2
実家を出た忍は三分と経たずに自宅に戻った。
解錠しようと、電子錠のパネルを開いたところで、
「お帰りですか? お仕事お疲れ様です」
隣の塀を見ると、二つ結びの童顔がひょこっと出ている。
中田
忍の半分未満の年齢であり、アラサー独身の忍とは最も縁のない生き物の一つである。現にこれまでの人生でろくに絡まれたことなどなかった――この家を購入するまでは。
「いや、実家からのおすそ分け」
忍は片手にぶら下げた野菜袋を掲げて見せる。色んな具材が突っ込まれており、走ってきたこともあってぐちゃぐちゃだ。美優は嫌な顔ひとつせず、ふふふと笑う。
「これからご飯なんです。よろしければ一緒にどうですか?」
「いや、遠慮――」
「こら美優! そいつには構わないの」
「えー」
美優の注意が逸れたのを見逃さず、忍はロックを解除――まもなく家に入った。それもボタンを押すスピードも速ければ、見えないよう右手で隠しもして、と露骨な態度であった。
悪気もあれば他意もある。忍は故意にそうした。
隣人、中田家は
これを運命と捉えるか、事故と捉えるか。
忍は後者であった。
仕事と私生活を分けたい忍にとって、前者を想起する同期などノイズでしかない。すでに会社での立ち振る舞いもあって嫌悪の対象にはなっているはずだが、娘が少々しつこかった。
別け隔てなく接するタイプのようだが、忍にとってはやはりノイズだ。
それも邪険にしておれば止むだろう――
忍はそう楽観視し、隣人を頭の外に追いやった。
手洗いの後はすぐにキッチンに入り、具だくさん味噌汁にご飯を入れた味噌汁ご飯を手早くつくってから水筒に詰める。持って帰ってきた具材も一部投入済。すぐに食べるため氷を入れて冷やす事も忘れない。
早速水筒を傾けつつ、二階の一室へと向かう。
一千万円以上を費やした六畳一間の防音室――ここが忍の仕事場であり、ノブの仕事場だ。
装飾や調度品は皆無に等しく、カーテンすら無い。窓はあるが、さほど大きくはなく、採光は室内のシャッターで制御する。今も降ろされたままだ。
この部屋にあるのは二台のスタンディングデスクのみ。
うち一台にはモニターが二枚並んでおり、マイクやキーボードやマウスも置かれている。
忍は水筒を定位置に置き、立ったままマイクラを起動した。
後半の仕事――『ティーラーズ』の打ち合わせと収録が始まる。
広々としたガレージ風の内装には五人のアバター。
「コラボしたいコラボしたいコラボしたいっ!」
天使が鐘を連打している。
「ラキうるさい」
そう呟きながらも、ピョンピョンとアスレチックを飛び回っているのは、セクシーな女ガンマン。VTuberのガワは豊満だが、さすがにドット絵では表現されない。それでもエロさは醸し出されているようで、エロガキやセクハラおじさんの視聴者が最も多い。
動きがやかましいのはこの二人であり、残る三人は六人掛けテーブルの椅子に座っていた。
中性的な美声がチャームポイントな異世界
VTuberのガワこそ無いもののダントツの登録者数を誇る事務所の顔、ノブ。
そして配信には出てこないが、この配信者グループ『ティーラーズ』を創設し、現在も辣腕をふるい続ける社長――
「どうして認めてくれないんですか? 社長しゃん、どうちて……」
声芸が得意なラキが幼女ボイスを出す。ちゃんと社長のそばに来て、スニークまでして甘えるかのようにすり寄っている。
「スクラボを見ろ」
「ノブは黙って」
パンチが飛んできたが、ダメージは通らない。
ここは『マイクラバーチャルオフィス』、通称『クラバー』のワールドであり、プレイヤーを攻撃するという概念はない。
マイクラことマイニングアンドクラフティングがベースとなっているが、ビジネス用のコミュニケーションプラットフォームとして整備された、れっきとしたバーチャルオフィスサービスである。
無反応の社長を見て我に返ったのか、渋々といった様子でラキも着席。机に小さなブロック――ノートパソコンのデザインをかたどったものを置き、叩く。
これはランチャーブロックと呼ばれ、特定のアプリやサービスを起動する。スマホではホーム画面に並んだアイコンから各種アプリを起動するが、クラバーではここワールドがホーム画面に、ランチャーブロックがアプリのアイコンに相当する。
