第7話 凪

蒔乃の母親が、彼女を抱いて高所から飛び降りたのはおよそ13年前のことだった。

母親は配偶者の不倫をきっかけに、精神病を患った。ノイローゼのような状況が続き、小さなアパートで8歳の蒔乃と母親は狭い世界を築いていた。脆く崩れ去ったのは、冬の頃だった。

母親は蒔乃を連れて高層ビルの非常階段を上って行く。幼い蒔乃は大人しく手を引かれていた。上れるところまで上り、母親は蒔乃を抱き上げる。何度も何度も、額や頬に口付けをしてくれたことを蒔乃は覚えている。キスの雨が止んだ時、母親は蒔乃を抱いたまま非常階段の柵を乗り越えた。


落ちていく。落ちていく、重力に引き寄せられて地面に向かって真っ逆さまに。


母親は死に、蒔乃は一命を取り留めた。

だが、病院の検査で蒔乃の脳内の弊害がわかった。

落ちた衝撃により、脳を傷つけた蒔乃は無痛症なる症状を患った。

痛みが無いということは危険信号が無いということだ。蒔乃は死のうと思えば、痛みを感じずに死ぬことができてしまう体になった。以降、彼女は自傷するようになったのだ。髪の毛を抜いたり、爪で肌を引っ掻いたり、歯で腕の肌を噛み千切ろうとした。蒔乃の体がボロボロになっていくのを止めたのは、朔司だった。

あの時、彼から受け取った手帳の紙片は蒔乃の宝物になり、今でも大事にしている。


「…。」

目が覚めたということは、眠っていたということだ。

蒔乃は水瀬家の自室。ベッドの上で、重い瞼を持ち上げた。耳の裏が濡れている。どうやら、眠りながら泣いていたようだ。昨夜から随分と泣いている気がする。

遮光されないカーテンの向こうで、空気が蒼い。時刻はまだ早朝のようだ。

蒔乃は起き上がり、ゆっくりとベッドから素肌の足を下ろす。4月の朝はまだ少し、涼しい。

カーテンを引いて、窓サッシをカラカラカラと音を立て開ける。視線の先には、一筋の線のような海が見えた。じっと睨むように目を凝らして、ふと思い立つ。

今から、海を見に行こうか。

朝日が昇る海だなんて、鎌倉の立地にあるこの家にいてまだ見に行ったことが無いことに気が付く。

「よし。」

小さく決断の意思を声にして、蒔乃は手早く身支度を調えるのだった。


蒔乃専用の赤い自転車にまたがって、ペダルを踏みしめる。坂をゆっくりと滑るように下っていった。

下った先に角を曲がれば、海岸線が広がる。長い信号を待ち、少ない車通りの道路を渡った。自転車に道沿いに止めて、蒔乃は海岸に続く階段を降りた。

鉄製の階段の最後の一段を蹴るように降り立つと、スニーカーの靴裏の感触が砂のふかふかとしたものに変わる。細かい砂はいつの間にか靴の中に入り、まとわりついて離れないから砂浜を歩くには素足の方が良さそうだ。

脱いだスニーカーを片手に持ち、蒔乃は朝日を待つ。その間、波打ち際で海水を蹴っていた。海の季節は二ヶ月遅れと聞いたことがある。なるほど、四月の海はまだ幾分か冷たい。

波が押し寄せるギリギリの地点に立っていると、海水が押し寄せる度に足の裏の砂を持って行かれてくすぐったかった。まるで、おいでおいでをされているようだ。

チリ、と目の奥に光の筋が差し、蒔乃は眩しさに目を細める。朝日が、昇ってきた。

朝日は金色の球体の欠片が輝くようで、徐々にその光量を増して大きくなっていく。周囲の空は美しい鴇色に隅の方に僅かばかりの夜の名残を滲ませて、とろりと溶けるカクテルのようだと思った。

「眩しー…。」

太陽の白い光を一身に浴びて、穏やかな温度を全身に感じた。手の指先がじんわりと温まっていくのがわかり、体の細胞の一つ一つが目覚めていく。

白んだ空に早起きの鳥たちが翼を広げて飛ぶ様を仰いでいると、不意に名前を呼ばれた。

「蒔乃!」

その声に振り向くと、そこには一臣が立っていた。

「おみ、くん…、」

「足!」

一臣が険しい形相で、蒔乃の元へと駆けてくる。

「足?」

「血が出てる!」

蒔乃が下を見ると、足を浸す海水に赤い血液が濁るように広がっていた。


蒔乃は足を砂利に紛れた鋭利に尖った貝の欠片で傷つけていた。

一臣が蒔乃を担ぎ上げると、彼女は慌てたように背中を叩く。

「私、歩けるから…!」

「傷口に砂が入る。」

有無を言わさずにそのままの格好で歩き、海岸沿線の防波堤に連れて行って座らせた。

「見せて。」

一臣は膝をついて、怪我を診るためにその足を取る。白くて細い足の裏に、鮮血が滴っていた。随分と肌を深く抉られたようだった。

「ちょっと待ってて。」

近場の飲み物の自動販売機でミネラルウォーターを購入して、気まずそうに座って待つ蒔乃の元へと戻る。一臣の気配に、蒔乃はぱっと顔を上げた。

「おみくん。あの、」

「付いた砂を落とすから。」

そう言って、ペットボトルの蓋を開けて水を傷口に流す。

「もったいないよ…。」

飲めるぐらい清らかな水を惜しげも無く使われることに、蒔乃は困惑の意思を示す。

「気にすんな。」

ペットボトル一本丸々を使い切って、それでも尚滲む血。一臣は自らが着ていたTシャツを脱いで、裂いて作った紐状の布を止血のために傷口に巻いた。

「ごめん、ハンカチ持ってなくて。着てきたばかりだから、汚れてないはず。」

「気にしないよ。でも、そのTシャツはおみくんのお気に入りだったんじゃない?」

確かに今。裂いて使ったTシャツは好きなアーティストのライイブで売られていた物だった。だけど、そんなこと一切気にならなかった。蒔乃の傷口を保護することで頭がいっぱいだった。

