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出社もしていなければ会議もしていない忍は、何ともお気楽なものだった。
フルリモートフルフレックスを欲しいままにしている。午後二時半には仕事をあがり、日課のトレーニングをたっぷりと済ませた後、夕方からティーラーズの個人収録。その後、味噌汁ご飯で晩飯を済ませつつ、動画作成担当との打ち合わせ。
忍が演じるノブの個人チャンネルはティーラーズの主力サービスであり、視聴者の九割は海外が占める。
当然ながら日本語だけでは通じないため、英語のテロップを入れるなど英語圏向けの編集が行われている。世界でもここでしか見れないスーパープレイをこなすノブは言うまでもなく最重要だが、それを上手く伝える編集担当も同レベルの要であり、この二人こそがティーラーズの屋台骨と言えた。
そして午後七時過ぎ。
「明日は収録無しだから――休むか」
忍は秒で決断し、仕事部屋に入って有給を申請した。
有給に理由は不要だし、報告も今日終えたばかりで、かつ次の仕事はまだ決まっていない。加えて忍は仕事と仕事の間のリフレッシュが大事だとかねてから主張しているため、上司品川もいちいち突っかかったりはしない。他の部下は残業もしているだけに不公平感は拭えないし、実際平社員から脱せない理由の一つでもあるのだが、忍は気にしない。
「トレーニングの比重も増やしたかったし、今夜は裏山にするか」
速やかに軽装を整えた後、いったん実家に寄る。
いつものようにメシを調達する。
勝手にタッパーを拝借し、冷蔵庫も野菜室も冷凍庫も漁って、何ならまな板と包丁も借りて下ごしらえも済ます。しかし洗いはせず、放置したままキッチンを去るのである。
そんな様子を、タブレットの手を止めて見つめているのは――母の
長男は視線に非常に敏感であり、かつ律儀でもあるため、必ず一度は合わせてくる。
しかし口は重く、特別な用事や空気でもなければ開くことはほぼない。もちろん、彼のために普段から多めにストックをつくっていることにも気づかない。あるいは気づいたところでそれに感謝することはない。もしくは感謝しているかもしれないが口に出すことはない。
リビングを素通りする。
足音は不自然に小さく、通りがかりの風圧も抑えられており、没した祖父の教育の影響が抜けていないことがわかる。ひょっとすると、普段はもっと抑えているが今はあえて雑にしているのかもしれないし、何となくそんな気がした。忍は格も歴も器も違う正真正銘の本物なのだから。
「うげ」
ばったりと
歌配信を終えたばかりなのだろう、片手にはペットボトル、口内にはのど飴。その鋭い目つきは遠慮無く長男を睨みつけ、手元のタッパーにも向かう。
「キモッ」
開口一番、その悪口が出る口癖にも困ったものだが、正直言って薫子も同感なので家族しかいない時はいちいち注意もしない。
「何その格好? 裏山にでも行く気? バカだから一応言っとくけど、もううちの所有地じゃないからね?」
このニュータウンには小さな山が隣接しており、元々は忍の祖父――薫子の父の所有物だった。
堀山家から直線距離で五十メートルもなく、昔は庭も同然であった。父の死去により管理が行き届かなくなり、ついには手放したのが去年のこと。
「言うまでもない」
忍は何一つ気にすることなく、歩みさえも止めずに家を出ていった。
ドアの開閉音は聞こえてこない。あるいは、もう少し若ければ薫子にも聞こえていたかもしれないが、三十代の息子を持つほどには年をとった。感覚は衰える。
さくらは表情で嫌悪感を表明した後、薫子の隣に座ってくる。
頭と頭が接触する近さで覗き込んでくる。
「何見てんの?」
「ウィキペディア」
「暇なの? カラオケでも行く?」
「行きません」
夫は相変わらず多忙を極めていてろくに帰ってこないし、子供は三人とも見事に自立している。特に野心も持たない薫子は、齢五十を迎えるが既に余生の意識を持っていた。
それでも家族仲は悪くないし、経済的にも裕福。時代錯誤の父ももういない。幸せと言えるだろう。
それでも薫子の脳内には引っかかるものが一つだけ、いや一人だけいる。
さくらですら違和感を抱いた格好に、薫子が気づかないはずもない。あれは十中八九行くだろう。
ピー、ピーと洗面所からアラームが聞こえてくる。
「乾燥が終わったみたいよ」
「いつも畳んでくれてありがとうお母さん」
「さくら。実家暮らしの要件は? さくらがサボってるよって、スクラボに書いちゃおうかなー」
ちなみに堀山家でもスクラボは導入されており、主に父とのコミュニケーションで使われる。
アクティブユーザーは父と忍であり、薫子と拓斗はたまに、さくらは稀に見る程度。
実家暮らしの要件は家事や納金などいくつかあるが、ちゃんとページとして残っている。守れなかった場合のペナルティもきちんと定義されたままだ。
「手伝います!」
「任せて、くらい言ってほしいけどなー」
「肩揉むから許して」
引っかかっていたそれは見なかったことにして、薫子は娘と仲良く腰を上げる。
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