「コラボしない理由はわかるんだけどさー……」
「いや、わかってない」
「配信者は普通コラボするでしょ。できない配信者はいても、しない配信者っていないでしょ。それくらい自然な行動だと思うの。なら私達も挑戦するのが自然よね」
「挑戦と無謀を履き違えるなよ」
「社長もこれでいいと思ってる? ノブのスーパープレイに頼るだけなの?」
忍の発言は無視されっぱなしだが、今に始まったことではないので誰も気にしない。
そもそも今、コミュニケーションの場はこの音声会話だけではなかった。
スクライブボックス、通称『スクラボ』。
いわゆるウィキと呼ばれるサービスであり、ページ単位で自由にテキストを書いたり、リンクを繋いだりすることができる。
リアルタイムに共同編集できることと、リンクで繋ぐことにより情報が
ティーラーズではこのスクラボも重用しており、社長と配信者の他、すべてのスタッフが毎日読み書きしている。チャットサービスはほとんど使っていない。
唯一の例外はDiscordで、特に配信者は
ポコンッ、とロビーにメッセージが出る。
忍がラキに宛てたもので、スクラボのとあるページへのリンクを張っている。
【コラボをしない理由】
そのまんまな名前のページだ。
数年前につくられたもので、既に社長による丁寧な説明が書き込まれており、要は忍はここに書いてあるだろと言ったのである。
ラキとしてもそれくらいはわかっていた。それでも諦めきれなくて、やってみたくて、こうしてみっともなく粘っているのだ。
忍はクラバーではなくスクラボを見ていた。
開いているページにはカーソルが出る。今はラキを除く四人全員のカーソルがあった。まもなくラキのカーソルも現れた。
Rakiとだけ書かれた四文字のカーソル。
スクラボはテキストを書くことに集中するため、余計な装飾はサポートしない。カーソルもただの線と文字にすぎない。
それでも人の癖は出るもので、ラキのカーソルは一段、また一段と一行ずつ下がっていく。まるで脳内でしっかりと音読しているかのような微笑ましさに、「可愛い」性別不詳の美声――ナナストロが反応している。
「真面目な話、ラキなら大丈夫だと思いますよ」
「同感」
ナナストロの発言に、相変わらずアスレチックに勤しむ女ガンマン中川麗子も同意を示す。「んー……」ここで社長が口を開いた。
「可能性の問題じゃなくて、方向性の問題なんだよね」
ティーラーズは少々、いやかなり特殊な組織運用を取っており、この名前の由来にもなっているティール組織の考え方を取り入れている。
「数字を取るとか偉業を成し遂げるとかいったさ、野望というのかな、そういうのは我々が目指すところじゃない。我々の使命はあくまでもプリミティブ・マイクラ――マイクラの原始的な面白さを啓蒙することだ」
「他の配信者や箱と絡めば、もっと面白くなります」
「それはプリミティブじゃない」
「じゃあ別の使命を掲げれば済むことです。手段にとらわれず視聴者を楽しませることが配信者のあるべき姿ではないのですか?」
忍はと言うと、二人のやり取りを黙々とスクラボに書いていた。
やり取りは書いて残すことが大事である。そうしてスクラボに貯めて、リンクで繋いでいけば、情報のネットワークはどんどん太く広くなっていく。組織にとってかけがえのない資産になる。
>相変わらずタイピング速いねー
ナナストロの書き込みが割り込んでくる。
>邪魔なんてあっち行っててください。これあげますから つ
忍もすぐに返したが、『つ』の次の一文字の入力はワンテンポ遅らせた。
そして書いたのは――うんちの絵文字。「ブフォッ!?」吹き出すナナストロ。それでも美声は維持できているのだから、大したものだと忍は他人事に考えた。
「君が楽しみたいだけじゃないのか?」
社長からキツめのストレートが飛び出している。麗子が「うわぁ……」と呟くほどであった。
数秒ほど沈黙があったが、
「そうです。私が――私達が楽しむのが第一ですよね」
ラキもだいぶ成長した。この程度で取り乱したりはしない。
