第十三節 第五十二話 歪曲
「は……、り?」
クイは眼を大きく見開き、地に手を付け上体を起こそうとする。
しかしすぐに顔を歪め、虚しくもその体は再び倒れこんだ。
「おとーさん!」
ハリは傷だらけの父の元へ駆け寄り、顔を覗き込む。
「どうしたの!?」
「ご、めんな、ハリ……。バカな、お父さんで……」
なぜこんなところにハリが居るのか。疑問よりも先に羞恥心が芽生えていた。
震える手を持ち上げ、ハリの頭を撫でてやる。
「えっと……、ハリは1人なの?」
一方のユミは、突然の来訪に動揺を隠せないでいた。
「あ、ユミおねーちゃん……」
頭の上にクイの手を乗せたまま、ハリはユミへと首を捻る。
「えっと……、よくわかんないの」
「分かんない?」
「うん。気づいたらここに……。その……、なんかおとーさんが危ない気がして……」
ハリはソラとともに、茶を飲ませ寝かせていたはずだった。無垢な者たちを厄介ごとに巻き込まないように。
しかしまだ茶の効き目が切れるには些か早い気がする。
一方でユミには思い当たることがあった。
「ハリは自分がどこで生まれたか知ってる?」
「え? ……せんせーの、おうち?」
ハリは首を傾げながら答える。
ユミも納得する。おそらくはクイとヤミがそのように教え込んでいたのだろう。
ユミが敢えて訂正するのも野暮と言うものだ。
「ふ、ふ……、皮肉なものですね……。ユミさんを、利用しないと、言った矢先に、このようなことが……」
自虐的に笑うクイに向かって、ユミは驚愕の表情を浮かべる。
「え? もしかしてハリをクイの野望に使おうとか考えてる?」
「そんな、まさか……。ケンさんの、気持ちが、良く分かると……、言いたいのです……」
「ケンの、気持ち?」
「ええ……、ケンさんは、一貫して、ソラさんを、烏に会わせたくないと、仰って、いました……」
ケンがヤマに宛てた文にもその旨は書かれていた。
ユミがソラに茶を飲まそうとしたのもそのためだった。
その一方でケンの娘であるはずのユミが、こうしてナガレにやって来ている。
この判断は親孝行なのか、親不孝なのか。少なくともこの意識は、ユミがケンを親として認識し始めている証拠ではあった。
「ユミ、さん……。早く、ケンさんの、元へ、行ってあげてください……」
「え、でも……。私には危険だろうからクイを見といてやってくれって、アサが……」
加えて先ほどのクイの言葉を借りれば、我が子を烏に接触させたくない気持ちが分かるということだ。
にも関わらず、烏と乱闘中の親の元へ行けとは一体何事なのだろうか。
「私は、大丈夫です……。ハリはもう、立派な医師ですから……」
クイはハリに目配せしにこっと笑う。とても自然な笑顔だった。
「え、でも……。おくすりもなにもないよ?」
ハリは無力さを悔いるように、困惑した表情を見せた。クイはそれに構わず、頭を撫でていた手を離してハリを手招きする。
ハリはその手に
「もっと、身近な幸せに、気づくべきでした……。よくも、イイバの民を、幸せにできるなどと、大それたことを……」
その言葉を噛みしめるように、ハリへ回した腕にぐっと力を込めた。
「ユミさん。ハリの、帰巣本能が、目覚めてしまった、ことは……。本来、親として、危惧する、べきこと、なのでしょう……。しかし、現に……。こうして、傍に居られることを、嬉しく、思ってしまいます……。ケンさんも、同じ気持ちなのでは、ないでしょうか」
理性と感情のせめぎあい。弱っている時ほど、感情が主張しだすのは当然のことなのかもしれない。
「大丈夫だよケンは。そんなやわじゃない」
「ふ、ふ……、ユミさんは見ていませんでしたか? 先ほどの、ケンさんは、苦戦していた、ようにも、見えましたよ……」
クイの指摘通り、ユミも遠くからケンの様子を眼にしていた。
「もしかして我慢してるとか? 代償による暴力衝動を発揮しないように……」
