21

「相変わらず目ざといわね」


 ヘッドセットをつけた高奈は、自宅でフレッシャーレース杯を観戦していた。

 個室のデスクには二本のモニターアームが伸びており、右にはチャットツールSlackが、正面には社内の動画サイト――広大な溶岩湖の上でひたすら半シフトを行う忍の姿が中継されている。


「そういえばマイクラ研修のときも一人で遊んでて浮いてたわ」


 クラバー――マイクラバーチャルオフィスを仕事で使う際は、作業よりも対話がメインになる。仮想世界でキャラクターを動かすことを除けば、本質は現実リアルと変わらない。人見知りは気まずくなるし変人は浮く。なまじワールドが広いだけに、その気のない者はかんたんに孤立してしまう。


 JSCに入社するほど優秀ならそんな者はそうはいないと高奈は信じていたが、忍は違った。

 入社当時から人付き合いが苦手で、変人で、その癖頑固で。仕事や研修でなければ誰も関わりたがらなかった。


「チームプレイもできないと思ってたけど、少人数だといけるのかしら」


 コンコン、と何度も聞いた娘のドアノック音。

 といってもドアはもう開いている。高奈は干渉されたくない時だけ閉める運用をしていた。逆を言えば、開いているなら自由に入っていいし、ノックも要らないのだが、美優は変に律儀である。


「おかわり要る?」


 片手にはトレーが載っており、紅茶が二カップ。優雅な香りが高奈の鼻をくすぐる。


「要る」


 高奈がモニター越しに答えると、美優が入ってくる。

 デスクを越えてくるほど無作法ではない。コンプライアンスの概念はとうに教えており、家族とはいえ軽率に仕事中の画面を見ることを高奈は許さない。


 美優はそばの丸椅子を引き寄せ、向かい合う形で座ってトレーを置いた。

 高奈は空のカップを返した後、湯気の立つ手前側のカップを手に取り、ずずっと嗜む。


「仕事中よ」


 カップは二つ。居座る気マンマンの美優への指摘だ。


「観戦中にしか見えないけど。あっ、ごみも捨てちゃうね」


 デスクの後方には空のペットボトルが転がっていた。

 美優は返事を待たず、デスクの横を通り過ぎる。ペットボトルを器用に腕ではさみ、そそくさと退散せんとする。


 美優は知っている。

 高奈が画面の覗き見にも厳しいことや、覗き見してこないかモニター越しに警戒してくる時があることを。一方で、こうして懐を許す程度には緩いことも。


 美優はその上を行く。

 モニターに映らない角度からチラ見すればいいだけだ。視力にも動体視力にも自信がある。これだけでも結構な情報がわかるし、事実そうやって高奈の仕事やJSCについて情報を集めてきた。元々これといった目的は無かったが、今は違う。熱も入るというもの。


 退散際のチラ見で目に入ったのは、ネザーで橋を架けている光景。

 周囲にはマグマの海しか見えていない。もう長らく架け続けているのだろう。失敗せず半シフトを続けている点で少なくとも素人ではないが、別段珍しくもない。上級者ならできて当たり前だ。

 クラオでネザライトランクを誇る美優にとっては、わざわざ目に留めるほどではなかったが。


 耳が違和感を捉え、美優の両目が見開かれる。


 ブロックを置く間隔が半シフトにしては少し早い。

 間隔の乱れも少なく、まるで機械のように一定のリズムを刻んでいる。


 


