8

 自宅に戻った忍は調達した食材を片付けた後、小さなリュックを背負って庭に出る。開けたままにするほど無用心ではなく、電子ロックで施錠する。


 道路には出ずに、塀を越え、川を渡り、その先の擁壁も一息で登った。

 裏山の正規ルートは隣の中田家の先にある小道だが、人と会って挨拶するのが面倒なため、忍はこっちを使っている。闇が広がり、起伏が激しいにもかかわらず、ろくにライトも点けずに進んでいく。


 五分を待たずに、いったん明るくなる。

 従来ルートだと徒歩で二十分以上かかるが、ここだけ裏山の敷地外となる。木々が少なく空の拓けた、しかし寂れた公園であった。

 ぽつんと立った街灯が周囲を弱々しく照らしている。ニュータウンが整備されて久しく、この辺りは民家の一軒もない。大きな川へと通じるため夏季の日中は人通りもあるが、春の、しかも夜となれば人気ひとけは皆無だ。


 だからこそ、その存在は想定外であった。


「――おじさん?」

「美優ちゃん?」


 最初に声を発したのは美優。素顔は見えないはずで、シルエットから断定されたわけだが、忍も出来るため何の疑問も抱かなかった。


「何してるんですか?」

「いや、俺の台詞だけど……」


 古びたベンチに静かに座っている。薄暗くて見えづらいが、動きやすそうなジャージである。

 そばにはバッグがあり、とっさにタオルを突っ込んだのを忍は見逃していない。


「森林浴です。静かだと落ち着きますよね」


 忍は「ふうん」とだけ返してから、すぐに歩みを再開する。


「答えてくれないんですか? 怪しいですねぇ」

「いや、天体観測だよ」

「荷物が小さいです」

「本格的な活動じゃなくて、単に暗い場所から空を眺めるだけ」

「ふーん」


 息するように嘘を重ね、美優から続く質問が来ないことを数秒ほど待ったところで、忍はもう一度足を上げる。


「ママに怒られるので内緒にしてもらえませんか」

「わかった。俺も家族に怒られるから内緒にしてもらえると助かる」

「わかりました。二人の秘密ですね」


 ピタリと上げたままの足を踏み出し、忍は見えなくなるほど離れていった。


 美優はその虚空を数分ほど眺めていた。


「――おじさんは嘘つき」


 クールダウンを開始しつつも、美優は口角を上げる。


「その先は険しいし、山頂まで拓けた場所も無いのにね」


 ベンチも使いながらも体をほぐしていく美優。

 帰宅部であり、スポーツ活動の公言もしていない中学二年生でしかないはずだが、明らかに手慣れている。


「山頂に行くのかな。何しに行くんだろう――気になるなぁ」


 美優の脳内から忍に関する記憶が引っ張り出される。


「中二の女の子は性の対象になる。地味だけど綺麗な子は密かにロックオンされる。おじさんがママの言う通りのモテない独身なら、そういう挙動は少しは表れる。あるいは少なくとも緊張は生じる。わたしはそれを見逃さない」


「おじさんには表れてない。今まで表れたことがなかった」


 独り言ちながらのストレッチが続く。


「さっきの接近にも気付かなかった。途中で足音を出してきたけど、本当ならもう少し早くから聞こえていたはず」


 美優がこの辺りを使い始めたのは最近だが、人目は避けてきたし、足音も響く。獣のそれと聴き間違えるほど無能ではないし、うっかり聞き逃すほど抜けてもいない。

 なのに気付けなかった。

 隠れる暇もなく、ハードな鍛錬を匂わせるタオルを隠して平静を装うのが精一杯だったのだ。


「普段から静音で行動する癖でもある? なぜ?」


 最後の伸びが終わったところで、


「気になるなぁ」


 美優の頬は緩みっぱなしだった。






「ただいま」


 自宅のドアを開けた途端、ブオォと掃除機の音が飛び込んでくる。

 掃除機の主、母高奈の手元が動いている。風量を弱にしたようだ。


「おかえり美優。ごめん、まだ風呂入ってない」

「シャワーでいいよ。ママは?」

「熱めでお願い」

「42度ね、りょーかい。あ、そういえばさっきおじさんと会ったよー」


 美優は玄関に腰を下ろし、脱いだ靴の紐を結び直している。


「前も行ったでしょ。無視すればいいのよ。向こうも挨拶なんてしてこないでしょ」

「手を振ったら会釈は返してくるし、声を掛けたら声で返してくるよ」

「でも相手からは来ないでしょ」

「視線は来る」

「いやらしい目で見られてない? 大丈夫?」


 掃除機が階段に差し掛かり、ガチャ、ガチャと遠慮無く段にぶつけながらも、てきぱきと上がっていく。


「へーきだよママ。わたし、まだ子供だよ?」

「前から言ってるよね。子供でも油断できない世の中だから気をつけなさいって」


 振り返ると、手を止めた母の睨みと目が合った。

 美優はにこっと微笑んで、「晩ごはん何だっけ。お腹ぺこぺこ」洗面所へと向かう足取り。


「……炊き込みごはんよ」

「やった」

「ごぼうたっぷり」

「うぇぇ」


 バタンと扉を閉め、手洗いうがいを済ませた美優はすぐに脱衣し、浴室に入る。

 入浴時間は同世代の女子と比べて極端に短く、高奈が「ちゃんと洗ってるの?」と心配するほどである。以前、一緒に入って手際を見せつけてからはなくなった。


 夕食は二人で食べるのが基本だが、三十分とかからない。高奈も美優も一人を好むタイプであり、別々に食べることもざらにあった。

 今日は珍しく三十分を超え、話題は主に隣人の忍であった。


 二階の自室に入り、鍵をかける。

 ガーリーな要素はあまりなく、物こそ多いが整頓は行き届いており、いわゆる「ていねいな暮らし」を想起させる。年頃の女子らしさはないが、美優が妙に達観している点は周知であるため今さら突っ込まれることもない。