ケンの代償については一度クイとも議論したことがある。
ケンが本気を出せば、ナガレなど制圧出来てしまうのではないかとさえ思っていた。
しかしいざ力を発揮するべき場面では、あっけなく取り囲まれてしまうケンの様子に、違和感を覚えていたのだった。
「我慢……。そうかも、しれませんね……」
「なんで、そんなことを?」
問いかけておきながら、その理由にはほとんど辿り着いていた。
「私だったら、子供の前で、醜態を晒したくないと、思いますね……」
そしてクイは、自虐的にふふと笑う。
「そのために、茶を飲ませていたというのに……。全く……、情けないお父さんですよ……」
「おとーさん? 痛いの?」
ハリは父親が何を悔しがっているのかさっぱり理解できなかったが、頬に刻まれた痣へとそっと手を伸ばした。
「ケンさんは、早い段階で、私のことを、見透かしていました……。私の陰謀とも、言うべき計画を、止めてやると……。つまり……」
クイはハリから少し顔を逸らして咳払いをする。赤い血が舞う。
「あなたを利用しようとした私を、ケンさんが諫めてくれたんですよ?」
淀みなく言い放つと、再びその場に吐血する。
ユミは思わず固唾を飲んだ。
「で、でも……。それはソラのためでしょ?」
しかしユミは意固地であった。
「ええ、そうでしょうね……。ですが、ユミさんのことを、ソラさんと勘違い、されていたようですね……」
「ふん! 自分の娘のことも分からないなんて父親失格だね!」
ケンを認めるのに何かが足りない。
「勘違い……、であっても、ユミさんの、ための行動だった……。ということ、ですよ?」
「うぅ……」
「そして……、ユミさんが、ソラさんとは違うと、分かった今でも、代償による醜態を、晒したくないと、思っている……」
下唇を嚙みしめるユミに、クイは畳みかける。
「ユミさんを娘だと思う何かは、あったんじゃないですか?」
「だったらお母さんのこと、もっと愛してあげて欲しかったな!」
ユミはたまらず立ち上がる。
「お母さんがケンと会ったのは1度だけ。ケンにとってお母さんは百舌鳥の1人でしかなかったはず。なのにソラへの文には、お母さんがソラのお母さんになってほしいというようなことが書かれてた。なんとも未練がましい……」
「それを、お母様に、伝えてあげるのが、ユミさんの役目なのでは、ないですか?」
対面できない人と人を繋ぐことが鳩の務めの基本である。
もりすを持つユミにだからこそ、ナガレのケンとトミサの母とを繋げられるのだ。
「それにユミさんのお母様は、ケンさんのことを、恨んでますか……?」
「え……?」
立て続けのクイの指摘に、ユミは困惑が隠せない。ユミが眼を背けようとしていたことを的確についてくるようである。
「ユミさんは、以前言っていましたよね……? ケンさんを、恨んでいるのは、キリさんを殴ったことと、カラさんを、酷い目に合わせたこと、だと……」
「そうだよ! その事実は消えないの!」
声を張り上げてから、クイに乗せられているような気さえしてくる。
「その一方で、キリさんと、カラさんは、ケンさんを、許そうとしていると、認めていましたよね? ユミさんには、もうケンさんを、恨む理由など、ないと……」
「……うん」
ユミがケンを恨むのは大事な者を傷つけられたから。
しかし、その大事な者はもうケンのことなど恨んでいない。
「お母さんもケンには会いたいって言ってた……、でも、ケンのこと怒ってはなかった……」
この場にトキが居たのなら、他者のための怒りは自身の責任からの退避行動だとでも言うのではないだろうか。
「ユミさん。お父さんですよ」
とどめを刺すように、じっとユミの眼を見つめる。
「ああ、もう! 行ってくればいいんでしょ!」
投げやりに言い放ったものの、ユミとしても背中を押された気分である。
「ええ、私と議論を交わしていても、想像の域を出ません。是非、ケンさんとは、対面で……」
今度こそ、自分のためにケンと決着をつけなくてはならないのだ。
クイが言い終わる前に、ユミは駆け出していた。
「ふふ、せいぜい、お気をつけて……」
胸に抱いた我が子の顔を覗き見る。
ハリはいつの間にか眠っていたようで、安らかに寝息を立てている。
「おとーさん……。もっといっしょに、いてほしーな……」
一体どのような夢を見ているのだろうか。
クイのトミサでの滞在中に生じた2人の空白の時間が、このような願望を生み出していることは想像に難くない。
「身近な幸せ……、我が子の笑顔に、勝るものは、ありませんね……」
イイバの民を自由に、そして幸せに。
壮大な目標を掲げていたにも関わらず、その具体的な形をまるで描けていなかった。そして自分の幸せすら手放していたのだ。
何を幸せに感じるか、それも人それぞれであるはずだ。
しかしクイはこうして1つの答えを見つけることができた。
「例えばそうですね……。もっと気軽に、里帰りできる、仕組み作りを目指すとか……。それなら、ユミさんに、迷惑を、かけることもないでしょう……」
手の届くことから少しずつ。
「まずは、ハリを、連れて帰らねば……。今頃、ヤミさんも、心配していることでしょう……」
手元にある幸せに温もりを感じながら、クイはゆっくり立ち上がった。
――――
鳩になる6年前に比べ、ユミの体力は飛躍的に向上していた。
さすがに戦闘の心得まではないが、ナガレの村を駆けた程度では息を切らすこともなかった。
彼方から聞こえてくる喧噪を頼りに、ケンの居場所へと近づいていく。
「アサ!?」
しかしその道中、地にうずくまるアサを前にユミは足を止めることになる。
「す、すまんユミくん……。不覚をとっちまった……」
アサは尻もちを付き、右太もものあたりを両手で押さえていた。
手の下にある履物からは赤い血が滲みだしている。
「早く手当しないと……」
言ってはみたものの、大した道具も持ち合わせていない。
どうしようかとあたふたしていたところに、アサが口を開いた。
「いや、俺のことは……。ぐっ……」
「でも!」
痛みに顔を歪めるアサを見かね、ユミは思わず身を屈める。そしてアサの顔を覗き込んだ。
「いいから……」
眼の前のユミの肩を優しく叩き、アサは気丈に笑って見せる。
「さっきはユミくんを置いていくようなことをして悪かった。すまないが……、俺の代わりにケンのところへ行ってやって欲しい」
アサの思いに応えるべきだと判断し、ユミは立ち上がる。
「……今ケンはどうなっているの? それにサイは?」
「サイくんには指一本触れさせるなと伝えてある。前を行くサイくんを烏どもが追い、その後ろからケンが狩るという構図になっているはずだ。俺はケンを援護しようとして……、しくじった」
サイが追われるという状況が少し滑稽に思えた。しかしぶんぶんと首を振り、思い浮かべた情景を頭から追い払う。
「私はどうすればいい? ……足手まといなのは間違いないと思う」
「烏どもが全て眠ってからでいい。ケンを褒めてやってくれ……。君のことを最愛の娘だと思っていたこともあるようだ。勘違いでもうれしいだろう」
ユミがケンに抱く嫌悪感の根源は彼の暴力性だ。これまではその負の面しか触れてこなかったが、今ではサイの守護として務めを果たそうとしている。
ケンを認めるために足りないのはきっかけだ。
力を正しくかつ制御可能な範囲で発揮する姿を見届けられたなら、それは大きな契機となるはずだ。
「分かった。それで……、ケンのことを連れ出しちゃっていいの?」
「ああ、好きにしてくれ。あいつはもう、よそ様に迷惑をかけることも無いだろう……」
「ありがとう」
アサに向かって頭を下げると、すぐに駆け出していく。
「ああそうだ!」
遠くなっていくユミの背に声を投げる。
「トミサに帰ってミズに会ったら……、お前の好きなものを大事にしろって伝えといてくれー!!!」
声が届いたのか否か、ユミは振り返らない。
