第八節 第三十四話 出自

「すまないねソラ。本当はあんたが大人になった時に話してやろうと思ってたんだが、すっかり遅くなっちまった」

 ヤマは座椅子へと身を委ねながら口を開く。

「さて、何から話したものか……」

 ヤマの手には1通の封筒が携えられている。どこにでもあるような封筒のはずなのだが、ユミはそれが何か勘付いてしまった。

 

 ユミはヤマと対面する位置に正座している。そしてユミの隣にはソラ、さらにその隣にはギンが腰を下ろす。

 ギンは触れ合うソラの肩から震えを感じていた。その体を抱き留めてやりたくもなるが、それは場違いな行為だと思い動けなくなっていた。

 しかしソラの方からのギンの膝の上へと手を乗せてきたので、ゆっくりとその上に手を重ねてやる。

 ギンの温もりに触れソラは決心がついたのだろう。こくんと喉を鳴らして固唾を飲み、ヤマに向かって問いかける。


「先生は私の親を知っているの?」

 伝えるべき第一声を考えあぐねていたヤマにとって、ある意味その問いは救いの手だったとも言える。

 真剣なソラの眼差しに応じる様に、重々しく返答する。

「ああ、よく知っているよ」

 

 やはりか、ソラの表情がその心証を物語っていた。

 ソラにとってこれは問いかけというより答え合わせなのだ。

 しかし次のヤマの言葉は、想定していた答えとは異なるものだった。


「あんたの父親のことはよく知ってるよ」

「え? そっち?」

 思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。

「……お父さんのことは全然頭に無かった。てっきり先生がお母さんの知り合いなのかと……。」


 動揺を見せるソラを横目に、ユミはキリの父親から聞いた話を思い出していた。

 カラによればソラはアイの娘ではあるが、彼自身の娘では無いそうなのだ。それにもかかわらず、露骨にソラの父親のことを隠そうとしていた。そのことを考えれば、それが誰なのかも推し量ることが出来た。


 一方のヤマは指で頭を搔いていた。ソラの反応が意味することを思惑していた様子だったが、やがて思い至ることがあり眼を見開いた。

「ソラ、お前……、母親に会ったことがあるのかい?」

「うん……。あれが本当にお母さんだったらの話だけど……」

 ギンの膝に乗せられた手に力がこもる。沸き立つ恐怖から逃れようと、何かに縋りつきたいという思いが伝わっていく。

「ソラさん……」

 ギンにはソラの事情が分からない。せめて支えになれるよう、ソラに重ねた手をゆっくりと撫でてやる。

「ありがとうギンくん」

 上目遣いにギンを見つめ、ソラは体を委ねていく。


阿呆鴛鴦あほうどり

 ソラを相手にこの言葉を使うことになろうとは、ユミは思っていなかった。

 呆れた表情を浮かべつつ、阿呆鴛鴦の戯れが長くなりそうだったのでユミから説明を試みる。


「先生、5年前……。私がトミサに旅立つ前日だけど、ソラが森へ飛び出していったの覚えてる?」

「ああ、やっぱりその時か……」

 ヤマの仮説を裏付ける問いかけだったようだ。

「ごめんな、ソラ。もっとソラの悩みに気づいてやれれば……」


「違うの!」

 ソラの声。

「先生のせいじゃない!」

 ユミもほぼ同時に声を発する。

 ソラにはもっとハコのことを信じることが出来ればという思いがあった。そしてユミには、ソラの帰巣本能を試してみようなどと提案してしまった後悔がある。

 しかし、責任の所在を問うても仕方のないことである。重要なのはその事実を受け止め、次にどう動くかだ。


「やっぱりあの人……、アイさんが私のお母さんなの?」

 ヤマはゆっくりとそして厳かに頷いた。

「ああ、確かそんな名前だったな……」

「そんな名前だった? 先生はアイさんのことはあまり知らないの?」

 少しずつソラの口が滑らかになっていく。恐怖心よりも真実を知りたいという気持ちが勝ってきたようだ。


「私がアイと会ったのは1度きりだ。あんたを救い出し……、なんてのは詭弁か。あんたを奪い取った時の1回だけだ」

「救い出した? 奪い取った?」

 ソラは眼を丸くする。

「ああそうだ。お前がまだ生まれて間もない頃にな」

「なんでそんなことを……」

 ヤマが詭弁だと言うからには少なからず後悔があると言うことだろうか。

 

