10

 退社後、家事とトレーニングを済ませた忍は、実家ではなくキッチンに向かう。

 夕食の炊き込みご飯――ちなみに先日隣家からの微かな匂いに触発されたものである――をセットした後、リビングで読書を開始した。


 中央を陣取り、地面に置いたKindle端末を見下ろしつつプランクをしている。

 口元にはタッチペンが咥えられており、端末はこれで操作する。読んでいるのも組織論の本であり、393と表示されたページ数からその分厚さがうかがい知れた。


 部屋は妙に広々としている。家族向けニュータウンの一戸建てを一人で使っているのもあるが、何と言っても物の少なさであろう。

 忍の自宅は、言葉で表すならミニマリストの一言に尽きる。最低限の家具、家電、道具を機能性機動性重視で配置しているだけの味気ない空間であり、どこか物寂しい。絶対に付き合いたくない変人偏屈おじさん、とは妹さくらの評。


 読書を始めてから六、七分のことだった。


 ピンポン、とインターホンが鳴る。

 音に長音が混ざらないのは、単に忍が嫌うからである。細かい忍がこの自宅を建てる際に注文した事柄の一つだ。


 忍は息するように居留守を決め込む、が。


「しのぶっ!」


 ガラッと乱暴に窓を開け、小さな靴も脱いだそれは、一直線にこちらに向かってくる。

 忍はタッチペンを脇に吐き出し、端末も退避しながら「しーちゃんちょっと待って」一応声をかけるが、それは止まらず、どころか手前でジャンプをして――忍の背中に飛び乗った。


「ぐえ」

「しのぶ~」


 それは背中に抱きつき、グラグラと揺らしにかかる。

 忍のプランクはというと、着地の衝撃も含め無傷だ。そんな様子を見て呑気に笑いながら、それの父親――忍の弟拓斗たくとも入ってきた。


「玄関から入れよ」

「どうせ居留守するでしょ、したでしょ」

「まあな」

「しのぶー」


 さっきから背中への頬ずりをやめないのは姪の詩乃しの。齢四歳のわんぱくガールであり、拓斗の妻佑里香ゆりかだけでは手に負えず拓斗が世話することが多い。

 なお忍は本人からの要請でしーちゃん呼びをさせられている。


「しーちゃんも降りてくれない?」

「やっ」


 忍はプランクを解除し、どんと地面に打ちつける。これで痛めるほど脆くはない。


「一応聞くけど兄貴、大丈夫?」

「何ともないが」

「だよね。さすが」


 拓斗は地面であぐらをかくと、スマホを片手にだらけ始める。


「しのぶしのぶ、あそびたい!」

「あー、好きにしな」

「おうまさん」

「お馬さんは怪我してて動けないね」

「たたいたらなおる? あし?」


 詩乃は容赦なく太ももを叩いて、いや殴っているが、忍は「あぁ……」などとまるでマッサージ気分。くふっと吹き出したのは拓斗だ。


「ニヤニヤしてないで助けろ」

「しーちゃんの楽しみを取っちゃダメだよ兄貴」

「暴力的すぎない? 大丈夫って俺が聞き返したいんだが。教育的な意味で。女ジャイアンだろこれ」

「兄貴限定の愛情表現だから大丈夫だよ。ね、しーちゃん」


 娘の世話を丸投げした父親は、ついには寝そべる。

 この家にクッションの類は無く、床もフローリングで固いが、拓斗とて鍛えており筋肉もあれば痛まずに寝る程度の要領も持つ。べったりと仰向けで、我が家のごときくつろぎっぷりだ。


「ほら、パパが寂しがってるよ。行ってあげな」

「ぱぱはざこ。しのぶしかかたん」

「……何か吹き込んでね?」


 忍は真面目に疑問だったのだが、「んーにゃ」拓斗は雑に否定する。


 詩乃の懐きはおおよそ二年前からであり、今や拓斗が実家に遊びに来る主な理由の一つでもある。拓斗曰く、忍の肉体が好きらしい。感触も好きだが、特に頑丈なのがポイント高いとのこと。一向に心変わりしてくれないため、忍もとうに諦めている。