心なしかユミの足取りが軽やかに見えた。まるでその背中に大きな翼でも生えたかのように。
「ふふ、自由な世界か……。まあ翼をもがれた俺らに関係のないことだ。せめて俺らの子供たちが、自由に羽ばたいてくれることを願おう」
――――
「へ、へへ……。お前ら、もう限界かぁ……?」
走りながら首だけを後方に捻り強がって見せるが、さすがに息が切れてきた。何より腹の虫が悲鳴を上げている。
振り向き様にサイを追う烏達の人数を数える。残りは3名。
いっそ真正面からの殴り合いで決着を付けてしまうか。今が頃合いと言えるかもしれない。
「サイ! てめぇあん時サマしやがっただろうが! 妙な
背後の烏の内の1人が、怒声を飛ばしてくる。
「あぁ……?」
聞き捨てならない言葉にサイはようやく足を止める。そして左足を軸にしてくるりと振り返ってみせた。
先ほど声を荒げたであろう男が、サイを指差し鋭く睨んでくる。
「あ、お前……、私を刺そうとしてきた奴だな?」
「そうだ! 賭場の胴元にお前の不正を訴えたがまるで取り合ってもらえなかった。腹いせに刺そうとして何が悪い!」
男は憎々し気に唇を噛む。
「いいか? イカサマってのはその場を取り押さえないと成立しないんだ。後から文句言われても知らん。胴元にはばれないようにやってたしな」
「お前ほんとにサマしてやがったのか!?」
「……え?」
どうやら鎌をかけられてらしい。
勝負事において駆け引きは重要だが、思わぬ形で不覚を取ったと屈辱感が芽生えだす。
「ふん。なんでお前がここにいるのかは分からんが、てめえの悪運も今日限りのようだな」
男は懐から石包丁を取り出す。
「ここでは人を殺そうが犯そうが――」
「うるせぇ!」
烏のしたり顔に渾身の拳を叩き込む。
男はあっけなく膝から崩れ落ちた。
「喧嘩を売る相手を選べってんだ、バカが! そんなんだからカモにされんだぞ!」
尻もちを付きつつも、まだ睨んでくる男の顔面に蹴りを入れる。それがとどめとなり、男は泡を吹き失神した。
「あと二人か……」
首を固定し瞳だけ左右に動かすと、残る烏がサイを挟む位置に佇んでいるのが分かった。
サイは後方へと飛び、両者から距離をとる。
「どうしたやんのか? 私を倒した報酬はでかいぞぅ?」
挑発するとともに、サイの中で悪戯心が芽生えだす。
いつぞや社会見学という名目で、ウラヤのマイハに立ち寄った折に見た、百舌鳥の立ち振る舞いを思い出す。
サイは左手で自身の襟を掴んで胸元を開き、谷間まで露になった双丘を右腕で下から押し上げる。そして前のめりに腰を折った。
付け焼刃であまりにも安っぽい、魅惑の構えである。
しかし、それを見た2人の烏はごくりと喉を鳴らす。
「なーんてなぁ!」
まずは右側に立つ男を狙う。
大股で一気に距離を詰めると、その鳩尾に向かって真っすぐに右の拳を突き出した。
「ぐっ……」
男はうめくと、頭をがくっと前へ倒す。
サイはその首を右脇に抱え、左手を烏の胸の下へ差し込んだ。
「どりゃぁあ!!」
サイは掛け声とともに男の体を持ち上げる。そしてそのまま後ろへと倒れこんだ。
男の頭と背が地に叩きつけられる。一瞬苦悶の表情を浮かべたかと思うと、そのまま動かなくなった。
一方のサイも、背中に強烈な痛みを感じていた。
「いてててててて……」
地に打ち付けた個所をさすりながらゆっくりと立ち上がる。
「お前バカだろ……」
最後に残された烏が呆れたように呟いた。
「すまねぇな。ぴちぴちの体が傷物になっちまった」
「ふん、構わん」
「こっちが構うんだよダボがぁあああ!!!」
烏もバカだったようだ。サイの飛び膝蹴りが股間を襲う。
視界が真っ白になったのも束の間、すぐに暗転して意識を失った。
「全く、たわいもない野郎どもだ」
その場に転がる3つの体を見下ろし、まだ気持ちの悪い感触が残る右膝を手で払った。
こうしてサイが3人を倒すだけで済んだのも、後方からケンが援護してくれていたためだ。
