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 忍が朝型で過ごす理由の一つが人の少なさである。

 朝五時に起きる生活だと昼食が十時、夕食が十六時といった時間帯になる。前者は開店直後、後者は主婦勢や老人勢と定時退社勢の間の空白時間であり客が少ない。加えてガラの悪い客層の時間とも被らない。快適に買い物できるのだ。


 最寄り駅近くのスーパーで買い物を済ませ、食材と日用品を詰め込んだ大きなリュックサックを背負って帰宅する。


 中田家を通り過ぎる時、ドアの前に美優が腰掛けているのに気付いたが、忍はあえてスルー。美優を認識したことを本人に悟らせず気付かないふりをする程度は造作もない。

 そのまま自宅の電子錠パネルを開いて、暗証番号を打ち込もうとしたところで――


「おじさん助けてください!」

「……美優ちゃん?」


 慌ただしい足音とともに、敷地の一歩外にいるのはもちろん美優。

 中学校の制服姿だ。スカート丈がかすかに短くなっている。通過時も下着が見える角度だったし、狙っているのだろうか、と警戒心を高める。

 一方で、その挙動は演技とは思えないほど自然だ。箱入り気味に育てられ、警戒心も薄く、男の怖さも知らない初心な女子中学生にしか見えない。


 より健全に言えば、庇護欲をそそられる。


「ずっとここにいたんですけど……無視しました?」

「いや普通に気付かなかったし、びっくりした」


 どさっとリュックサックを下ろす忍。「ふー」と一息ついて、ポケットから取り出したハンカチを汗を拭う。


「それで、どうかしたの?」

「鍵を失くしちゃって……」


 忍の自宅は電子錠であり、実を言うと暗証番号はダミーであり、実際は指紋と押下圧のハイブリッド認証であり、とかなり気合が入っているが、隣の中田家は普通にアナログだ。


「お母さん呼ぶよ」


 忍も高奈もJSC社員であり、社員であるなら誰もが誰とでも連絡を取れる。


「いえ、あと数時間で帰ってきますし、仕事の邪魔はしたくないので……その、おじさんのお家にいさせてもらえませんか?」

「さすがにダメでしょ」

「どうしてですか」

「お母さんに聞いて」

「ママの許可はもらってます。ついでに部屋の様子も後で教えてって言ってました」


 忍は少し迷った末、「うぜぇ……」距離が詰まるラフなリアクションを選んだ。


 同時に脳裏では美優の正否を疑う。

 高奈とは別に親しい仲ではないが、言いそうな発言だとは感じた。


 確実なのはこちらからも連絡を取ることだが、正直面倒くさい。この行動は忍のルーティンには含まれていない。

 忍はこの後、さっさと買い出した品々を片付けたいしトレーニングも挟みたいのだ。そこまで終わらせてから気持ちよく収録を迎えたい。見積もりでは余裕時間バッファは二十分も無い――


「そっか。でも俺も一応確認してみるよ」

「信用してくれてもいいのに」


 頬を膨らませてみせる美咲を見ながら、一応忍は補足する。


「世間体もあるからね。形式は必要だ」

「顔見知りの隣人じゃないですか」

「まあそうだけどさ」


 忍はポケットからガラケーを取り出そうとして、気付く。

 今日はもう退勤したこともあって社有スマホを持ち歩いていない。いったん自宅に入らなければ連絡は取れない。


「会社スマホ、中にあるんだよね。連絡取るから待っててもらえるかな」

「はい」

「……あっち向いててもらえる?」

「あっち? ――ああ、暗証番号! ごめんなさいっ」


 美優が慌てて背後を向く。

 振り返る様子もなければ、覗き見を行う小細工もない。


 忍は電子錠を解除した。

 プッシュ音は出ない。オーダーメイドであり、音を出さないよう忍がオーダーしたからだ。


 ドアを開いた後、もう一度振り返ろうとし――


 美優が走り出している。


 全力疾走ではなく、のんびりと歩くわけでもなく。

 それはおもちゃを見つけた子供が近寄るような自然さで、でも速度は忍の目には不自然に早くて。足運びも帰宅部の女子中学生からはかけ離れていて。


 反射は発動しないが、意識で処理するには短すぎる猶予。

 まして独身のおっさんと華の女子中学生。相手を捉える意識にも大きな差がある。


 この時、美優は勝利を確信していた。

 玄関に入り、はしゃぐノリのまま二階に向かうつもりだった。堀山忍の自宅は、特に二階は謎に包まれている。だからこそ侵入先としては最優先なのだから。


 それでも美優は止まった。止まるしかなかった。


 忍のリュックサックだ。

 空間的に、このパンパンのリュックを無視して進むことはできない。体を傾けるか、飛び越えるか、踏みつけるかしなければ先には進めない。無視して進める余地が微塵も存在しなかった。