 机は学習机ではなくL字。足元にはキャスター付きの土台の上にタワー型のPCが載っている。椅子も十万円以上する高級なゲーミングチェアであり、モニターはトリプル、キーボードもマウスも安物ではないし、マウスパッドも敷かれている。配信はしないためマイクやカメラの類は無い。その分、すっきりとした外観ではある。

 美優は着席する前に、窓際に寄った。


「おじさん――」


 カーテンの隙間から隣家の二階が見える。カーテンは無いが内部も見えない。

 どうも内側から仕切りを上げ下げしているようである。滅多に上がることはなく、ここ一年間では二回しか見たことがない。いずれも美優が学校をサボった平日の朝だった。


「気になるなぁ」


 美優は自分の賢さを知っている。

 個人情報として残したくないため正式な検査はしていないが、ネットで海外の高精度なIQテストを受けた時には150を叩き出した。そうでなくとも学業も運動も家事もゲームも、何もかもを人並以下の努力で人並以上にこなせてしまう。ネックは体力と身体能力だったが、それもトレーニングにより解消しつつある。

 母の高奈はすべて知っているが、目立ちたくないとの希望を尊重してもらい、普通の娘として接してもらっている。高奈も現在シングルマザーであるように色々あった。母娘の絆は強い。擬態は支障無い。


 しかし平穏とはつまらないもので、美優は刺激に飢えていた。

 もちろん安直に快楽を求めるほど愚かでもないし、学業やスポーツやボランティアに精を出すほど単細胞でもない。


 そんな中、美優の気を惹いたものが二つある。

 一つが今日改めて優先度の上がった隣人堀山忍であり、もう一つが――


「やった、更新出てる」


 中央のモニターではブラウザが最大化され、YouTubeが開かれている。

 間もなく再生されたのはティーラーズの、あるメンバーの個人チャンネルの最新動画。


 それはマイクラオンラインを遊ぶもので、レギュレーションはハードコアエンドラ討伐だ。

 プレイヤーは初期地点から渦巻き状に移動しており、早々に村を見つける。マイクラで村と言えば資源を強奪し、家を破壊するのがセオリーだが、その効率が群を抜いていた。まるで事前に予習したかのような動きである。


「あぁ、やっぱりノブだよねぇ」


 ティーラーズの顔であり、登録者数3000万人を誇るマイクラプレイヤー『ノブ』。

 マイクラオンラインでは最高位ネザライトランクレベル7を誇る。美優にとって別にネザランなど珍しくないが、この人は――ノブだけは違った。


「見てて全くイライラしないもんね」


 うふふと体を揺らしながら、美優は画面を凝視する。


 ノブの魔の手がアイアンゴーレムに伸びる。足元3マスブロックをつくらずに、ジャンプ攻撃の連続で最短で倒す。鉄は4個。バケツか、鉄のつるはしか――どちらでもなく、ノブがつくったのはハサミ2本。

 鉄が足りないのだろう、すぐに村を出て、一直線にどこかを目指している。道中の木はハサミで伐採し葉ブロックを回収。その効率も凄まじく、美優の目でもアラを探すことができない。あっという間に3スタックだ。


 目的地は、最初に渦巻き探索をしたときに見つけた穴のようだった。

 躊躇なく飛び込み、松明も無しに進んでいく。狭い洞窟内でもダジャブ――ダッシュジャンプブロックで走るし、MOBモブもスルー。


 間もなく鉄原石を見つけるが、そばにはスケルトン。音から考えて二体、いや三体いる。逃げねばならないシチュエーションだが、ノブは迷うことなく葉ブロックを置いていく。

 呑気に掘っている。

 カラコロとプレイヤーをビビらせる骨音がそばにある。なのに全く動揺はなく、鉄原石を3個掘ったノブはその場で石も掘り、かまどをつくって原石を焼き始める。ブランチマイニングでもするかと思いきや、MOBを狩り始めた。

 装備もなければ盾も食料もないのに、複数のスケルトンを殺していく。


 矢が放たれた。

 危ない、と心の中で叫ぶが、葉ブロックの音が割り込む。


「ノブロック! 早い! すごいっ!」


 一瞬で2ブロックを積んで飛び道具を封じるノブの十八番おはこ


 スケルトンの対処には通常盾を使うが、盾は構えるのには0.25秒を要する。矢が飛んできた後に構えても間に合わないのだ。

 だからといってブロックを積めばいい、とはならない。反射神経もエイムも連打もすべてが要求される。美優も練習中だが、安定には程遠いし、一生かかっても不可能な気さえしてくる。だからこそ、ノブロックを常用しているのも美優の知る限りノブただ一人。


「あぁ、わたしもやりたい。りたい、りたいなぁ……」


 美優の手元はもう動いており、マイクラを起動していた。

 ブラウザは右モニタに移して、中モニタでマイクラオンラインを起動。美優にとってゲームと動画の並行くらい容易かった。


 ちらちらとノブの勇姿を眺めながらもゲームに没頭する。

 手元ではガチャガチャとRTAさながらの激しいキータッチが鳴り、口元では時折独り言が漏れる。右を向いている時ははぁ、ふぅと吐息も漏れた。


 誰にも――高奈にさえも見せない、美優の顔だった。

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