即ち、残りの10人程の男達をケンが相手したことを意味する。
もし彼らを余すことなく蹴散らしたのならば、ケンがサイに追いついてくると考えるのが自然だ。
「ケンはどこだ?」
額に手をかざし、辺りをきょろきょろと見渡した。しかし、視認できる範囲内には居ないようである。
胸に嫌な予感がよぎる。
「……無事でいてくれよ。あんたにゃまだやってもらわなきゃならないことがあるんだから」
サイは踵を返し、烏達に追われた道のりを走り抜けていく。
――――
眼の前には、死屍累々とでも言うべき光景が広がっていた。
ユミの背筋にぴりりと緊張が走る。
「ケンは……?」
そう呟くと体を横たえる人々を1つずつ指差し、父の姿を探索する。
眼を凝らして見れば、1人1人の手足はぴくぴくと動いており、命までは失われていないことが分かった。
その中で1つ、一際大きな影が眼につく。
「う、う……」
震える拳を地に突き、体を起こそうとしている様子が見て取れた。
しかしその動作も虚しく、うつ伏せから仰向けへと寝返りを打つのがやっとのようだった。
「ソラ……。オレ、頑張ったんだからな……。理性を、失わないように……」
天空に向かってうわ言を呟くケンの元へと、ユミは足を急がせた。
「ケン! ケン! しっかりして!」
ケンの胸元を揺らし、その顔を覗き込んだ。額からは鮮血があふれ出しており、思わず顔をしかめてしまう。
その体のすぐ隣には力を失った烏が1人倒れており、手には血に濡れた棒切れが携えられていた。
「そら……?」
不意に、ケンと眼が合う。
「ああ、来てくれたのか……、こんなところまで……」
「うぅ……」
朦朧とした意識の中、ケンの視界に入るユミの眼に、ソラの面影を見出しているのだろうか。
我が子を求め喘ぐ父を前に、ソラでないとも言い張れず、ユミは唇を噛んだ。
周りの烏達が意識を取り戻すのも時間の問題だろう。
そうなる前にケンを移動させたいが、ユミの力はあまりにも無力だ。
「なあ、ソラ……。お父さんって、呼んでくれない、か……?」
ユミが思い描いていたケンの姿からは、あまりにもかけ離れた穏やかな父の声だった。
しかし、惜しい。お父さんと呼ばれたければ、そちらこそ名前で呼んでみろというものだ。
「しっかりしなさい! こんなところで死んじゃダメ! あなたにはまだ、娘のためにやらなきゃいけないことがあるの!」
精一杯の励ましの声をかける。これも親孝行の在り方だろうと自らを言い聞かせるように。
しかしケンの瞳は虚ろなままである。
「ユミぃいいい!」
呆然としていたところ、遠くからサイの声が聞こえてくる。
ユミは立ち上がり、声のする方へと振り返った。
「サイお願い。ケンを運んで! 子供のためにできる親の務め、果たさせてやるんだから!」
――――
夢の中、ずっと助けを求める声を聞いていた気がする。
5年前に1度顔を合わせただけの、弟の声を。
「いいからソラを出しなさい!」
しかし聞こえてきたのは、恐ろしい怒声だった。
その声の主が自分にとってどういう存在であるか、とうに気づいていた。
――弟が危ない。
即座に意識が鮮明になる。
瞼を開き、辺りを見渡した。
赤く染まる景色は、故郷のものではないようだ。
否、生まれ故郷ではあるようだ。その情景は記憶の片隅に残っていた。
本当は一目父に会ってみたかった。
しかし、その他ならぬ父がソラと会うことを拒んでいる。姉もソラを父と会わせたく無かったらしい。
そんな2人の意思を汲み、渋々甘い茶を飲んだのが今日の昼前のことであった。
奇しくもその決断が、ソラをこの場所に呼び寄せたと言えそうだ。
声が聞こえた方向には、1軒の小屋が立っているのが見えた。
小屋の屋根に取り付けられた換気口からは、もくもくと湯気が立ち昇っている。
「あれは……、お風呂?」
ほんの片鱗ではあるが、母の狂気は自らも眼にしていた。