「兄貴も楽しみなよ。独身に子供のぬくもりは縁が無いだろ。セロトニン放出手段の頂点だぜ」

「こじらせた独身男性を舐めない方がいい」

「性的ないたずらでもするって?」

「かもしれないな。しーちゃん可愛いし、懐いてるし、抱き心地も良さそうだし、この年齢だと小さすぎて入るかわからないが妊娠もしないし、姪という点も背徳感があっていい。同人でもよくあるシチュエーションだよな、気持ちはよくわかる。現代では基本的に体験不可能なことアンリーチャブル・エクスペリエンスの一つだ」

「あはは、しれっと造語入れてんね」


 とんでもない会話だが、兄の、人を遠ざけたがる悪癖を知らない拓斗ではない。


 拓斗はスマホを置き、両手を後ろに組んで少し首を引く。

 娘にじゃれられている兄を見る。兄だけを見る。


 兄のことなら何でも知っている。


 一番一緒に過ごしたのは自分。

 一番競ったのも自分。

 一番話したのも、一番触ったのも自分――最後については、そろそろ娘に抜かれそうだが。


 だからこそわかる。


 女児程度でどうにかなる存在ではない。そういう性癖の有無こそわからないものの、表に出さなければ同じことだ。むしろ男という性の性質および現代日本の刺激を踏まえれば、持っていたとしても決しておかしくはない。有無自体は大した問題ではない。出さなければいいだけだ。


 そして忍という男は出さない。

 よく観察すれば身体の強さも感覚の鋭さも異常だが、それは言い換えれば、それだけの強さを獲得し維持し続けるだけの精神性メンタルがあるということ。


 精神性とは自己制御に他ならないメンタル・イズ・コントロール


 その支柱にもおおよそあたりはついている。

 性欲や性的好奇心が介在する余地はない。拓斗とて忍の足元にも及びはしないが、求道者であった。今は様々な知識を持っているし、応用する頭もある。だからわかる。


「兄貴は強い」


 小声だが、まるで言い聞かせるように言い放った。


「……お前もいいかげんブラコンを卒業しろ」

「ブラコンじゃなくて尊敬リスペクトね」






 キッチンには一体型の小さなカウンターテーブルがあり、忍はここで食べることも多い。今日は予期せぬ来客があり二階には案内したくないため、必然的にそうなった。

 机上の右側にはマイクラ特化型ノートパソコンのマイクライアント、左側にはまな板。

 まな板の上には一口サイズの炊き込みご飯が等サイズ等シェイプ等間隔で並んでいる。そこに忍の口が接近し、んがぁと開いて、一つを取り込んだ。


 もぐもぐする忍の目線は手元の画面に向いている。

 貧弱な装備とアイテムで鍾乳石散らばる洞窟を走り回っている。食料すら無く、積極的にゾンビを狩ることで腐肉を得ていた。何の変哲もない素のバニラハードコアマイクラ。


「楽しい?」


 拓斗は忍の隣で直立しており、すやすやと眠る娘をおんぶしたまま画面を見下ろしている。


「楽しいっつーか、快適?」

「さすが」

「お前こそ楽しいか、おっさんの無言のマイクラなんか見てて」

「楽しくはないよ。居心地が良いだけ」

「快適じゃんかよ」

「たしかに」


 ガチャガチャと打鍵し、カチカチとクリックし、カタンカタンとマウスを高速で置き直す――RTAのごとき落ち着きの無さなのに不快感が無いのは贔屓目だからか。リズミカルだからか。それとも連打が早すぎて音の断続性が小さいからか。


 拓斗は黙ったまま見下ろし続ける。

 忍も特に気にはしないし、会話を振るような真似もあまりしないが、


「さくらが来る前に帰れよ」


 そろそろ実家では晩飯の時間だ。拓斗がここに顔を出すことは知られているし、さくらにとっては母も妻もいない水入らずで過ごせるチャンス。拓斗目当てで迎えに来ることも一度や二度では無かった。