 美優の目はプレイヤーの頭上、ゲーマータグに吸い寄せられていた。

 そこにあった名前は、堀山忍――


「……マイクラの大会?」


 美優はかろうじて興奮を抑えた。それでも発声は避けられなかったし、力を加えたのだろう、はさんでいたペットボトルがべこっと鳴った。


「ノーコメント」

「ごめんなさい、目に入っちゃって」

「別にいいけどね」


 いったん部屋を出て、リビングのペットボトル入れに手持ちを放り込む。

 シンクの食器が目に入ったので、ついでに片付けることにする。


 レバーを上げて水を流す。


 水流がシンクを叩いている。


「同姓同名じゃないよね。おじさんだよね?」


 てきぱきと手を動かす美優の、その口元が――口角が上がった。


「おじさんはやっぱり嘘つきだ」


「マイクラは下手って言ってたよね? 634日前も言ったし、93日前も言った」


「あの音色は私でも奏でられないよ? 冴えないおじさんが三ヶ月でできることじゃないよ?」


「ママもおじさんは下手って言ってた。


 カチャッ、と最後の食器が置かれる。

 美優は泡立ったスポンジを水流にくぐらせ、握った。


「ねぇおじさん。何か隠してる?」


 ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっ――


「気になるなぁ」


 美優は一点を見つめたまま、洗剤の抜け切ったスポンジを何度も何度も握っていた。




      ◆  ◆  ◆




 午前11時3分。

 忍と美咲はサテライトオフィスを出て、近くのファミレスに入っていた。


「時間早いと人少なくていいですね」


 ビジネスマンよりも親子が多く、親子よりも老夫婦が多い。席は八割以上空いている。

 二人は窓際のテーブル席で向かい合っており、既に注文も済ませている。手持ち無沙汰の中、美咲が口を開いたのだった。


「ああ。朝型は得しかないからおすすめだ」

「私はどちらかといえば夜型なんですけどねー」

「待ち時間多いでしょ。ラテマネーと同様、バカにならない」


 忍はそっぽを向いて喧騒を眺めたままだ。

 その横顔には何の弛緩もなければ緊張もない。結構距離を詰めたはずなのに、ノーダメージに見える。揉まれた件を問い詰めた時は冷や汗も流していたのに。


「わからないです。家事は勝又に任せてるので」

「お嬢様だ」

「はい、お嬢様ですよ。そんな私にビビらない先輩が好きです」

「ぐいぐい来る」


 はははと本当に困惑してそうな横顔を見て、美咲も頬が緩む。


 注文していたメニューが到着した。

 美咲はパスタ一皿で、忍はハンバーグセットにライス大。


「感想戦でもします?」

「スクラボでいいでしょ」

「今したいです。忘れないうちに」


 パスタを口に含む美咲。

 自覚はないが、一通り仕込まれている。その洗練具合は、目の前の先輩にも縁がなかったらしく、ほんの少しだが凝視を受けた。嬉しくてまた顔がほころぶ。


「喋りながらだと行儀が悪いでしょ」


 痛いところを突かれたが、元より美咲は無価値の烙印を押された娘。プロや芸能人のように振る舞う必要など無いし、バックについている実家が厚いことを除けば、ただの有象無象の一社会人にすぎない。

 それでも染み付いた諸々が反射的に抵抗するが、美咲はすべてを振り切った。


「TPO次第です。今は先輩だけだし、構いませんよ」


 とはいえ公衆の面前である。・もごもごしながら喋る美咲の内心はばくばくと忙しくて、「公衆の面前でもある」と忍もまさに指摘を刺してくる。


「別に見られてはいません」

「オフィスの近くだし、窓際だし、知り合いが通るかも」


 忍はわざわざ窓の先を指してみせた。

 それはオーバーなジェスチャーで、ちょうど通りすがっているスーツ姿のリーマン二人組がこちらを向いた。


「構いません」


 もごもごと、しかし断固とした意思を前に、忍の返答は嘆息。

 それがおかしくて、美咲は吹き出しそうになる。さすがに口は手で塞いだ。


「吐くなよ。汚いから」


 とっさに出たのだろう、中途半端な暴言が見苦しい。

 距離を置きたいならもっと大胆になればいいのに。それができず、かといってスルーもできないのだ。


 美咲は反芻するかのようによく噛んだ後、ごくんと飲み込んで。


「はぁ……好き」


 熱を帯びた視線に気付かないほど鈍くはないだろう。

 しかし動揺するほど甘くもなくて、忍の手と口は止まっていない。その口はハンバーグの切れ端を追加で受け取った後、


「――それは告白だと解釈する。答えはごめんなさい、だ」

「断るの早すぎません?」

「自意識過剰でキモイでしょ」


 別に告白したつもりはないので確かに気持ち悪いとは思うが、一般論にすぎない。


 行動の正否は行動によって決まるのではない。

 その行動の主体が誰であるかによって決まるのだ。


「過剰じゃないですよ。忍さんのこと、好きになったんです」

「お嬢様にありがちな思考回路だな。そういうのを刷り込み現象インプリンティングという。性的搾取の常套手段だから気をつけろよ」

「今時はそういうものですよ?」


 最後の一言も距離を置くための小細工だろう。美咲は早くも適応し始めており、息するようにスルーした。


「気に入ったらとりあえず付き合って、それからお互いを知っていくんです」

「処女のくせに偉そうだな」


 ちなみに美咲が処女であり、忍が童貞であるという話はスクラボで交わし済。そこから風俗やセクシャルワーカーの話に広がっており、その是非の議論は現在進行系で続いていたりもする。


「さっきから言葉が過ぎてます。嫌われようとしてます?」

「あ、いや、そういうつもりはないんだが……」


 忍のフォークがハンバーグの上で止まっている。

 普段は全くブレないし、今も至って平静に見えるが、それでも図星だったのが意外らしく、フリーズと言っていいほど動きが止まっている。


「あははっ」

「……よく笑うね」

、しっかりしてるイメージしか無かったから狼狽してるのが面白くて」

「狼狽はしてない」

「じゃあ動揺」

「困惑だ」

「何が違うんですか」

「俺の精神は乱れていないから狼狽も動揺も当てはまらない。困っている事実があるだけだから困惑だ」


 面倒くさいうんちくも、オタクのような一息の早口も、この人と一緒だと愛おしく感じてしまう。


 もう美咲の胸中は振り切れつつあった。


「忍さんらしくて素敵です。スクラボでも言葉の使い分けを大切にされてましたよね」

「なんか馴れ馴れしすぎない?」

「話逸しても無駄ですよ。私、男性は苦手なんですけど、忍さんといると落ち着きます」

「だからインプリンティングだって」

「いいえ、こんなことは初めてです。忍さんだからこそです」


 忍の手元に目が行く。

 人目を気にせず、テーブルマナーも気にしない独身のおじさんのそれなのに、不思議と不快感が無い。一時間前の大会の、頼もしいデフォルトアバターの後ろ姿がなぜか思い浮かぶ。


 スクラボやクラバー上でしか接点の無かった先輩。

 それが目の前にいて、血肉を通わせて、自分と同じようにご飯を食べている。息をしている。


 そういえばハンバーグは久しく食べたことがなかった。

 まだ少し残っている――


 そこまで考えて、美咲は頭を振る。

 何でもないように見せているが、割と限界だった。耳くらいは赤くなってる自覚もある。忍はおそらく気づいているだろう。触れてこない優しさがこそばゆい。


「……その、これからマクロソフト案件で忙しくなりますよね。改めてよろしくお願いします」


 何とか真面目な話に戻して。


 それからもしばらくは和やかな時を過ごした。

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