14

 ビルも無ければ鉄道の音さえ聞こえない、とある田舎。

 畑を見渡せる大きな屋敷の軒下には、猫が一匹と若い女性が一人、日光浴に溺れていたが、そこにぬっと影が差す。


「収穫。愛梨あいりも手伝え」

「だからぁ、休むために帰ってきたって言ってんじゃん。ねー」

「だったら彼氏の一人でも連れてこんか」

「お父さんまでそんなこと言うの? 仕事でそれどころじゃないのにねー」


 猫の一匹に顔を埋める愛梨。んにゃぁと悲鳴をあげられ、逃げられてしまう。

 ちなみに父ももう畑に向かっていた。帰省の度に趣味の農業に勧誘されるのはいつものことだ。深追いされないのもいつものこと。仲が悪いわけではないが、別に良くも無い。


 愛梨は立ち上がり、ワイヤレスイヤホンを装着。壁にもたれながらスマホをいじる。

 自身が所属するティーラーズのチャンネルからメンバーの一覧を開き、何度も見た動画一覧をスクロールして、適当にタップ。


「別に彼氏は求めてないけど」


 仕事でも散々聞き慣れた渋いボイス――特殊なボイスチェンジャーを介しているらしい――の神プレイを眺めながら、


「これだけは知りたい」


 さっき逃げたくせに、またすり寄ってくる飼い猫をしゃがんで撫でつつ、はぁとため息。


「今何してんだろ。一度でいいから会ってみたいよ。ねー」




      ◆  ◆  ◆




 壁一面を推しのポスターで埋めるのはオタクあるあるだろう。

 では写真はどうか。資料はどうか。

 捜査に従事する刑事や探偵のように。あるいは完全犯罪を計画する泥棒やテロリストのように。


「――社長もダメか」


 そう呟いた少女は、ティーラーズ社長の顔写真がプリントされた紙に油性の赤マジックでバツを引く。

 それは、いや、それらは壁に貼り付けられていた。厳密に言えば壁一面にホワイトボードが設置されており、その上に貼り付けてある。


 人物の写真が散らばっており、矢印があちらこちらに繋がっている。

 実写よりも絵が多いところにティーラーズの特色が表れている。仕事においてもはや本名や容姿は必須ではなく、ティーラーズでも採用時はともかく普段は全く求められない。彼女も自分の本名や素顔をメンバーには見せていないし、メンバーのそれも知らなかった。


「ガードが固すぎて逆に怪しい」


 彼女の目が社長の矢印を辿る。その先、中央にでかでかと貼り付けられたのは、ドアノブのイラスト。

 アバターもデフォルトスティーブで、立ち絵すら与えられていないほどふざけているのに、実力はさらにふざけている男。


「人間関係から探るのはダメそう。場所も全然わからない。じゃあ時間配分は? 生活は規則正しそう。拘束時間は学生よりも少ない。何のために。裏でもマイクラで遊んでる? それとも――」


 ホワイトボードの余白に、ブレストのようにキーワードを書き連ねていく。


「ふふっ、こんなに楽しいネトストは久しぶり」


 無表情のまま淡白に呟きつつも、彼女の頭と手は止まらない。




      ◆  ◆  ◆




「あー、惜しかったのぃ。PvP強すぎよキューリさん」


 キーボードとマウスから手を離し、ゲーミングチェアにもたれる。三枚のモニターだけが光源となっている、この薄暗い部屋では最年長の相棒ツールだ。小さな体躯を預けただけでもギシギシと鳴る。


 このバトルではもう勝ち目はないが、途中で抜けるとペナルティになる。

 隠したベッドのそばにリスポーンしたままの画面で彼女は席を立ち、部屋を出る。


「七瀬様。ルーム2の清掃が完了致しました」


 ちょうど鉢合わせたお手伝いさんメイドからの報告。

 この家には配信部屋が三部屋あり、汚くなれば次に移るという使い方をしている。機材は三セット分揃えているし、PC自体は別の部屋に置いてあるものを各部屋から繋いでいる。中継機構も完璧で、各部屋からボタン一つで繋がるし、今のところ誰かを招待する予定はないものの複数の部屋に同時に映すこともできた。