「解禁すれば?」

「やだよ。コイツを舐めすぎだ」


 忍が目で画面内のアバターを指す。

 ただのデフォルトアバターだが、言わんとしていることがわからない拓斗ではない。


 忍の正体はティーラーズのメンバー『ノブ』である――


 拓斗は秘密を知る数少ない人物の一人であった。


「警戒しすぎだと思うけど。さくらも似たようなものでしょ」

「全然違う。格が違う」


 忍の偉そうな物言いは決して大げさではない。


 ノブのチャンネル登録者数は3000万人。

 国内では数えるほどしかいない四桁万人の一人であり、二桁万人のさくらとは次元が違う。ジャンルこそマイクラでしかないし、ティーラーズでも一切の取材を拒否しているためテレビ界隈ではあまり知られていないが、ネット界隈における知名度と希少性は大物の芸能人やスポーツ選手にも勝る。


 収入だってそうだ。ティーラーズのメンバーで折半してもなお、さくらや拓斗程度では遠く及ばない。自宅のローン一億円も、実はとうに返済している。

 この事は貸主の父と拓斗しか知らない。別の言い方をすると、父も忍がノブであることを知っている。それはともかく。


 3000万という数字は――元チャンネル登録者数日本一の実績は、非常に重い。


「優秀なくせに、そういうとこは鈍いよな」

「テレビもネットも別に興味無いしなぁ。それにこういう無知はギャップになるんだよ。完璧超人は好かれない」

「牽制にも使えそうだな。世俗を知らないお坊っちゃま感を出せる」

「兄貴らしいキモイ発想だね。隠してばかり、誤魔化してばかり、腫れ物扱いされてばかりの人生――窮屈じゃない?」


 拓斗の完璧超人もまた過言ではなく、よほど尖った天才やプロでもなければ、勉学だろうとスポーツだろうとゲームだろうと拓斗を負かすことはできない。

 実際に子供時代も、学生時代も、社会人になってからも拓斗は何かと無双し続けている。勤務先マクロソフトではそろそろ年収が3000万に到達する。現在マネージャー職だが、飛び級ポストへの推薦もうるさい。


 そんな拓斗が、尊敬し敬愛し兄に対しても同様の所作を求めるのは不思議ではない。


「オレはさ、兄貴の良さを知らしめたいんだよ」

「そんなことは望んでない。目立って何になる?」

「少なくとも見下されるのは我慢ならない。さくらとかたまに殴りそうになる」

「物騒すぎてわろた」

「……」


 日常でも配信者としての台詞が出てくるのは職業病と言えるだろう。拓斗は指摘することもできたが、頑なに自分を隠す兄が癪であるため、あえて言わないでおいた。


「本当はしーちゃんにも隠したいんだぜ?」


 今は眠っているが、娘の詩乃も忍がマイクラで加減無く遊ぶ様子を何度も見ている。


「小学生になったら隠すからな――来たぞ」


 直後、ピンポンとインターホン。


「よくわかったね」

「わかりやすすぎる。近所迷惑レベルだろ、あの足音」

「しーちゃん、起きて」


 このままでは帰り道がさくらと二人きりになってしまう。拓斗が即行で娘を起こしにかかる様に、忍は思わず吹き出したが、すぐに真顔に戻して、


「――面倒ならガツンと言ってしまえよ。一緒に妹に嫌われようぜ」


 ピンポンピンポンと連打で鳴らされている。

 さくらも要領の良い人物であり、ゲームが得意でもあるからか、ボタンの押し方のコツはとうに掴んでいるようで連打スピードも中々だ。


「さくらは正直どうでもいいんだけど、今それをやると兄貴が疑われるね」

「あー。私のお兄ちゃんがなんで? 忍のせいでしょ! となるわけか。じゃあ先にブラコンを卒業してもろて」


 呼び鈴は鳴り止まない。

 さくらは忍とは顔を合わせたくもなければ、足も踏み入れたくないため、こうして拓斗だけを呼び出そうとする。拓斗が出るまで止まないだろう。


「だからリスペクトだって言ってるでしょ。そんでリスペクトに卒業の二文字は無い。未来永劫続くんだ」

「重いって」

「あはは」


 拓斗がリビングを去っていく。

 さくらの鬼連打もあって、一度寝ると中々起きない詩乃も覚めたようだ。目が合うとうるさいし、位置的に合う可能性が高いと瞬時に読んだ忍は、射線を切った。

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