「もしかしてアイさんがあんな風になったのって私が居なくなったから?」

「あんな風って言うのは5年前のアイがソラに見せた挙動のことだね。私は18年前のアイのことしか分からないから、当時と変わらないのか、よりひどくなったのかは判断ができない。でも少なくともあの時既にアイは狂気に満ちていた。あんたを奪い取ってしまおうと思うには十分だった」


 ソラが居なくなったからアイがあんな風なのか、アイがあんな風だからソラが奪われたのか。

 ヤマは後者だと認識しているようだ。


「私に後悔があるとすれば、あんたに帰巣本能を目覚めさせてしまったことだ。ああ、ソラは本当はアイの元へ行きたいんだなって……」

「そんなことない! アイさん怖かった……。キリくんをいじめてたみたいだし、私の眼がどうのって……」

 ギンに委ねられた体がぐっと重くなる。ギンは今度こそ、ソラの肩を抱いてやる。


「眼……。アイは相変わらずだったんだね。あの時もそう言ってたよ。ソラの父親と眼がそっくりだって」


 ――ああ、やっぱりか。

 ユミはほぼ確信していた。ソラの父親が誰であるか、裏付ける証拠が揃っている。

 ナガレでその眼を直視した際、ソラと似ているのは偶然だろうと考えるようにはしていた。しかしその後、彼がヤマへ文を宛てたことがその願望にも近い考えを否定する。

 

「私のお父さんは誰なの?」

 ユミの確信を確定させるための問いかけだ。

「ソラには見せるなって書いてあったんだけどね」

 ヤマは手に持っていた封筒を掲げる。

 先日クイと話をした際にも話題に上がっていた文である。

「この文の主がソラの父親だ」

 クイは疑っていた。文の送り主には何か大切なものがあるのではないかということを。

 

「ケン……」

「ああ、そうだユミ。お前が届けてくれたんだ。まさか孵卵でナガレに足を踏み入れるなんてねぇ……」


 アイの鴛はカラだ。

 しかしアイとケンの間にソラが生まれた。

 それが意味することは1つ。


「ケンは不義密通を行ったんだね」

「ああそうだ。鳩の縛めの中でも重大な禁忌とされることだ」

 一連の会話において当事者から外れるギンであったが、その言葉に背筋を凍らせる。

 もはや一心同体となったソラもギンの様子を察した様子だ。


「不義密通……」

「ソラにも教えてやったろ。鴛鴦文で決まった相手が居ながら、別の者と鴛鴦のような関係をもつことだ。それを実行しようものなら手の甲に烏の烙印を焦がされる。鳩であろうと鳩でなかろうと関係無くな」

 烏の烙印。この場にいる者の中で実物を見たことがあるのはユミだけだった。

 蛇蝎だかつの如く嫌っていたケンではあるが、その彼を縛める印を直視するのは辛かった。


 そしてソラにとっても衝撃の事実のはずだ。

 母の人物像、父の過ち。

 生まれてから18年間隠されていたものは、これまでの平穏な生活からあまりにもかけ離れたものだった。

 だからソラは問わずにはいられなかった。

 

「不義密通ってそんなに悪いことなの?」

 

 不義密通は鳩の務めに対する冒涜だ。これが悪だという認識は、多くの鳩の間でも共通する。しかし、烏の烙印を与えるほどのことであるのかは未だ議論が交わされるところだ。

 ユミ自身は、仮にキリが他の者を恋い慕えば到底許すことなど出来ない、と考えていたので烙印に異存はないという認識を持っていた。

 故にソラにも、自らの意思で不義密通の善悪について判断してもらいたい。

 

