第5話 初めての手話

物心が付いたときから、音は無かった。

朔司の世界はいつだって無音で、その静けさに耳の奥がキンと痛むようだった。

昼間の家は、若者二人がいないだけでとても寂しい。その寂しさを埋めるように、朔司は本の表紙を開いて一時的に現実を遮断した。読書は好きだ。自分以外の人生を歩めるだなんて体験は、本を読む以外にできない。時々、事件を解決する探偵に。または魔法を扱って空を飛ぶ少女に。年齢問わず、性別すらも超えて朔司は読書に没頭する。

時間がどれだけ溶けても本を閉じるタイミングをつかめないから、あらかじめスマートホンのタイマーをかけておく。振動が出るように設定してあるので、朔司でも気がつけた。今日もまた読書を遮る振動を感じ、ようやく本を閉じた。

顔を上げると部屋の中が夕日の朱色に染まり、すでに薄暗くなり始めていたので室内の電灯をつける。どうりで途中から文字が読みづらくなっていたはずだ。

スマートホンを見ると、メッセージアプリに伝言が水瀬家のグループページに届いていた。


【親父。夕食に使う食材リスト求む。 一臣】

【おみくん、デザートも買ってきて! 蒔乃】

【了解ー。みかんの牛乳寒天でいい? 一臣】

【嬉。もちろん人数分忘れないでね? 蒔乃】


一臣と蒔乃のやりとりを微笑ましく見守り、朔司は夕食に使う材料を確認すべく台所へと向かうのだった。

冷蔵庫と食料庫を見て、材料のリストを作り一臣に向けてメッセージを送る。このぐらいの買い物ならあと一時間もすれば、帰ってこれるだろう。

朔司はそれまでに出来る食材の下ごしらえを始めることにした。

野菜を刻み、肉を柔らかくするための処理を行っているうちに、とん、と肩を叩かれた。どちらが先に帰ってきたのかと予想しながら、振り向くとそこには一臣と蒔乃の二人がいた。どうやら二人とも、同時刻の帰宅だったらしい。『おかえり。』

朔司の手話に、若者二人が同時に同じ手話を返す。

『ただいま。』

一臣に差し出されたエコバックの中には、頼んだものがしっかりと入っていた。そして、三つのみかんの牛乳寒天も。『ありがとう。』

受け取り、再び台所の調理台に向かうと後ろからひょっこりと蒔乃が顔を覗かせた。

『私も、手伝うよ!』

そう言って、蒔乃はにっこりと微笑んだ。蒔乃の手話を読み取ると同時に、ふと彼女が最初に手話を披露してくれたことを思い出した。


当時の蒔乃は心を閉ざすように無表情だった。彼女が水瀬家に来た理由を考えれば、当然のことだったのかも知れない。蒔乃は肉親から離れて、水瀬家に来た。

女の子の扱い方がわからず随分と朔司は頭を悩ませたが、時間が経った今思えばあの期間も蒔乃との絆を築くために必要だったのだとわかった。

初めての手話は『ありがとう』だった。その前後の会話を覚えていないが、蒔乃の心に触れた気がして随分と嬉しかった事だけを覚えている。それから、蒔乃は笑顔を見せてくれることが増えたのだ。


『ありがとう。』

始まりの手話で伝えて、蒔乃と一緒に台所に立つ。それはまるで奇跡のように思えた。

その日、作った夕食はビーフシチューとサラダ。一臣のリクエストで白いご飯を添えた。若者二人はとてもよく食べるから見ていて気持ちが良い。それは、朔司が喫茶店を営もうと思った理由でもあった。自分の作った物を美味しそうに食べてくれる人の顔を直接みたいと思ったことをよく覚えている。

夕食の片付けを一臣と蒔乃の任せて、朔司は自らの書斎に行き、星ノ尾の売り上げの計算に勤しんだ。今月も、どうやら黒字のようでありがたい。

机の上に置いてある置き鏡に、ふと動く影を見つけた。背後を見ると蒔乃が書斎の扉を開けて、こちらの様子を覗っていた。帳簿を閉じて、朔司は首を傾げてみせる。蒔乃は気付いてもらえた嬉しさから笑顔を見せた。

『お風呂、沸いたよ。先にどうぞ。』

彼女の手話は大きく読みやすい。

『わかった、ありがとう。』

朔司が椅子から立ち上がると、蒔乃は手にしていたバスタオルを渡してくれる。それを受け取り、着替えを準備して浴室へと向かった。

脱衣所でシャツのボタンを外してを脱ぐと、鏡に自らの体が写った。中年の朔司の体は若干筋肉が落ちている。骨張った首筋には、幾重にも噛まれた痕が刻まれていた。

この痕は、蒔乃によって付けられたものだ。

蒔乃には自傷する癖があった。痛みを感じないという彼女は手加減せずに自らの腕を噛むものだから、血が滲むほどに痛々しい痕が残った。この傷痕が蒔乃が成長し、好きな人の前に晒されてしまうことを案じた朔司が彼女に言ったのだ。


自分を噛むぐらいなら、僕を噛みなさい。


手帳のメモ欄にペンで走り書きをして、蒔乃の手に握らせた。その紙片を開いて呼んだ後、蒔乃は泣いたのだ。

彼女の細い体を抱きしめて、初めて噛まれたときはまるで電流が走ったかのようにピリリとした痛みだった。その痛みは蒔乃が成長するにつれて、鈍く強い痛みになっていった。そして肌を破り、血が滲むくらいに蒔乃の力が強くなった。

いつか頸動脈を噛み千切られるかもしれないと思いつつ、それでも朔司は蒔乃を受け入れ続けた。

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