あの母なら弟に対して非道の限りを尽くしてもおかしくない。その現場が浴場ともなると、ただ事では済まないはずだ。
「キリくん!」
思い浮かんだ最悪の光景がソラを駆り立てる。
叫ぶや否や足が動いていた。
本当はソラだって怖い。
生まれて間もなく眼を抉られそうになったそうだ。
そのアイの元から逃げ出し、のこのこと戻ってきたとなれば、激しい折檻が待っているかもしれない。
しかし、現に弟がそのアイと向き合っているのだ。
ソラに代わり痛みに耐え、どれほどの年月が経過したのだろうか。
今現在、この村にソラがいることに、意味を見出せないほどソラは愚鈍ではなかった。
やがて蓬の香る小屋の前へとたどり着く。
遠くに見えていた時は小さく感じたこの小屋も、今ではまるで巨大な鬼を思わせる出で立ちだ。
ごくりと固唾を飲んで、引き戸に手をかけた。
そして大きく息を吐く。
がらっ。
戸を開いた先に、2つの背中が見えた。
小さな女の腕が青年の頭を掴み、今にも湯船に落そうとしている。
「アイさんダメ!」
考える前に体が動いていた。
まっすぐ女の背に飛びつき、抱きしめた腰部をぐっと引き寄せる。
意外なほどあっさりと、女の体はソラとともに後方へと倒れこんだ。
「ソラ、姉さん……?」
魔の手から解放された青年が、振り向き様にソラとアイを見下ろす。
「キリくん逃げて!」
見上げた先にある弟の顔。そこに刻まれた痣が痛ましい。
「いままでごめんね、何もしてあげられなくて!」
思わず涙があふれ出す。
「ソラ……、なのぉ?」
ソラの腕の中からねっとりとした声が聞こえてくる。
耳の奥へと這い入るようなその声に、決して
「ア、アイさん……。そう、だよ。ソラだよ……」
腹の上にアイを乗せたまま動けない。
それでも恐怖には押しつぶされないように、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。
「私が来れば、キリくん、解放してくれるって、文に、書いてたよね……」
「ええ、もちろん!」
何故ソラがこの場にいるのか、アイにとっては些末な問題なのだろう。
ソラの体の上でアイはくるりと裏返り、不気味な笑顔を降らせてくる。
かと思うと、その顔をソラの胸元に飛び込ませた。
「ずっと待ってたんだよぉ。ソラぁ……」
「アイ、さん……」
――これで、キリくんが助かるなら……。
全身に嫌悪感が走る。
しかしこれまでキリの受けた虐待に比べれば、体の痛みの伴わない盲愛は幾分かましというものだろう。
「一緒にお風呂にしよっか!」
返事を待たず、無邪気に笑いながらソラの腰の帯へと手をかける。
――この人は私のお母さん。一緒にお風呂入るのも普通のこと。
きっとこれまでの空白期間を埋めようとしているんだ……。
腹を括るソラだったが、キリの瞳には母との再会を喜ぶ娘の姿など映っていなかった。
「母さんやめて!」
精一杯の声を張り上げ、アイの肩を掴む。
キリにとって数少ない反抗の場面であった。
ユミを守る際にも体は動いたが、危険を顧みず助けに来てくれた姉のことを無下にするなど、できるはずもなかった。
しかしアイはびくともしない。
キリがアイの虐待に耐えることができていたのは、単純に1つ1つの打撃の威力が小さいからでもあった。
今ではその腕力からは想像もつかないほどの力を感じていた。
これはソラに対する執着に由来するものであろうか。
ソラの体を這うアイの手を見て思わず眼を背けてしまう。
「キリくん、私は大丈夫だから……。きっとユミが助けに来てくれる……。お父さんを連れて――」
「やめろ、アイ……」
息も絶え絶えに、しかしはっきりと、重い声が響き渡る。
それと同時に、ソラは体を解放されるのを感じた。
背を床に付けたまま、アイの走り抜けた方を眼で追う。
「ケン!」
母が体の大きな男へと抱き着いているのが見えた。
男は体中に傷を負い、脚はがくがくと震えている。それでもアイを力強く抱き留めているようだ。
