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火曜日にスクラボベースの
対面コミュニケーションは美咲に押し付けて、マイペースにスクラボに書き込むだけでいい。上司品川や上位上司大田からの干渉も無いし、煩わしい社内会議やイベントも案件を盾に回避できる。
美咲も融通が利くから従ってくれるし、そもそも宮崎美咲なる厄介な人材を隔離できるシチュは上司側としても美味しいわけだ。
結果として忍は。
水、木、金曜日と一度も、誰とも喋らず、ひたすらテキストの海に溺れることができた。
ブレストやたたき台、その他調査検討の初動をつくってある。メンツも優秀だし、もはや忍がいなくても継続できそうな雰囲気が早くも醸成され始めていた。ページ数も金曜定時時点で四百を超えた。
そして五月十四日、土曜日――
サラリーマンが愛してやまない休日であり、忍も同樣のはずだが。
朝4時34分。
リュックを背負って歩く忍は、都内でも有数の高級ホテルを見上げている。
『第一回コアメンバーオフ会』会場である。
部屋は一泊ウン十万だかウン百万だかするロイヤルなスイートルームらしいが、忍は細かい金額など見ちゃいない。どうせ経費だし、自費だとしても大して痒くはない。金に神経を持っていかせるほど忍はお人好しではない。それはともかく。
さすが老朽化の激しいJSC東京本社ビルとは格が違う。外壁のメンテナンスは行き届いており、窓もビジネスホテルのそれよりもずいぶんと大きい。色合いも空と同化したかのような澄み切ったブルーで、庶民は一生縁が無さそうな高級感を放ちながらも、都心部のコンクリートジャングルにも見事に適応している。
エントランスに到着。フィクションさながらに広い。
ちょうど黒塗りの車が一台停車した。
お付きと思しき運転手がドアを開き、お金を持っていそうな老夫婦が出てくる。出迎えのドアマン達が荷物を運び始める。車もドアマンに任せるらしく、最後に運転手がキーを渡していた。
「……」
ガラス越しに自分を見やる忍。
ドレスコードは無いと聞いており、格好も袖の襟付きシャツに長袖のスウェットズボンとラフである。気にする性格ではないため、歩みを止めることはない。癖で
特に呼び止められることもなく、睨まれることもなくエントランスをくぐり、フロントに到達。
忍は本名を名乗り、身分証明を求められたので提示して――分を経たずに確認が取れた後は、ベルボーイに案内されてエレベーターへ。エレガントに装飾された広くて高いメインホールではないらしい。VIP用なのか、こじんまりとしている。
特に会話を挟むことはなく、数十階の高さをあっという間に昇った。
カードキーを受け取り、ボーイとは散会する。いつでも自由に出入りできるということだ。
階数表示が動いたのを確認して、忍は背後を向く。
結婚式場会場のような、あるいは社長室フロア前の廊下のようなロビーで、突き当たりにドアが一つある。カードリーダーもついている。
忍はもう歩いていた。手続きや挨拶や到着待ちを除けば、ここまで数秒も止まっていない。
ピッ、ガチャッと分厚いドアが開錠される。
開けるのは手動だが、重さはほとんどない。か弱い女性や子供でも一人で開けられるだろう。
玄関でランニングシューズを脱いで、ソックスのまま上がる。忍はスリッパを好まない。
「――倉庫と、キッチン?」
部屋の半分は食料やアメニティを積んだ倉庫風のレイアウト。もう半分にはシステムキッチンとテーブル。
照明は薄暗めで、九箇所のうち真ん中の一つしか点いていない。「社長らしいな」忍は苦笑しながらも、奥にあるドアの先へと進んだ。
次は生活空間らしい。
左右に三部屋ずつ個室があって、それぞれ寝室と洗面所だと思われる。その先は広大なリビングとなっていて、忍の目測では150㎡――小学校の教室1.5個分くらいのサイズ感だ。一般家庭では見ることのないソファーやモニターがセンスよく配置されている。
いたずらに高級な装飾があるわけではない。
むしろ会社の合宿で使うような、実用的で無機質な雰囲気さえ感じさせる。「悪くない」と言いつつ、やはり立ち止まることはない忍だった。
最後のドアも開けると、少し強めの冷気が。
照明は切ってあり、デスクライトが二本だけ点いている。薄暗いが、忍は夜目も利く。大企業のリーマンには見慣れた空間を前に「会議室だ」ぼそっと漏らす。
中央にはグループワーク用のラージデスク。デスクライトがぽつんと置かれている。
左右の二辺は片側がベッドゾーンで、絵に描いたような高級ベッドが四つも並んでいる。一番手前のベッドだけ布団が盛り上がっており、誰かが寝ているようだ。
反対側はほぼ端から端まで伸びた長いデスクとなっており、10キログラム以上ありそうな重厚なオフィスチェアーが並んでいる。見覚えのある背中が一人。マウスを持つ手以外は微動だにしておらず、過集中に入ったマインスイーパーガチ勢に見えなくもない。デスクライトもそばに置いてある。
最後に、ラージデスクの先には、プロジェクターなど投映用設備が揃っていた。
忍は開いたドアを最大まで押し込み、固定する。
ガチッと音が響く。
「――おう、来たか」
「シャワー浴びて仮眠します」
やはり動かない背中にそう返しつつ、忍はリュックから着替えの上着と下着を取り出す。
その後、リュックを一番奥のベッドに投げてから生活ゾーンへ。手前の個室に入って一分でシャワーを済ませた後、さらに一分で拭き取って、最後の一分で着替えも済ませる。
短髪であり、陰毛や脇毛を含む体毛も律儀に剃っているとはいえ、恐るべき手際であった。忍が自らに課した三分ルールであり、これを見たことがあるのは弟
今は合宿中であり、悟らせるわけにはいかない。
忍は普段使いもしないドライヤーを動かすなどのカモフラージュでしばし時間を潰す。ちなみにシャワー音が外に漏れないほど防音性が強いことは把握済。音ではなく使用した形跡を残すためだ。
それでも再び仕事ゾーンに戻ってくるまで十五分とかからなかった。
社長と話に花を咲かせるわけでもなく。
社長もろくに振り向かなければ口も開かない。
どさっと忍は最奥のベッドに倒れ込む。
転がりながらもリュックを足元に置き、綺麗に敷かれた布団とブランケットを一息で引っこ抜いた後、ブランケットは畳んで足元に投げて、布団だけを採用。見た目とは裏腹に暑苦しさはなく、ひんやりしていて気持ちいい。寝具にこだわらない忍でも高級品だとわかった。そのまま被る。
合宿開始は朝10時。あと5時間はある。
忍は別に寝不足ではないし、当然のように生活リズムも体調もベストに整えてきているが、それでも仮眠を選んだ。単に会話が面倒くさいからだ。
できれば開始ギリギリまで放っておいてもらえると助かる――
そんな忍の楽観視は、早くも崩れ去った。
三つ離れたベッドから誰かが体を起こしたようだ。
ふわぁと間の抜けたあくびが響く。
「……」
それはベッドから降りると、一直線に忍の方へと向かってきて。
躊躇なく布団に潜り込んできた。
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