 このスタイルは、試行錯誤の末に見つけた彼女の最適解だった。


「ありがと」


 労いを受けて綺麗に一礼した後、リビングへ向かっていくメイドの背中を彼女は眺める。


 フィクションではお馴染みのメイドや執事は、リアルにも存在する。

 ただ庶民には縁がないだけで。


 彼女は違った。

 ティーラーズの配信メンバータレントであり、組織の方針で給料も折半、かつ社員も厳選されている。お手伝いさんにかけている金額は月70万だが、大して痛くはない。


 メイドの帰宅を待たずに、彼女は別の部屋に入る。

 床が抜けないよう特別に補強された書斎は、本棚の森であった。


「欲を言えばもうちょっと楽したいけどなー。マイクラも楽しいけどさ」


 活字中毒であり、乱読や雑読もするが、最近のブームはライトノベル。特に最強の主人公にフォーカスが当たった、いわゆるなろう系にハマっていた。

 ニッチなジャンルは好きじゃない。本来の彼女であればせいぜい一冊か、数冊読んで終わりなはずだが、かれこれ数十冊は読んでいる。


「こじらせてるのかも。ヒロインの気持ちがちょっとわかる」


 テーブルに積み重ねていた続きの本を数冊手に取り、採光の差し込むソファーに飛び込んだ。


「ノブ君になら養われてもいいかも」


 彼女は空想の世界へとダイブした。




      ◆  ◆  ◆




「見てみて弥生やよいさん、上手でしょ?」


 二の腕も太ももも露出したラフな格好の美咲がマイクラに励んでいる。

 八人掛けのダイニングテーブル。このアパートに置くには少々大きすぎるが、実家の屋敷でも使われていた高級ブランドであり、美咲が自ら働いて得たお金で買ったものだ。


 二席ほど空けて老婦が座っている。

 格好こそ庶民の域を出ないものの、楚々とした姿勢で紅茶を嗜む様の厳かさは職業病であろう。


「遊びに行ったりはしないの?」

「特に行きたい場所もないですし、連休明けに大事な仕事があるんです」


 宮崎家は由緒正しき家柄でもあるが、他家と違うのは現代技術のキャッチアップも行う点だ。老い先もそう長くないであろう弥生でもマイクラは知っており、そんなゲームのどこが仕事なんだなどと一蹴するほど無知ではない。


「……好きな人でもできた?」


 昔の美咲はこの手の話題であたふたしたものだが、もう社会人。「好きというか」手が止まることさえなかった。


「尊敬できる人です。その人と一緒に仕事をして、もっと高めていきたいと思っています」

「仲は良いの? 連絡取り合ったりは?」

「しないです……」


 勝又かつまた弥生は元宮崎家の執事であり、今は雇用延長の扱いで、現役の夫大五郎だいごろうとともに美咲を担当している。


 家柄ゆえに特殊で不自由な生を歩んできた美咲。

 いつでも一歩引いて付き合う子で、こんな風に誰かに興味を持つ様子は久しぶりのことだ。弥生は自然と微笑んでいた。


「ガードが堅い人なんです。仕事でも顔を見せてくれませんし」

「誘惑すれば?」

「ゆ、ゆうわく!? 何言ってるんですか弥生さん!」


 弥生の不躾な視線を受けて、美咲が両手で胸を隠す。

 発育は努力以前に才能であり、姉妹で最も恵まれたのが美咲だ。単に豊満というだけでなく、不思議と男の気を惹くバランスをしているらしい。実際に悪い虫を取り除いた事例は一度や二度ではないし、講師として招いたアイドルや女優も絶賛することが多かった。


「もう大人だし、遊びの一つや二つくらい、許してくれると思うわ」

「遊びってそんな……」

「二十代前半までに慣れておかないとのよ。こじらせた女ほど醜いものはない。急いだ方がいいわ」

「そういう時代でもないと思います」


 会話に気を取られてやられたらしい。美咲の手元の画面はゲームオーバーとなっている。

 ノートパソコンがパタンと閉じられ、美咲は椅子を引いてスペースを確保した後、あぐらをかきだす。もう現役ではないため弥生もいちいち注意しない。美咲もそれをわかっている上でそうしているのだ。


「あなた、ひとりで寂しく暮らすことに割り切れるタイプではないでしょう? 芸術に昇華したりオタクコンテンツに消化したりするタイプでもないし、権力や心理戦で掌握したいタイプでもないわよね? 性的指向も至ってノーマル」

「……」

「なら今のうちに深い付き合いを経験しておきなさい。正直言って仕事の研鑽よりも優先度を上げた方がいいわ。自覚が無いかもしれないけど、女という生き物はね、妄想と理想をふくらませるのが得意なの。育児や仕事で忙しくできれば逃れられるけど、あなたはそういうタイプじゃない。膨らませてるでしょ?」

「どうかなぁ、よくわかんないよ」

「現実の男を知っておかないと、どこまでも膨らんで取り返しがつかなくなる」


 二人の視線がしばし交錯する。

 美咲も姿勢を正しており、その格好にもかかわらず淑女のオーラを醸し出している。とうの昔に戦力外になったとはいえ、詰め込んだものは中々消えない。


 弥生は微笑を携えながら、たっぷり一秒間まばたきした後、立ち上がる。足腰の衰えは感じさせない。


「紅茶ありがとうね」

「もう帰っちゃうんですか?」

「寂しいなら友達や彼氏の一人でもつくりなさいな」

「うーん……」


 友達がいない。それは美咲にとって急所の一つだった。


 容易ではないことはわかっている。

 戦力外となった美咲に宮崎家としての価値は皆無だが、だからこそ汚点となってしまわないように執事勝又がついている。そのためだけに専属の執事を寄越すほどに周到であり容赦も無いのが当代であった。