しかしそれは、アイに対する愛情なのではなく、狂気に満ちた者を逃がさないための拘束であるはずだ。
ケンの眼にその意志が宿っている。ユミによく似た、赤い瞳に目尻の切れた眼だ。
「お父さん……」
ソラの縋る思いが父を呼び寄せたのだろうか。
しかし感慨に浸る間もなく、新たに小屋へと2つの影が迫り来る。
「ソラ!」
まず飛び込んできたのはサイだった。
呆然としていたソラを起こすと、力いっぱい抱きしめる。
「お前こんなとこにいたのか!? なんでまた……。いやそんなことはどうでもいい。とにかく無事でよかった――」
「キリぃいいいいいい!!!」
後を追って来たユミがサイの体を押し退ける。
そして湯船の前に佇むキリへ向かって飛びついた。
「ユミ!?」
ユミの勢いに押され、あわや浴槽へと身を投げてしまうところであったが、風呂の
「遅くなってごめんね! でももう大丈夫だから!」
「ありがとう……。それに姉さんのことも……」
ユミの体を抱きしめつつ、横目にソラの様子を伺う。
サイが頭を撫でまわしているようだが、先ほどの母のような邪悪さは感じない。そしてソラも、サイに身を委ねているようだ。
「ああそうだ……」
いっそこのままとろけるような時間を過ごしていたいが、ユミにはまだ片づけなければならないことがある。
キリの胸元から離れ、ソラの近くへと身を寄せた。
「ねえ、ソラ」
「何?」
髪はぼさぼさにかき乱されるまま、ソラは顔を向けてくる。
「アイのこと、あれでも許せる?」
ユミは小屋の外へと視線を送る。
「アイさんの、こと……」
母に対して似つかわしくない呼称に、ソラの答えは現れていた。
アイからすれば、ソラは積年の思いの末に再会を果たした娘のはずだ。
しかしいざ相対してみれば、母子との関係とは異なる執念のようなものを感じた。
にも関わらず、ケンが現れたとなればソラを捨て去る挙動を見せた。
先日ユミが言ったように、アイは本質的にソラのことなど求めていないのだ。
場の重い空気を感じ取り、サイはソラの頭を撫でる手を止めた。
「ソラ」
ユミは右手を差し出す。
ソラは黙ったまま左手を伸ばしてくる。ユミはその手を掴み、ソラをサイから引き剥がした。
「キリ」
湯船へと振り返り、今度は左手を伸ばす。
キリはユミの意図を察し、右手で応じる。触れ合う手と手は、自然と鴛鴦繋ぎになった。
「サイは……」
3人の様子を少し羨まし気に見ていたサイだったが、やがてユミの頭へ手を置きにっこりとほほ笑む。
「行ってこい。これはお前達で決着を付けることだろ?」
「うん。ありがとう」
ユミの妹のソラ、ソラの弟のキリ。
キリがユミの弟で無いのは奇妙なことだが、ユミにとっては紛れもない家族なのだ。
ユミを中心にして、そのままゆっくりとケンとアイの元へと歩を進める。
「ケンんんんんん、もうどこにも行かないでねぇ……」
アイには怪我人を気遣うという発想もないのだろうか。
この狂気を前に、もはやつける薬などない。
「アイ、お前は、オレと……、一緒に、来るんだ……」
「うん! どこでも行く! 連れてって!」
ケンはアイを抱きしめたまま、一歩ずつ後ずさりしていく。
本来はこの後、ユミがケンとアイをナガレへと導く手筈だった。しかしもはや、ケンの命が持つかすら怪しい状態である。
ケンは、このままどこへ向かおうとしているのだろうか。
ケンの帰巣本能に従えば行く先はトミサだ。そこまで辿り着けるとは考えにくい。辿り着けたところで、烙印持ちのケンは門前払いされるだけなのだ。
「待って!」
ユミは声を張り上げた。
ケンの思惑に気づいてしまったからだ。
ケンに残された時間でアイを森へと葬り、娘から引き剥がそうとしているのではないだろうか。
この状況において理想的な結末かもしれない。
しかし引き止めずにはいられなかった。
「ソラ! あなたも一緒に来る?」
