15
五月六日金曜日、ゴールデンウィーク明けの午前9時10分。
忍は家から出たところで隣人と鉢合わせた。
「おはようございます。出社ですか」
自転車を掃除していたらしく、雑巾を持った手を止めている。
中田美優。
よく話しかけてくる隣家の娘、中学二年生。長袖半ズボンのジャージ姿であり、覗く素足は年相応に健康的だ。
帰宅部だと聞いているが、それにしては肉付きが少し強い。とはいえ女子中学生の生足はまじまじと見るものでもなく、忍が寄越したのも一瞬だった。
「ああ、まあ」
「ママは紅茶飲んでました」
「そうなんだ」
全身でこちらを向き、笑顔も
頭を上げる前に、もう歩き出している。
忍は振り返ることもなければ、彼女について意識することさえなかった。
経験上、自分のような
一方で、
ただでさえアラサー後半なのだ。若者の生態などわかるはずがないし、さして興味もない。
美優についても、そんなものかとスルーする程度でしかなかった。
◆ ◆ ◆
「……」
早歩きで遠ざかる隣人の背中を、美優は眺めていた。
「――やっぱり意識も緊張もしてない。ちょっと足を見られた気はするけど。ジャージは味気無かったかな?」
ふふっと微笑んで考察を締めた後、道路と自宅を交互に見る。
元々そうするつもりだった保健室登校か、思い切って休んでしまうか。さっさと自転車を片付けた後、間もなく忍が曲がり角を曲がって見えなくなったため、つられて前者を選ぶことに。
しばらく歩いて美優も曲がるが、
「え?」
忍の姿が無い。
「そんなはずは……」
地形的には大通りに出ている。とはいえ出入口一つのニュータウンであるため住民以外は通らず、交通量も少ない。
歩道も広く、スーパーやコインランドリーからおしゃれな飲食店や雑貨屋を始めとする様々な店舗も並んでいる。学生は見当たらないが、出社と思しきスーツ姿の男性や主張の控えめな私服女性がちらほら。
大通りの終点にはロータリーと駅があり、学生もリーマンも等しくあそこを目指すことになるのだが。
「どこに行った?」
美優はぎょろぎょろと全方向を見渡すが、違和感は無い。
コンビニはないし、周辺地形や忍の通勤ルートも頭に入っている。本社にせよ、サテライトオフィスにせよ、駅を目指すはずだ。「走った?」しかし、あの早歩きでも余裕で間に合わないし、多少走ったとして間に合う距離でもない。
全力で走れば間に合いそうだが、そんなことをする意味がわからない。
仮にしたとしても目立つし、通行人の反応にも表れるが、実際は表れていない。美優は自身の目を信頼している。表れていない。走っていないはずだ。
「みゆゆ~」
と、ここで同じニュータウンに住む――といっても駅チカの中田家よりもずいぶんと奥で徒歩二十分ほど離れているが――クラスメイトの声。
その手にはスマホ。ソシャゲの派手なエフェクトがちかちかしている。ちょうど顔を上げて、美優に気づいたのだ。
一方で美優はもっと前から気付いていたので、想定どおり、
「おはよう
あたかも今気づいたかのように反応し、差し出された両手も繋いできゃっきゃと揺らす。
もう深追いは諦めており、生徒の顔を被っていた。
◆ ◆ ◆
JSCは多数のサテライトオフィスを備えており、その気になれば一般社員でも新設できるほど社内プロセスも整備されてもいる。
最寄り駅から三駅先の終点、ターミナル駅とデパートが併設する賑やかなこのエリアにも一つ存在し、忍や高奈が本社よりも利用する場所である。
社員証をかざして入室し、予約していた会議室に入る。
午前9時41分。大会本番まであと20分であり、忍にとっては早すぎるくらいだが、美咲はそうではないらしく既に準備は万全のようだ。部屋の隅、最奥のテーブルを丸々占拠されており、一人分のスペースも開いている。
忍は隣に着いて、リュックからマイクライアント――マイクラ用シンクライアントを取り出し、セットアップしていく。マウスパッドを置き、有線マウスもつなげる。
続いてテープを取り出し、ケーブルの癖でマウスが引っ張られないよう固定していく。
「先輩は来ないかと思ってました」
「いやさすがにね」
通信技術の発達やインフラ環境への投資により、JSCでは
しかし大会、それも社内大会となるとそうもいかず、会社の回線をダイレクトに使うために出社が必要になる。インターネット経由で自宅から済ます方法もなくはないが、どうしても速度面や反応面で差が出てしまう。
「準備は万端?」
「はい」
「いくつか言いたいことがあるので聞いてほしい。できれば手も止めて」
忍が言うと、美咲はピタッとフリーズさせた両手をスーッと移動――自分の膝上にまで持っていった後、椅子を回転させ、ぺこりと丁寧なお辞儀を繰り出す。
忍もほぼ同時に反応して返す。
「今日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします。まず一つ目、上着は脱いだ方がいい」
「私、結構寒がりなんですが」
「どうせ緊張ですぐ熱くなる。宮崎さんのメンタルを攻めてるわけじゃなくて一般論ね」
美咲は「わかってます」と言いつつ、スーツの上着を脱いだ。
涼しそうなブラウスの、その胸部は押し上げられている。実は美咲は膨らみを強調する仕草を差し込んだつもりだが、忍は黙々とマウス感度を調整しているのみだった。
「……先輩は脱がないんですか?」
「俺は大丈夫」
「……」
「そんなまじまじ見つめてどうした?」
「いえ、先輩ってこんな感じなんだなと」
「ああ」
今日は美咲との初顔合わせでもあった。が、感傷に浸ることを忍は許さない。
「話は後だ。二つ目は――」
俺はこのゲームに限り、口調を端的にするから受け入れろ。
トイレは済ませろ。
水分は取らなくていいし、尿意が来るから取らない方がいいが、喉が辛いなら最優先で潤せ。
スマホとチャットの通知は全部切れ。
指示がない限り、俺より先行するな。
呼び方は宮崎と先輩で統一しろ――
どこか手慣れた様子に美咲はしきりに感心していたが、最後の一つだけは容認せず。
忍は美咲呼びすることとなった。
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