 もちろん社会人になったところで剥がれることはない。この威光はJSCにも降ってきている。


 それでも。


 行動しなければ何も変わらないのだと。

 たとえ相手に迷惑がかかろうとも。


 本当にやる気があるのなら、腰を上げてみてはどうか――

 弥生はそう問うているのだ。


 美咲は考え込むと視野が狭くなる。いつもの見送りも来ない。

 玄関にて弥生は、「頑張り」ぽつりと励ましを呟きつつも、今後美咲のターゲットになるかもしれない誰かに胸中で同情した。




      ◆  ◆  ◆




「あー幸せ。子供体温最高」

「そろそろ抱きまくら買ったら?」

「美優が一番なのよね」


 スタンドタイプの常夜灯に薄く照らされた寝室のベッドにて、母が娘に抱きつく構図があった。


 ゴールデンウィーク初日の夜。

 中田家に旅行の予定は無く、今日もいつもどおりのんびり過ごしただけだ。母高奈は惰眠を貪る気マンマンであり、半ば嫌がる美優を強引に誘って今に至る。


「新しい彼氏でもつくる?」

「そんな暇は無いわねぇ」

「時間よりもやる気でしょ。私で発散されても正直うっとうしい」

「そんなこと言わないでよぉぉ」


 うええんと高奈が自らの顔を娘の胸にうずめる。

 大企業JSCの若手マネージャーにしてシングルマザー。容姿端麗で能力も高いバッチバチキャリアウーマンの高奈だが、決して順風満帆だったわけではない。その時代の反動は大きかったらしく、美優はしばしば退行した母を受け止める役目を負う羽目になっている。


「たぶんだけどママ、性欲を持て余してると思う」

「女は三十代が一番強くなるらしいわね」

「マッチングアプリで引っ掛けたら? いや面倒くさいか。女性用風俗?」


 おおよそ女子中学生から出る会話ではないが、美優の賢さは高奈も知っている。学業や運動と同様、性についても学習を先取りしており、こうした生々しい話も二人にとって日常の一部だ。


「そういうのはイヤ」

「嫌々言ってたら何もできないんじゃない? あとは会社で誰か引っ掛けるくらいしかないけど、立場上難しそうだよね」

「そうそう。もう職場恋愛する時代でもないのよ。女性もセクハラに気をつけないといけないし、リモートだから距離を詰めるのも難儀よ」

「ニュースで出てたもんね、JSCの女性管理職がセクハラで懲戒免職」

「……よく見てるわねぇ」


 ぐりぐりこすりつけていた高奈の動きが止まる。


「時々怖くなるんだけど」

「知能が高い子供はこんなものじゃない? 持て余してるから色々見ちゃうだけ。賢いから大体覚えてるし思い出せるだけ」

「そして可愛すぎる件!」


 抱きつきがさらにキツくなって、「もー」美優は苦笑を漏らす。


 立場上ストレスも少なくないはずだが、高奈は寝付きが良い。

 程なくして、すーすーと安らかな吐息が聞こえ始めた。


 美優は起こさないよう慎重に拘束を解き、隣で天井を見上げる。


「おじさん、今朝からずっといなかったなぁ……」


 あえて呟いているが、母に聞かせる意図はない。寝ていることはわかっているし、このくらいで起きないことも知っている。仮に演技をしていたとしてもすぐに読める。

 美優は観察眼も鋭い。この程度は造作も無いことだった。


 わからないのは、隣家で一人暮らしをしている独身だ。


「ママの同期なんだよね」


 美優も寝返りを打つ。目の前には、気持ちよさそうに眠る母。


 堀山忍には謎が多い。


 一人暮らしを好み、人の干渉も嫌っている風なのに実家の徒歩圏内に家を構えていること。

 JSC勤務とはいえ底辺の平社員であるはずなのに、うちよりも質の良い戸建を手に入れていること。

 こちらが窓を開けて過ごしていても、生活音がほとんど聞こえてこないこと。


 自分という女子中学生を相手にしても生理的なレベルで緊張が見られないこと。

 妹には嫌われているはずなのに、弟とその姪からは妙に懐かれていること。


 そして先日、夜間に裏山で出会ったこと――


「気になるなぁ……」


 母の寝顔を凝視する美優。

 その脳内は、どうやればこっちのルートから忍を探れるかの検討で高速回転していた。

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