ユミの意に反して、振り返ったのはアイだった。
「お、前……、やっぱり、ソラだったのか……」
ケンは虚ろな瞳をユミに向けた。
だったらユミの隣にいるソラをなんだと思っているのだろう。
アイと同様に2人の判別もできなくなってしまっているのだろうか。
一瞬でも母に優しくしてくれたこと。
キリを守ろうとしていたこと。
クイを諫めてくれたこと。
サイを烏から守ってくれたこと。
そして現在、娘のために体を張ろうとしてくれていること。
ケンを認めるための動機は数多くある。
しかしその加点を、自ら泡と消すような発言をするのは何故だろう。
――せっかくお父さんって呼べそうだったのに……。
ユミが心でぼやきながらも、ケンの足は森へと向かっていく――。
「拝啓お父さん!」
意を決して叫んだ。
――ごめんねソラ。あなたの言葉を借りるね。
ソラがしたためた父への文。
本来はギンの手によって義父に届けられるはずのものだった。
しかし今を逃せばその思いを届けることも叶わない。
文面自体はユミのもりすに刻まれていた。
――思えばアイに捕まった時もソラの名前を借りてたな。私がお姉ちゃんなのに……。
「弓です……」
――でも少しだけ、文面は歪めさせて。
「まずはお礼を言わせてください。お母さんを愛してくれてありがとう。私は生まれてくることが出来て幸せでした」
左手にキリ、右手にソラ。
かけがえの無い出会いだった。これがユミにとっての幸せなのだ。
「空は私の大事な友達です。そして錐。私の鴛です。二人とも私の想いに寄り添ってくれます」
ソラの言葉を借りたとしても、一部内容を改編したとしても、ユミにとって偽りのない思いだった。
繋いだ両手をぎゅっと強く握る。
「お父さんは空がお父さんの存在を知らないまま過ごすことを願っていたようですね。でもごめんなさい。お父さんが空のために大変な思いをしてきたことが分かりました」
――なんとか言ったらどうなの? ソラの思いだよ。あなたが大好きな。
ソラの手がしっかりと握り返してくる。
「これから会うことが出来なかったとしても、お父さんが居たこと、私は決して忘れません」
――あ、私って言っちゃった……。
目頭が熱くなる。
「だからどうかこれからも、安らかな気持ちでいてください」
ぽつりと、ユミの足元に雫が落ちる。
これがユミの、父に対する本音なのだ。
「敬具 弓」
「ユ、ミ?」
微かにケンの口が動いた。
――はぁ。やっと名前で呼んでくれた。
もう、涙は止まらない。
「追伸!」
洟をすすり叫び上げる。
「錐のこと――」
声に嗚咽が混じる。
いつにも増して、キリと繋ぐ左手が温かく感じた。
「殴ったりしないで下さいよぉおおおおおおおお!!!!」
ユミが最も許せなかったことである。
これだけは謝ってもらわなければならない。
「す、まなかった。もう、殴ったりしない……」
もはやケンを恨む理由などなくなった。
「うわぁあああああああ!!!」
ユミはその場に泣き崩れる。
「ユミ!」
キリは慌ててユミの正面へと屈み、肩を掴んだ。
「アイ、お前も……、謝るんだ……」
未だにケンから離れないアイの耳元へ、声を絞り出す。
「何を?」
とぼけているのか、何を謝るべきか本当に理解していないのか。
アイは悪びれる素振りを見せはしない。
「ユミ、母さんはもうダメだと思う」
「うん……。このまま連れて行ってもらおう」
ユミは顔を上げ、キリの肩越しに父の姿を見つめた。
そのすぐ背後には森がある。
「ありがとう、お父さん」
初めて自分の言葉で呟いた、お父さんだった。
シーンイラスト : https://kakuyomu.jp/users/benzenringp/news/16818093089121799209
――――
鳩の縛め 第四章 完
残り終章一話です。
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