「別に。そうでもない。」

一臣が言うと、蒔乃は首を横に振った。

「嘘。…ごめんね、おみくん。」

蒔乃の声が震えていた。

「いいんだ。蒔乃の方が大事。」

今の言葉が本心だった。どんな宝物よりも、蒔乃が大事。蒔乃自身が一臣の宝物だ。

彼女が家を出たことに気が付いた一臣は、悪いと思いつつ後を追って出てきた。実のところ昨夜のことを気にして、蒔乃がどこかへ行ってしまうんじゃないかという思いに駆られたのだ。

何事もなく家に戻ってきてくれるならそれでいい。

そう思い、着けてきた先。蒔乃は海岸で、朝日の光を浴びていた。


なんて美しい光景なのだろう、と一臣の視線は釘付けになった。

凜と立ち、生まれたばかりの太陽を見つめる蒔乃。

黒い髪の毛先が光に透けてアンバーブラウンに輝き、なだらかに肩を覆う。瞳を縁取る睫毛から影が落ち、きらりと涙のように光る眼差し。バランスの良い横顔に鼻の先がつんと立ち、薄い唇が結ばれている。

そしてすらりと大地に伸びる足を見た瞬間、一臣の心が凍るようだった。その足の周囲が赤く染まっている。血だ、と思った瞬間に一臣は彼女の名前を呼んでいた。


蒔乃は自らの怪我に気が付いていなかった。これが無痛症の恐ろしさだ。

彼女には痛みが無いから、怪我を負っても気付けない。それがもし、致命傷だったらと思うと胸が張り裂けそうに辛かった。

蒔乃が好きで、好きで、自分に似合わず出会えたことを神に感謝するほどに大好きだった。

彼女の笑顔を初めて見たとき、守りたい。守らなきゃと勝手に使命感に燃えるぐらいに、恋していた。

恋。

恋。

恋。

そう、この感情は恋愛だ。自らのことを犠牲にしても、それでも蒔乃のことを守ると決めた。家族愛などと温かく、柔らかいものではない。もっと、もっと攻撃性を孕む想いだった。


ごめんね、を繰り返す蒔乃を一臣は抱きしめていた。

「もう謝らないで。」

「…でも…、」

「いいんだよ、蒔乃。」

自らの肩が熱く濡れる。蒔乃の涙だ。

慰めるように彼女の髪の毛を梳きながら撫でる。

「その代わり、聞いて。」

「…。」

「俺さ、蒔乃が好きだよ。蒔乃の好きな人が俺じゃないことは知ってる。」

ずっと見ていたから、と言葉を紡ぐと蒔乃の肩がピクリと震えた。

「でも、だからって諦められるほど、柔な気持ちでもない。」

「…おみくん?」

そっと蒔乃の肩を押す。目と目を合わせて、宣言したかった。

「親父を超える男になる。きっと、蒔乃の好意を俺に向けさせるから。」

蒔乃の丸くなった瞳に映る自分に誓う。

「今は好きじゃなくてもいい。でも絶対に、蒔乃から好きって言わせる。」

そこまで言うと、一臣は気が晴れたかのように空を仰いだ。その瞳は海面から登り切った太陽に光に照らされ、キラキラと光っていた。

「え、っと…、」

蒔乃はキャパシティオーバーで、金魚のように口を開閉する。

「帰ろ、蒔乃。自転車、俺が漕ぐから二人乗りしよーぜ。」

自分の自転車は置いていき、通学する際にまたここから乗っていけば良い。

一臣は蒔乃を歩かせないために、背中を貸す。

「ん。」

「え?い、いいよ。私、重いし。」

蒔乃の言葉に、知ってる、と返すと彼女は怒ったように一臣の背中を叩いた。

「もう!これでも乙女なんだぞ!!」

ははは、と声を出して笑う一臣の背中に、蒔乃はおずおずと乗る。

「…重いでしょ。」

「嘘だよ、ごめん。」

一臣は力強く立ち上がり、途端に蒔乃の視線が高くなった。そして止めた自転車まで歩む。

「陶芸科男子の力、舐めんなよ。蒔乃なんか軽い軽い。」

日頃から土の運搬にかり出されて筋肉は育っていたが、それにしても蒔乃を背負うのは簡単だった。このまま家まで帰れそうなぐらいだ。

「ありがと。」

蒔乃を自転車の荷台に座らせて、かごにスニーカーを放り込む。そして、一臣は自転車を漕ぎ出した。家までは上り坂もあるが、気合いを入れてペダルを踏みしめる。

「蒔乃、危ないからもっとくっつけよ!」

ぐんぐんと加速するスピードに、風音に負けぬように自然と大きな声を張る。

「うん!」

一臣の腹に蒔乃の手が回る。ぎゅっとしがみつかれて、安全を確認すると海岸沿線を走った。一日が始まる海面は透明なリボンを解いたような細波に覆われて、凪いでいた。

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