お花畑転生娘と令嬢修行
アピリスティア男爵家に引き取られてからというもの、ミラの日常は一変した。
かつては日が昇る前に起き出して、井戸で水を汲み、重い
しかし、今は侍女が起こしに来るまでは寝たふりをしなければならない。
仕える者が先に起きてしまうようでは、使用人はさらに早く起きなければならなくなってしまうから。
冷たい井戸水で顔を洗う代わりに、侍女が運んでくれたお湯で顔を洗い、髪や肌の手入れも全て人任せ。
前世の記憶が戻った今では、ミラにも自分なりのやり方というものがあるのだが、うかつに口を挟むことができない。
うっかり手を出そうとすると、主の満足するような仕事ができない侍女が厳しく𠮟られるだけだ。結局、自分のしたいようには絶対にさせてもらえない。
「あたしが自分でやれば、もっとキレイに可愛くなれるはずなのに……」
食事についても同様だ。
孤児院では、井戸水を汲み終わると火を起こし、なけなしの麦と野菜クズで薄い粥を作るのが日課だった。
しかし、今では気分転換にお菓子でも作ろうと厨房に入ろうものなら、義父母や家庭教師からははしたないと叱られ、料理人からは「自分の料理がそこまで口に合わないなら解雇してくれ」と嘆かれ、他の使用人たちからは「横暴なワガママ娘だ」と噂されてしまう。
もちろん、下級とは言え裕福な貴族なので、それなりにぜいたくな食事は出されてはいる。
しかし、ナイフとフォークの持ち方がおかしいと叱られ、口元に運ぶ所作がみっともないと叱られ……せっかくの料理も食べた気がしない。
正式な養女縁組が成立した日の晩餐のことはいつまでも忘れられない。
「貴族の一員として迎えられたお祝いの席だから、お行儀の良いところを見せなくちゃ」と思い立ったミラは、自信満々に前世で習った「三角食べ」をしたのだ。
そのとたん、義父となった男爵は顔をしかめて大きく舌打ちし、「これではとても人前に出せない。最低限の作法だけでも今すぐ身につけさせろ」と言い捨てて席を立ってしまった。
男爵夫人は優しく「大丈夫よ、ゆっくり覚えていけば良いから」と微笑んでくれたが、その優しい声に潜んだ困惑に、自分がとんでもない無作法をしたと思われていると悟ってミラは愕然とした。
「三角食べ」は前世では「これさえ守ればどこに行っても恥をかかない」と幼いころから繰り返し教えられた食事の作法で、今まで叱られたことなんか一度もなかったのに。
この日の屈辱は、ミラの自信を根元から揺るがしてしまった。
それから先も大変だった。
ドアの開け閉め、歩き方、階段の上り下り……ささいなことで「はしたない」と叱られ、立ち居振る舞いを直すように言われてしまう。
自分では礼儀正しく上品に振舞っているつもりなのに。前世では、同じ立ち居振る舞いで「明るくはきはきとしていて礼儀正しい優等生」として認められていたのに。
いや、今世でだって孤児院にいる時には、訪れた聖職者や街の有力者から「なんてお行儀の良い子なんだ。とてもただの孤児とは思えない」とほめられていたのに。
ミラは現代日本とのあまりの常識の違いに、孤児だった頃とは全く違った辛さを味わっていた。
「貴族令嬢になれば、毎日お姫様気分で面白おかしく暮らせると思ったのに……」
覚えなければならないこと、直さなければならないことが多すぎる。
しかも現代日本人である
「どいつもこいつも、どうでもいいことでネチネチ揚げ足とりやがって……っ! どうしてこんなに息苦しい思いをしなきゃいけないのよ」
ぼやいてみても、意味がない。
本当は、ミラ自身もわかっている。これが貴族にとってはごく当たり前の常識なのだと。
指摘されているのは、生粋の貴族ならば呼吸をするように自然にできているはずのことばかり。息苦しさを覚えてしまうのは、ミラが生粋の貴族ではないから。
意識しなくても当たり前にできるようになるまで、ミラは貴族として扱われるのにふさわしくはないのだ。
「入学まであと三年……それまでに、何とかしてお姫様にならなくっちゃ……」
家庭教師や男爵夫人が毎日ていねいに指導してくれてはいるが、今世で十数年……更に前世で十七年庶民として生きてきた時間で身に沁みついた立ち居振る舞いは、そう簡単には変わってくれない。
「どうしよう……あたし、このままじゃヒロイン失格かも……」
思わぬつまづきに焦るミラを見かねたのだろう。
「明日は王都に行く用事があるの。あなたも一緒にいらっしゃい」
そう言って男爵夫人が外出に誘ってくれた。
心遣いはありがたいが、まだとても人前に出られるたしなみが身についていないのはミラ自身がわかっている。
「おくさ……お義母さま、せっかくですが今のあたし……わたくしでは、お義母さまに恥をかかせてしまうかも知れませんわ」
「大丈夫、そんなに格式ばったところには連れて行かないから。明日は一緒に楽しみましょう」
うつむいて遠慮するミラに男爵夫人は励ますように笑いかけた。
「でも……」
「わたくしに念願の娘ができたお祝いをしたいの。付き合ってくれるわね? もちろん、旦那様には秘密よ」
「お義母さま……ありがとうございます」
なおもためらうミラに男爵夫人は茶目っ気たっぷりにウィンクひとつ。
養子になった記念日の、「お祝い」だったはずの晩餐のことを気遣ってくれているのだろう。
いつも謹厳な義母が、ミラに合わせてあえて無邪気に振舞ってくれている。
その思いやりが心に沁みて、ミラは最後には素直にうなずくことができた。
死神姉妹は斬首刀と踊る 歌川ピロシキ @PiroshikiUtagawa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。死神姉妹は斬首刀と踊るの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます