第9話 うさぎ

「親父、まだ店を閉めねえの。」

鈴の音を響かせながら、一臣が星ノ尾の扉を開けて入ってきた。朔司は蒔乃の寝顔を優しい表情で見守っていた。

「…。」

目を細め、蒔乃を起こさぬように息を潜め、彼女の肩には朔司のカーディガンが掛かっている。一臣の来訪に気が付かない朔司の肩を叩き、自らの存在を知らせる。朔司は、はっとしたように顔を上げた。

『おかえり、一臣。』

『ただいま。』

手話は朔司との大事なコミュケーション方法だ。幼い頃から操っているため、健常者と同様に意思疎通が出来る。

『蒔乃、寝ちゃったのか。』

『そうだね。掃除が長引いて、待たせすぎてしまった。』

ふーん、と頷きつつ、一臣はバーカウンターの椅子に腰掛けた。

『何か飲むかい?』

朔司がカウンターの中に立ち、ポットに水を入れる。

『日本茶がいい。』

『スタッフに用意したティーバッグしかないけど?』

あるかどうかもわからずに注文したので、ティーバッグのお茶でも充分だった。その旨を伝えると、朔司は沸いたお湯をパックが入ったカップに注ぐ。そしてパッケージに書かれている抽出時間をきっかりと守り、一臣に提供してくれた。

『ありがとう。』

受け取ったカップのお茶を冷ますように息を吹きながら、ちびちびと飲む。一方で、朔司はカフェオレを飲んでいるようだった。

『夜、眠れなくなるんじゃない?』

『そうでもないよ。牛乳を多めにしたからね。』

そう言われてみると、確かにいつもよりコーヒーの色が薄いように感じた。毎朝飲んでいるカフェオレも相当牛乳の色が濃いから、それ以上となるとほとんどホットミルクだろう。

二人は、しばらく無言でお茶を飲む。微かに響くのは蒔乃の健やかな寝息だった。

『親父。』

一臣は、自らの首を差すようにして言う。

『見えてる。』

ああ、と頷いて、朔司は首筋に手を置いた。

そこにある歯形には血が滲んでていて痛々しいはずなのに、蒔乃がつけたものだと知っていると羨ましく思えるから不思議だった。

蒔乃は親父しか噛まない。二人の間にある絆に割って入ることが出来ない。

それが少し、恨めしい。

「ん。」

一臣はたまたま持っていた絆創膏を、朔司に手渡す。

『ありがとう。』

絆創膏を受け取った朔司は、ペリ、と紙を剥がして、傷痕に貼ろうとして失敗する。どうやら存外に首の傷痕に絆創膏を貼るのは難しいようだ。一臣は小さな溜息を吐いて、貸して、と言って自らが手当をすることを申し出た。

朔司が衣類を緩めて、首の傷痕を晒す。もう消毒は済ませてあるようだった。一臣は改めてその傷痕を見る。

蒔乃の小さな歯形がくっきりと朔司の肌に刻まれている。

絆創膏を貼り終えて、一臣はきゅっと唇を噛んだ。

肩を叩かれて、顔を上げると朔司が一臣を慈しむように見ていた。

『一臣。君は、蒔乃さんが好きなんだろう?』

「…。」

朔司の手話を読み取って、一臣は再び机に額をぶつける。そして様子を覗うように、朔司を見た。そして、頷く。

『好きだよ。』

手話の良いところは、声もなく会話が出来るところだ。眠る蒔乃を起こさずに済む。

『でも、どうすればいいかわかんねー。』

若者らしく恋愛に悩む一臣の姿に、朔司は笑みを零す。

『大事に、してあげなさい。』

『…親父が、母さんを愛してるように?』

『わかってるじゃないか。』

一臣の母親、朔司の妻のひよりは蒔乃を引き取る数ヶ月前に病気で亡くなった。急性の白血病で、発覚からおよそ一年の闘病の末のことだった。朔司たっての希望だった骨髄移植もドナーになることはできず、見つけることも出来なかった。

ひよりが亡くなった日。死に水を口移しで与える朔司の姿を、一臣は泣きながら見守った。喪失感と供に、彼ら夫婦の関係性が尊く感じた。

朔司の瞳から零れた涙はそのときに流れた、たった一滴。彼は立派に喪主を勤め上げ、一臣の良き見本になるべく父親としてその背中を見せた。

朔司は今も、亡きひよりを愛している。

『さて。ちゃんと寝ないと明日…、もう今日か。大学が辛くなるね。蒔乃さんを起こして、家に帰ろう。』

『俺が起こすよ。親父はコップの片付け、よろしく。』

分担を決め、二人は席を立った。

「蒔乃。蒔乃ー?そろそろ起きて。」

一臣は蒔乃の肩に触れて、そっと揺さぶってみる。蒔乃は、んー、と小さく声を漏らして、眉間に皺を寄せた。

「おーい。」

「…朔、司さん…?」

寝ぼけた甘ったるい声が、間違えた名前を呼ぶ。一臣は大きく溜息を吐くと、蒔乃の後頭部を軽く叩いた。

「起きろ、寝ぼすけめ!」

その衝撃に、きゃん、と子犬のような悲鳴を上げて蒔乃が目覚める。

「うわー…、何。びっくりした…。」

心底驚いたように、蒔乃は目を丸くしている。

「起きないから。憎たらしくて、つい。」

「だからって、女子を叩くなー。」

言いながら、蒔乃は一臣の横腹を小突いた。二人がじゃれるように応酬を繰り返していると、濡れた手をハンカチで拭きながら朔司が現れた。

『二人とも仲が良いね。さあ、帰ろう。』

『あ、待って。更衣室から、荷物取ってくるから!』

蒔乃はうさぎが跳ねるように席から立つと、バタバタと忙しなく音を立て女子更衣室のあるバックヤードに駆けていった。

『賑やかだな。』

一臣が苦笑する。

『元気で良いじゃないか。』

朔司は声を出して笑うのだった。

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