第10話 フラグ
朝、朔司は必ず家の仏壇に手を合わせる。仏壇の中央には妻のひよりが朗らかな笑顔を浮かべる遺影があった。彼女との声なき対話をする朔司の姿は、とても静かで空気が穏やかに凪いでいた。
その姿を見る度に、蒔乃の胸はぎゅっと掴まれたように苦しくなった。
この空間は、まるで神の領域のようだ、と蒔乃は常々思っていった。カメラのように無粋なもので切り取るのではなく、身を削り、血の絵の具で描き、永遠に残しておきたくなる。
だからだろうか。
宗教画ではない。私の世界の神のような、あなたを描きたいと思った。
大学の絵画科の制作棟にて、蒔乃はスケッチブックに描きためたモチーフを選んでいた。次の講評会に間に合わせるためには、そろそろ着手し始めないといけない。
蒔乃は普段は風景画を描くことが多いが、そろそろ描きたい景色も尽きてきた。絵画科の先生から前の講評では「次は人物画も見てみたいですね」と言われている。
「…ん?」
スケッチブックのページとページの隙間から、はらりと一枚のデッサンが滑り落ちた。そこには以前、盗み見て描いた朔司の姿があった。それは特別な一面でも何でも無い、星ノ尾で給仕をする朔司の姿だった。
落ちた紙を拾い上げて、私の原点だなあ、と思う。幼い頃から絵を描くのが好きだった蒔乃はよく朔司をモデルになってもらっていた。といっても、家の台所に立つ後ろ姿や気持ちよさそうに猫とうたた寝する姿など、人知れず描いたものだった。
「…。」
懐かしい。あの頃はこんな苦しい気持ちを抱えていなかった。今、朔司のことを考える度に甘い愛しさと供に苦み走った切なさが募る。まるで彼が作るチョコレートのようだ。ふと小さな溜息を吐いていると、隣で作業する友人が顔を覗かせた。
「溜息を吐くと、しあわせが逃げますぞ。」
「みき。」
顔を上げると、みきが猫のような笑みを浮かべながら蒔乃を見ていた。
「何か、中々描きたいものが見つからなくて。」
苦笑する蒔乃の言葉をふむふむと頷きながら聞いて、みきは首を傾げた。
「いやあ、今の溜息は違う色に見えたがな。」
「と言うと?」
ふっふっふ、と不適に笑い、みきは人差し指を立てる。
「恋、じゃないかい?」
蒔乃はぎくりとしたが表情を繕う。が、みきはその一瞬を見逃さなかった。
「蒔乃ったら、いつの間に?まあ、でも今まで浮いた話の一つも無かったからめでたいかあ。」
「…みきの、その観察眼ってどこで養ってんのよ。」
観念して、蒔乃は自身の作業場にみきを呼び寄せる。みきは嬉しそうに、蒔乃の隣のパイプ椅子に腰掛けた。
「それで、それで?相手はうちの大学の人?私、見たことあるかな。」
わくわくとしたみきの表情に、本来ならば恋はこんなにも明るい話題だと言うことに気が付かされる。本来なら、蒔乃だって明るく楽しい恋をしたかった。
「…んーん。大学の人じゃないよ。みきは見たことないと思う。」
「そうなんだあ。どんな人?学部で言うと、どの人?」
まさか、年齢は教授並みとも言えず、蒔乃は曖昧に笑ってごまかす。
「年上の人…とだけ、お伝えしておきます。」
「えー。他にヒントなし?」
「なしでーす。」
くすくすと笑い合っていると、不意にみきが蒔乃の手元を覗いた。
「あれ。蒔乃が人を描くの、珍しいね。」
見たい、との要望を受けて、蒔乃は手にしていたデッサン画をみきに手渡した。
「たまにはね。」
「…。」
「みき?」
みきは無言で朔司を描いたデッサン画を見つめている。そして徐に、口を開いた。
「ね、蒔乃。この人が、蒔乃の好きな人?」
「え?」
心臓が大きく脈打った。
「な、なんで?」
「だってすごく優しい顔つきの人だから。蒔乃にはこういう風に見えてるんだなーって思って。」
「そう…、かな。」
言い淀む蒔乃を見て、みきはピンとひらめいたようだった。「当たりでしょ。蒔乃のバイト先って喫茶店って言ってたよね?この格好はさては、そこの先輩だな!?」
みきの恋愛の噂話に対する観察眼に、蒔乃は感服する。
「来るなよ!絶対に来るなよ!?」
「それフラグっしょ!」
腹を抱えて笑うみきに対し、蒔乃は冷や汗をかきつつ全力で釘を刺すのだった。
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