いわゆる心理的安全性が担保されている。このような議論をしっかりと続けてきたティーラーズには、誰が何を言っても聞いてもらえる安心感が醸成されている。
「一理あるけど、コラボは君ら全員が楽しめる手段なのかな」
「俺は嫌ですね」
「おい渋ボ」
「私も勘弁」
「えー、麗子も?」
「ぼくも普通にイヤかなー」
「まあナナスはそうだよね」
既定路線と言えよう。
麗子は人見知りだし、忍とナナストロとプライベートを最重視する。
今のところ全員が楽しめるものはプリミティブ・マイクラ――初期ワールドから開始して何かを達成するという原始的な遊び方だけだ。そもそもティーラーズは、プリミティブ大好きな社長が世に広めるために立ち上げたものにすぎない。
「つまりコラボがしたいならラキの個チャンで頑張れ、ということになる」
「うー……」
ティーラーズにはメインチャンネル一本と各メンバーの個人チャンネル四本の計五本が存在し、個人チャンネルにはかなり自由が許されている。
どう作り上げるかは各メンバーの自主性次第であるが、最も勢力的なのが天使ラキ=キラだ。
たとえば心身的健康の観点からティーラーズはライブ配信もコラボ配信も一切行わないし、行わせないが、ラキ個人はよくライブもする。メンバーを説得して納得させたのだ。なら続けてコラボがしたいと言い出すのも不思議ではない。
しかし、ライブはともかく、コラボとなれば配信以外の作業量が激増する。問い合わせや打ち合わせなどやり取りの量も増えるし、会議など拘束も増える。スケジュールの調整や管理も必要だろう。そういった細々としたタスクは、本来の仕事たる配信にまで影響を及ぼす。くだらない雑務に苦しむクリエイターや研究者と同じ構図になってしまう。
もちろんティーラーズの配信に支障が出てはいけないし、コラボを想定しないこの事務所にはその手のスタッフも存在しない。ラキ自身もセルフマネジメントのスキルや素養を持っていない。持っていないからこそ他力本願にならざるを得ない。
「自分で仕事術を身につけるか? GTDについてはもうまとめてあるぞ」
「無理ですぅ……」
「じゃあ誰かを説き伏せるか」
「無理でしたぁ……」
ティーラーズにも裏方のスタッフは存在するが、皆、自らの矜持とバランスで動いている。
お金を出せば協力してくれるものではない。そもそもティーラーズの稼ぎは凄まじいため、誰もお金には困っていない。
「なら外から雇うしかないな」
「ううう……うわああああぁ!」
厳しい現実を突きつけられたラキの、その叫び声は、頭を掻きむしっているかのようだ。
実際は声が少し遠く、叫ぶ前にわざわざマイクから下がったものとみられる。忍の耳は高級な重たい椅子のキャスターをガーッと後退させる音もキャッチしていた。
ティーラーズにおいて最も難しいこととの一つが新規採用である。
ティール組織に社長権限や人事権限といったものはない。また、従業員の給料は折半だ。社長だから、3000万人のノブだから給料が高い、なんてことはなく、利益は従業員全員に均等に配分される。
つまり新規雇用すると分母が増えるため、単純に給料が減る。それも全員である。
逆を言えば、そうしてでも入れたいほどのメンツでなくてはならないし、価値があるのだと全員に示さなければならない。
既にコラボの需要がラキにしかないことがわかっている。少なくとも残る配信者三人は首を縦に振ることはない。
この時点で新規採用は絶望的で、ラキの悲鳴も頷けるものだった。
これでラキの議題は終了となる。
各自は黙々と過ごす。
収録前の、この時間は、全員集まってこそいるが自由時間だ。
雑談は控えめに。議論は遠慮なく。
しかし、たいていはスクラボで事足りるし、ティーラーズは締切の厳しい働き方も行わないため急用もほぼ無い。議題を持ち出すのは、喋りたがりでもあるラキであることが多かった。
結局、他の議題が上がることはなく。
おおよそ二十分前に解散――各自準備した後、いつものように収録が開始される。
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