第8話 23時57分

一臣から告白と宣言を受けたその日は一日、心がふわふわとして落ち着かなかった。

大学の授業の話は全く頭に入ってこないし、違う授業で使うノートを持って行ってしまった。食事も中々喉を通さず友人たちに心配され、大好きな絵画の実技の授業も身が入らない始末だ。一臣は気を使ってくれたのだろう、大学で彼を見かける度にうさぎのように隠れる蒔乃を、追おうとはしなかった。


その日の夜は星ノ尾のバーテンダーの手伝いのために訪れる約束を朔司としていたため、蒔乃は気合いを入れ直してようやく裏口から店内に入った。

「お疲れ様でーす。」

アルバイトの子たちに声をかけて、女子更衣室へと向かう。そこで着替えとメイクを済ませ、店のバーカウンターに立つのだった。

「…どうぞ。フォー・ギヴンです。」

ウイスキーのライとバーボンを会わせた、強めのカクテルを注文した客に出す。

「あら、蒔乃ちゃん。」

隣に座る老夫婦の奥さんが蒔乃に話しかける。

「はい、何でしょう。」

注文かと思い、蒔乃は愛想良く笑顔を向けた。だが、奥さんは蒔乃が思いも寄らなかったことを言う。

「何か良いことでもあった?」

「え?」

「頬がバラ色に輝いているわ。あとは、んー…。女の勘かしら。」

うふふ、と朗らかに微笑みながらいたずらっ子のように目を輝かせる。聞いたことのある年齢よりもいつも若く見える秘訣は、この好奇心と女心のおかげなのだろう。

「ご想像にお任せします。」

はにかみながら蒔乃が言うと奥さんは、あらら、と楽しそうに笑った。

「いいわね。そういうの大好き。」

「お前は本当に噂好きだな。」

旦那さんが苦笑しながら呟く。いつも無口な人だが、奥さんと話をするときに必ず優しげな声色になるから本当に彼女を愛しているのだろう。

「いいじゃない。悪い噂なら耳を塞ぐけれど、私、素敵な噂なら大歓迎なの。」

年を綺麗に重ね、なる夫婦ならこんな夫婦になりたいと思わせる関係性だと蒔乃は思った。


星ノ尾の扉にCloseの札が下がる、夜23時。

椅子をテーブルに上げてモップがけをする朔司が目の前を通り過ぎたとき、蒔乃の歯が肌に噛み付きたくて疼いていた。この悪癖を止められない自分が心底嫌になるものの、この衝動を抑えることができない。何度も朔司に視線を送ってしまい、とうとう朔司に気付かれてしまう。

柔らかく微笑まれながら首を傾げる朔司に、蒔乃は歩み寄ってその手のひらを取った。一字一字、焦らすように指で書く。

噛んでもいい?

朔司は頷いて、ワイシャツの首元のボタンを外した。服の布地に隠された朔司の肌は蒔乃が付けた歯形や内出血、いくつもの傷痕で青黒く変色している。それは彼が示した一つの愛の証だった。

蒔乃は朔司の首元に緩く腕を回して、抱きしめるように引き寄せる。中年の男性の体臭は何故こうもノスタルジックな香りがするのだろうか。甘くて、ほんの少し苦み走った、まるでチョコレートのような香りだ。

朔司は蒔乃が噛みやすいように首筋を晒して、僅かに横を向く。蒔乃がちらりと様子を覗うと、朔司の口元は淡く笑みを称えていた。蒔乃は自分を受け入れてくれる朔司を傷つけることを申し訳なく思い、ごめんなさいと心の中で謝りつつ彼の肌に口付けた。

唾液を溜めて、じゅっと吸うように甘噛みを繰り返す。カチカチと歯を鳴らし、滑った舌でざらついた朔司の肌を舐めて噛む場所を確認する。犬歯を添えて、そしてやっと歯を立てた。

他に誰もいない、二人ぼっちの星ノ尾の店内に二人分の呼吸の音が響く。健やかな寝息のような深い呼吸をする朔司とは相反して、荒々しく零す呼吸は蒔乃のものだ。

やがて朔司の肌に内側を抉るような痛みの他に、熱い何かが落ちる。それは蒔乃の涙の雫だった。涙は熱くて、サラサラとしていて、落ちて空気に触れた瞬間に冷えて肌を伝っていく。


ありふれた日常を送っていた中で、朔司と一臣の元へ玉森母娘の悲劇の一方が届いたのはクリスマスを目前にした日のことだった。電話に出ることの出来ない朔司に代わり、一臣がその電話を取ったことを覚えている。

保護者の朔司が耳が聞こえずに電話を受けた幼い一臣のことを慮ってか、警察が直接に水瀬家へ訪れてその事件の詳細を教えてくれた。

まるで目の前が真っ白になるようだった。どうやって一臣を連れて病院に行ったのかよく覚えていないが霊安室で自らの義妹、蒔乃の母。そして集中治療室で姪の蒔乃に出会った。

治療が進むうちに、ようやっと会話が出来るようになった蒔乃は自分を傷つけようと躍起になっていた。思わず、抱きしめていた。

蒔乃を引き取って、一臣と供に育てた。蒔乃が高校卒業をする年齢を迎えた頃。朔司はこの店、星ノ尾を開いた。

少しでも、彼ら二人が将来に何をしようとも帰るための居場所を残してあげたいと思ったのだ。


朔司の首に新たな痕を刻み、蒔乃は店のボックス席のソファに腰掛けてテレビを眺めていた。テレビに映るのは、白黒の古い外国の映画のDVDだった。外国の映画は耳が聞こ

えない朔司でも字幕で楽しむことが出来る娯楽だった。

字幕を目で追っているうちに、蒔乃の瞼はとろんと閉じてしまいそうだった。もう直にバイトを終えた一臣も星ノ尾に来て、皆で帰宅する予定だ。

それまで、それまで眠っていても良いだろうか。

蒔乃はうとうととした微睡みから、本格的な眠りへと落ちていった。


夢の中で蒔乃は母親の肩越しに空を見上げていた。23時57分。夜空にクラゲのような月が浮かんで、珊瑚の卵のような星々が散っていた。

「蒔乃…、」

母親は蒔乃の子ども体温が宿す頬をくすぐるように撫でる。

「…ごめんね。」


気付かないふりをしていたが、蒔乃はまだあの日の母親の声色を覚えていた。

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