、ナナスを始め大部分のメンバーから総スカンを食らったことも覚えている。
数年以上前に書いた内容だが、未瑠奈もそのくらい思い出せるはず。あえてチョコレートを選んだのはなぜか――と一瞬考えかけたが、自意識過剰かもしれない。当たり前だが、自分の当たり前は他者には通じない。
忍はそれ以上深追いせず、配信部屋に戻って検討第2ラウンドを開始した。
◆ ◆ ◆
「待たせたわね。設定に手こずっちゃった」
「シグナル使うの初めてだもんね」
「
「本題入っていいわよ未瑠奈」
「うん……」
「……」
「……」
「……ひかない?」
「内容による」
「愛莉に同じ、かな」
「……その、アパートを借りようとしてるの」
「スクラボに書いてたわね。四戸アパートでしょ? 友達と住んだら絶対楽しいやつ」
「うん。二人ともどうかなって……」
「オフィスってこと? 無理じゃない? 麗子は近いから良いけどさ」
「ううん」
「……」
「……」
「あ、その……オフィスじゃなくて、おうちの話」
「シェアハウスってこと?」
「この場合、シェアレジデンスが近いかな」
「どっちでもいいけど、さすがに無理じゃない? 何? お姉ちゃんが恋しくなったのぉ?」
「
「そうじゃなくて」
「地声のマジレス草」
「アパートなんだけど、その……忍のおうちと近いの」
「へぇ、忍の……ん?」
「え?」
「うん」
「き、き聞き間違いかしらね、たぶんアタシ疲れてるよねそうよね」
「き、聞き間違いじゃないね。どういうこと? 忍君が自宅の住所教えてくれるとは思えないけど」
「特定した」
「わろた」
「いや笑えないでしょ……」
「やばいときこそ笑っちゃうものでしょ。ナナスも収録でよく笑うじゃん」
「それで、その……二人は、どうする?」
「……」
「……」
「とりあえず私の考えを喋るね。その間に決めて」
「え、ええ……」
「そ、そうだね、とりあえず聞こうか」
「うん――私は怒られてでも忍に近づきたい。合宿のときも話したけど、忍の強さを知りたいからもっと近づきたい。一人だと怖いけど、三人なら怖くない。忍も社長も容認してくれると思うし。どう?」
「話し終わるの早っ」
「アパートの買い取りってすぐには終わらないし防音リフォームとかもするよね? 今すぐ決めなくてもいいとは思ってる」
「え? うるはも乗る気?」
「この通話に参加してる時点で共犯だから正直に言うけど、ぼくも悪くない手だと思った。三人ってのがポイントだよね」
「アタシを入れるな」
「妄想になっちゃうけど、そのアパートにぼくら四人が住んだら楽しいと思うんだ」
「そんなこと言わないでようるは! めっちゃいいじゃんそれ……」
「ちなみに聞きたいんだけど、どうやって特定したの?」
「お土産にタグを仕込んだ」
「エアタグってこと? ストーキングは無理じゃね? 音鳴るようになったでしょあれ」
「類似製品があるんだよ。オーダーメイドで頼むアレだよね? 大手の探偵とかが使ってる、1個300万円くらいのやつ」
「うん」
「そんなんあんの!? 二人とも怖っ」
「バレても容認されるって想定してるんだよね未瑠奈は」
「ううん、ばれないつもり。高級チョコレートにしたから忍は捨てるはず」
「あー、目に浮かぶわ」
「揺れてカサカサしてわかるんじゃない?」
「しっかりと固定した。分解しない限りは大丈夫」
「怖すぎ」
「麗子は器用だもんね」
「私は本気。二人は?」
「ぼくも乗った」
「うるは!?」
「ここは人生を賭けていい場面だと思うよ。ぼくにとっても忍君は重要な存在だから」
「犯罪は違うでしょ。せっかく合宿を開いてくれた忍の信頼も裏切ってる」
「忍はそんな柔じゃない」
「忍じゃなくてアタシらの心持ちの話よ」
「コンプラは知ってる。でもチャンスを見逃すほどお人好しじゃない」
「犯罪者になっても?」
「忍が訴えなければ犯罪にはならない。忍は訴えない。私は合宿で忍の強さを確信した。もちろん謝罪はする。何だってする。処女を捧げたっていい」
「カミングアウト草。ぼくもだけど」
「え?」
「ん? 愛莉は違うの?」
「愛莉はビッさんだった?」
「いやアンタらが奥手すぎるだけでしょ。数人くらい普通だから……ってそうじゃなくて!」
「話題逸らし作戦、失敗」
「次の作戦考えなきゃね」
「二人とも聞こえてんだが!? ……はぁ」
「いえーい」
「うえーい」
「遠隔ハイタッチすな。いいわよわかったわよ、乗ればいいんでしょ!」
「……」
「……愛莉。うるは」
「……」
「……」
「ありがとう」
「はいはいどういたしまして」
「ぼくこそありがとうだよ。忍君に本当に近づけるだなんて夢にも思ってなかったから」
「で、今後はどうすんのよ。プライベートなスクラボでもつくる?」
「ううん。ノブの素性はトップシークレット。シグナルだけでやる」
「りょーかい」
「忍君への対策はどうするの? ぼくら三人が秘密を共有したって機微は伝わる気がするけど。さすがに特定までバレて引っ越しされることはないと思うけど」
「普通に合宿で仲良くなって一緒に遊ぶようになった、とかでいいでしょ」
「忍は引っ越さないと思う。ニュータウンの一戸建てに住んでるから」
「あー、なるほどね」
「どういうこと?」
「生活の細部にもこだわる独身でぼっちの忍君が、家族連れで賑わう住宅街に住むってのは考えにくいよね。でも実際は住んでる――よほどの理由があると思う。なら容易には離れられないよねってことでしょ」
「うん」
「やっぱり二人とも怖ぁ……」
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