 それもそうで、忍がそうなるように置いたからなのだが、美優が気付くことはない。あまりに自然に置かれた障害物は心理的に死角となる。美優はなぜ自分が立ち止まってしまったのかさえ理解していない。


「おー、おじさん家、綺麗ですね」

「勝手に入ろうとしなかった?」

「テンション上がっちゃいまして」

「不法侵入だから気をつけてね」

「ごめんなさい」


 忍は語気を強めたつもりだが、美優は素直に受け止めたようで、申し訳無さそうにしゅんとする。

 数秒の沈黙の後、忍がいったん中に入ろうとしたところで、


「あ、そうだ。私が繋ぎましょうか?」


 美優は自身のスマホを掲げている。それは何の保護も装飾もなく、画面も割れていなかった。


「私からの着信ならすぐ出てくれると思います」

「……それが早いね。そうしてもらおうか」


 スマホをくりくり滑らせる美優。

 何度かタップを経た後、耳に当てて。


「――今、おじさんといるんだけど、おじさんが話したいんだって」


 その様子を忍は黙ったまま見ていた。

 フィラー言葉もなければ「もしもし」の一言さえも無い。そのビジネスライクさは忍の同期であり、彼女の母親でもある中田高奈を彷彿とさせる。


「説明もおじさんがするってさ」


 地味に丸投げである。「はい、おじさん」美優がスマホを渡そうと、一歩近づいて――


 ガッと派手なつまづきだった。

 わざとらしさはないが、それにしては勢いが強い。


 目的を悟れない忍ではなかった。

 スマホを家の中に放り投げる気だ。まだ侵入を諦めてないのである。

 常人なら反応は間に合いまい。スマホは家の中に入り、壁にぶつかる。この速度なら少なくとも傷は入るだろう。故障の可能性にひきずられて警戒心は緩くなり、侵入を許してしまうことになる――もっともそれは常人に限った話だ。


 ぱんっ、と。


 ミットのような小気味良い音が響いた。


「え……」


 美優のスマホは、忍が伸ばした手に収まっていた。

 ちょうど背面を受け止めている。指は無闇に曲げておらず、マジシャンのように手のひらで器用に支えているのは潔癖だからか。


「おじさんすごいっ!」

「危なかったね。ケースくらいはつけた方がいいんじゃない? ってあれ?」


 忍はが、美優は実は通話をかけていなかった。


「通話切っちゃったかも。受け止めた時に触れちゃったかな。悪いね」

「いえ、とんでもないです!」


 ぺこぺことマイクラのように頭を上げ下げする美優にスマホを返す。


「時間を潰す場所だけど、駅前のカフェはどうかな? この前友達といたのを見たよ」

「……そうですね。そうさせてもらいます」


 忍は通話の演技にも白を切り、目撃談まで混ぜて代案を提案してみせる。

 高奈はシングルマザーとはいえ経済的には裕福だ。お金の心配は要らないだろう。一人での宿泊さえ許してもらえるほど放任なのもわかっている。


 美優もこれ以上は思いつかないのか、それとも諦めたのか、


「ありがとうございました」


 最後に一礼をして、敷地から出ていく。

 恥ずかしそうに足早に去っていく様は、とても演技には見えない。


 軽く見送った後、


「女優とか向いてそうだな」


 忍は他人事のように呟いて、リュックを持ち上げた。


 女子中学生とは思えぬ心理戦のはずだが、忍に猜疑心は無い。

 この程度の攻防など負荷にもならない。日常生活で生じる諸々の負担と大差無いからだ。ならば疑う理由もないし、疑うという発想さえも持たない。

 自分や自宅に興味を持たれているのも、若い女子の考えることはよくわからん、で済ませていた。


 ドアを締める。

 自動でロックが入る。


 先のやりとりは休憩になっていたらしい。

 身体も、精神も、神経も冴え始めている。動かして動かしたくてたまらない。


「んっふふ」


 忍は顔を緩ませながら、ダッシュでリビングへと向かった。

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