お花畑転生娘と男爵夫人
「……知らない天井だわ……」
全く見知らぬ場所で目覚めたミラは、思わずどこかで聞いたような言葉を口走ってしまった。
精緻な細工が施された天井からはカーテンが垂れ下がっていて、ミラの寝かされたベッドの四方を覆っている。
(天蓋付きのベッドなんて、本当にあるんだ)
マシュマロみたいに柔らかなマットの上にはきめ細かなリネンのシーツ。大きくてふわふわの枕がいくつも置いてあり、楽な姿勢が取れるよう配慮されているようだ。
着せられた寝衣も滑らかな手触りで、ふぅわりと花のような良い香りが漂っている。
昨日までミラが生きていた場所とはまるで別世界だ。
「ここは……アピリスティア男爵家の屋敷ね」
「ゲーム」のプロローグでは、治療に成功した男爵夫人は感激してそのまま「ヒロイン」を連れ帰ったと書かれていた。そして子供のいないアピリスティア男爵家の養女として迎え入れることになるのだ。
ミラはそこで男爵夫人から貴族としてのいろはを叩きこまれ、乙女ゲーム『
「これからが本番ね」
ベッドから身を起こそうとすると、くらりと眩暈がした。
まだ初めての治癒魔法で使い果たした力が回復しきっていないらしい。
「こんなことではダメ……もっと力をつけなくっちゃ」
思うように言うことを聞かない身体に歯噛みしながら、今は無理せず身体を休ませることを考える。
「絶対に失敗できないわ……」
リナもクロエもコゼットも、惨めな暮らしの中であっけなく死んでいった。
ミラにこの世界の厳しさを教えるためだけに。
だから、ミラがヒロインとして
「絶対に、完璧なヒロインになってみせる。そして、この
ミラが拳を握りしめ、決意を新たにしていると、控えめなノックの音がした。
部屋の隅に控えていた侍女がドアを開くと、入ってきたのはピンと背筋を伸ばした中年の女性。海老茶色のドレスに紺色のカメオのブローチだけをつけている。
地味な装いではあるが、涼やかな黒い瞳は理知的に澄んでいて吸い込まれそうだ。若い娘の持つ華やぎがない代わりに、大人の女性ならではの落ち着いた魅力が漂っている。
「目が覚めたのね。気分はどう?」
凛とした張りのある声に気品と威厳があふれ、ミラは柄にもなく委縮してしまった。
「ゲーム」ではストーリーの展開に関係のある重要な場面だけが描かれる。
だから、「プロローグ」が終了からミラが入学するまでの出来事など、ほんの数行のテキストで流されて終わりだ。
屋敷に連れて来られて最初に、男爵夫人とどのような会話をしたかなど、全く分からない。
何を言えば良いのか見当がつかないミラは頭の中が真っ白になりかけた。
「は、はい。あ、あの……ここは?」
必死で起き上がろうとするミラに、夫人はふわりと笑いかける。
すると、一見冷たくすら見える知的な美貌が、とたんに柔らかい印象になった。
「無理に起きなくても大丈夫よ。あなたは私に治癒魔法をかけるときに力を使いすぎて倒れてしまったの。まだ身体がつらいでしょうから、楽にしてちょうだい」
夫人はベッド脇におかれた椅子に腰掛けながら、やせこけたミラの手をそっと握って語りかける。
その手は温かく、声と表情にはいたわりと感謝が籠っていた。
「あ、ありがとうございます……」
思いがけず感じた夫人の優しさに、ミラはここが「ゲームの中」だということも忘れそうになる。
「お礼を言うのは私の方よ。あまりに痛くて苦しくて、もう死ぬかも知れないと思ったもの。治してくれてありがとう」
「奥様……」
穏やかながらも品格の漂う声に、自分の生きてきたものとは違う世界の住人であることを痛感した。
孤児であった今世はもちろん、ごく普通の庶民であった前世でも。
転生前、自分こそが特別な選ばれた人間……格上セレブと呼ばれるのに相応しいと思い込んでいたのが恥ずかしい。
自分はあくまでも根っからの庶民で、生まれながらの貴族とは
「それからね、あなたさえ良かったら私たちの娘になってもらえないかしら?」
「わ、私がですか……?」
根っからの上流階級と自分の格の違いを知ったミラは、夫人の申し出に素直にうなずくことができない。
この家の養女となることが、既に『ゲームのストーリー』で決められた『イベント』であることは、頭の中から綺麗に消え去っていた。
「ええ、あなたもそろそろ孤児院を出なければならない年齢でしょう?私たちには子供がいないし、生命を救ってもらった恩を返させてちょうだい」
「でも、私は誰の子かもわからない孤児です。とても領主さまの養子になんか……」
自分がこの人達と同じ貴族として生きていくことが、本当にできるのだろうか?
軽く首を傾げてミラの表情をうかがう仕草すら、優雅で美しい。こんな所作が自分にできるようになるとは思えない。
「あなた、私を治してくれた時に女神様の声を聞いたと言ったわね? きっと女神様の思し召しなのよ。どうか、私の娘になってちょうだい」
「でも……」
「それにね、これはあなたを守るためでもあるの。治癒魔法はとても貴重で、使い手が滅多に現れないの。あなたの力を知れば、きっと悪用しようとする輩が寄って来る」
「そんな……」
この世に稀な治癒魔法を操ることができる。
今さらながらにその事実が招くかもしれない危険を認識し、ミラは思わず身震いした。
何しろ「ゲーム」の中では、治癒魔法のせいで狙われる場面など、全く描かれていなかったのだ。自分を「特別なヒロイン」にするための力が、まさか自分を危険にさらすかもしれないなんて、思ってもみなかった。
震えの止まらないミラの身体を、夫人は優しく抱きしめる。
「大丈夫よ、貴族の身分があれば、あなたに無体を強いることはそうそうできないわ。ね、どうか私たちに恩人を守らせてちょうだい」
背中をそっと撫でながら囁かれた優しい声に、ミラは黙ってうなずいた。
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