23
さくらを完全にスルーした後、忍はトイレに入っていた。
「ふぅ……」
下腹部に構えていたトイレットペーパーを丸めて便器に捨てる。
絶頂の後に訪れる尿意と便意も待って、まとめて排出した後、便座を閉じて水洗。踏みスイッチ式の自動ドアを出て、洗面台で手指を洗う。水分はタオルで念入りに拭き取る。
物静かな二階の廊下で、階段をぼうっと眺める。
忍もまた男であり、性欲も健在だった。
むしろ人並以上に健康で頑強な上に童貞でもあるため、持て余しているしこじらせてもいる。健在どころか旺盛と言えるだろう。
それでも幼少期からの鍛錬の賜物で他者に悟らせることはないし、必要なら行為の最中で性的興奮が最高潮の時でさえ平静に戻せる。忍にとっては造作も無いことだ。
とはいえ、一人暮らしにおいては無理に抑える必要もない。そもそも前立腺を始めとする各種器官を健康に保つため、また男性ホルモンの安定のためにも定期的な自慰行為は推奨される。別に長生きするつもりなどない忍だが、身体能力は屋台骨。それを司るホルモンバランスへの注視は必須だったし、切除などもっての他だった。
「思えば初めてだよなぁ……」
忍の脳裏には、午前中、共に過ごした後輩が浮かんでいる。
鋭敏かつ繊細ゆえに、鮮明に覚えている。
姿も、声も。
匂いも、感触も。
そういうものに好意を持たれた経験など無かった。
自分もまた男であり、警戒もしていた。だからこそ遠慮なく胸を揉むなどという行動を起こせた。忍の目論見では、あれで完全に恋愛や尊敬の対象から外れたはずだったのだ。
――女は厄介だが単純だ。生理的嫌悪感を忘れるな。一滴こぼすだけでフラグは折れる。
――それでもついてきたら?
――ご愁傷様じゃな。
珍しく破顔した祖父の顔が思い起こされる。
――女は
――ならん。生物は草鞋にはならんよ。
――草鞋とは道具だ。道具に意思は無い。意思を持つ生物は、草鞋にはなりえない。
「……なるほど、たしかに厄介だ」
普段は一秒たりとも迷わない忍が、たかが後輩一人ごときに動きを止めている。
どころか彼女と歩む人生を妄想し、想像し、検討し、シミュレーションさえしてしまっている。
忍はその場で倒立を行い、片手を離し、さらに指を立ててから腕立て伏せを始めた。
筋力、バランス感覚、
一分後、忍は配信部屋に入っていた。
今日の収録にはまだ数時間以上ある。
家事もないし、トレーニングもサテライトオフィスからの帰りで走りながら済ませた。
「リズム建築の練習でもしとくか」
リズム建築。
ノーツールノーカットで行えるのは全世界でもノブだけだといわれるマイクラパフォーマンスであり、曲に合わせてブロックを置き、曲が終わった直後にちょど建築が完成するというものである。
ティーラーズが抱えるコンテンツの一つでもあり、社会現象を巻き起こす楽曲が出る度に追従しては、毎回数千万回以上、たまに億超えの再生回数を叩き出す。
見応えは建築物よりもその過程――ブロックを置いたりインベントリを操作したりテレポートコマンドを打ったりする速度と、一度たりとも間違えずリズム感も狂わせない正確性だとされる。あまりに人間離れしており、視聴者や有識者を人間派とチート派に二分している。動画のコメント欄は統制もあって荒れていないが、匿名投稿サイトでは何年も前から未だに議論激論が交わされている。
タン、タタン、タッタタタンッ――
タタタン、タタタン、タッタタタン――
必要アイテムといくつかのお手本が用意された
建築物と必要ブロックおよび楽曲は別のスタッフが準備する。忍の役割は、与えられたブロックを使って、曲のリズムと長さを逸脱せず、何をどのように配置して完成させるかを探すことである。もちろん収録時はノーカットのため一回のミスさえも許されない。
さすがの忍もアドリブで行えるものではなく、かなりの練習と試行錯誤を必要とする。
まるで正解を探す棋士のように、忍は深く潜り込んでいた。
たっぷりと練習を済ませ、収録も終わって午後八時すぎ。
いつものようにクラバーの一室に集まって、テーブルを囲んでいた。
「お疲れ私~、お疲れ麗子、お疲れナナス~」
「一人抜けてるぞ」
「どうせアンタは疲れてないでしょ」
今日も定番コンテンツのマンハント――忍のエンドラ討伐をラキ麗子ナナストロの三人チームが阻止する収録だったが、二時間を待たずに忍が勝ち抜けた。
ハイライトはピグリン要塞での混戦だろう。ろくに装備も整ってない中、
少ないであろう撮れ高を意識してのパフォーマンスであり、忍も全力で乗っかって
「ウォームアップにはなったな」
「うぜっ」
感想戦は収録中にサクッと済ませたし、だらだらと話し込むメンツでもない。ナナストロあたりはもうログアウトしているはずだが、ラキの方を見ているだけだ。「まあいいけどね」ラキの一言だが、ぐふっとでも聞こえてきそうないやらしさが滲んでいる。
反射的にエスケープキーに手が伸びた忍だが、逃げたところで意味はない。
どちらかと言えば苦手意識だろう。距離感をわきまえている麗子やナナストロとは違い、ラキは遠慮なく詰めてくるところがある。会おうと誘われたことも一度や二度ではない。
いかんな、と忍は無言で頭を振る。
今日美咲と過ごした件が尾を引いている。思えばラキからも同じ臭いがしなくもない。今日のような性格の悪いムーブは数多くしているし、スクラボでも何一つ遠慮せず容赦もなく書き込んでいる。社長から直々に「もうちょっと労ってやれよ」と言われたまである。
昨日までの自分なら気のせいだ、自意識過剰だと切り捨てていたが、どうしても美咲というn=1の事例が頭をよぎってやまない。
「今度オフ会するから」
「――は?」
「ようやくアンタの顔を拝めるわけね。どうせ陰キャでチー牛で色白で目立つほくろがあってメガネかけたヒョロ男でしょ? いじめてやるから覚悟しときな」
「は?」
「社長も同意した」
麗子が淡々とトドメを刺しにきている。
「聞いてないし、読んだ覚えもないし、俺は同意してねえけど」
「今、社長がまとめてると思う」
「これじゃない? 【第一回コアメンバーオフ会】 【コアメンバー全員集合のオフ会を行う理由】」
麗子の予想は正しく、ナナストロがページを二つ示してきた。
コアメンバーとは今集まっている配信者四人と社長を含めた五人を指す。社長が直々にまとめていることや、ラキ達には事前に知らせ自分には知らせていないこと、そして他のスタッフ含めた全員ではなくコアメンバーに絞っていることなどから、忍は「マジかよ……」秒で状況を悟った。
ルーティンにうるさい忍はもう配信部屋から出るつもりだったし、自分の過ごし方は基本的に曲げない。が、今はそうも言ってられない。
「悪いけど全力で阻止させてもらう」
「そんなアンタを阻止するわ」
「そんな二人を眺める私」
「そんな二人を眺める麗子を眺めるぼく」
間もなく【コアメンバー全員集合のオフ会を行う理由】ページに四人全員のカーソルが出現した。
<第一部 終>
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