「ソラ、ギンがマイハに行って許せる?」

「ちょっ、ユミ!?」

 ギンは慌ててユミを制する。


「ギンくんがマイハ? そんなの嫌だ……」

 ソラはぎょっとした様子で、委ねていた体をギンから離そうとする。

「大丈夫だよソラ。ギンは行ってない」

 ギンの体へ再びソラの体重がかかる。ギンは肩を撫でおろした。

 実のところユミはギンのことを信じていた。可愛がっていた妹分が奪われたことの腹いせに、ギンをからかっていただけなのだ。

 

「それを踏まえてだけど、ソラはどう思う? アイとケンのことを?」

「私の視点からすると……、感謝するしかないよね」

 ソラは作り笑いにも似た笑顔をギンに向ける。

「おかげでギンくんにも会えたんだもん」

「ソラさんありがとう。そう言ってもらえて嬉しい」

 ギンがそっとソラの頭を撫でてやると、その眼がとろんと蕩けだす。

「ソラ、その言葉は私にとっても救いだよ。許されないことであったとしてもあんたを連れ出して来て良かった」

 ソラはヤマの言葉を噛みしめる。が、やがてはっとしたように顔を上げた。


「でも、幸せになっていいのかなって。私がギンくんを他の女の子に取られたら嫌なように、アイさんとお父さんの行動が誰かを傷つけたんじゃないかな?」

「ソラ……、お前は本当に優しい子だね。でもね、ケンはケン、アイはアイだ。お前が気兼ねすることじゃないよ」

「でも……」

 実際、ソラが悔いたところでどうしようもないことである。

 とは言えギンの温もりを感じながらも後ろめたい気持ちを拭えない。


「ソラ」

 しかしユミには打開策があった。

「私、キリのお父さんにも会ったよ」

「え?」

 キリの父とソラとの関係。それを一言で言い現すとしたら、父と母の不貞によって傷つけてしまった相手だ。ソラは困惑を隠せない。


「キリのお父さんはソラの安寧を願うって。それにケンのことも恨んでない。お義父さん、その決意は決して楽じゃなかったと思う。だからその思い、受け止めてあげて欲しいな」

 

「ユミ……。分かった。キリくんのお父さんの言葉を信じるよ」

 そう言うと、ギンの膝の上に置いていたてのひらをくるりと裏返し、その指をギンの指と絡め合わせた。いわゆる鴛鴦繋おしつなぎである。

「それでいいんだよソラ。ギンもしっかり受け止めるんだよ。ソラの出自が何だって関係ないでしょ?」

「ああ、もちろんだ」

 ギンはソラの手をぎゅっと握り返した。

 

「ソラ、あんたの幸せそうな顔がケンの何よりの望みだったんだよ」

「お父さんの望み……。ねえ、先生はお父さんに頼まれて私を連れ出したの? アイさんからは奪い取ったって言ってたけど」

 ユミも不可解に思っていた点である。現時点でユミが納得できるのは狂気に満ちたアイからソラを奪ったヤマの動機だけだ。そもそもヤマがラシノでアイに会っていたこと自体おかしいのだ。

 

「それを答える前に……。あんたさっきからアイの呼び方はどうにかならないのかい?」

「あう……」

 ソラ自身も他人行儀な呼び方に抵抗はあった。しかしそれ以上に「お母さん」と呼ぶことに大きな抵抗を感じてしまっていた。

「お、かあさんの姿は見ちゃったから……」

 ユミも隣で大きく頷いた。ソラの気持ちは大いに賛同できるところがある。


「わかったよ、ソラ。無理に呼ぶことは無い。こう言っちゃなんだが、お前が不義密通で生まれたおかげで、アイから切り離してやる大義名分も出来たのかもな……」

 ヤマは腕を組み眼を閉じる。そして暫しの沈黙の後、口を開く。

「ケンのことは30年ほど前から知っている。私が鳩とトミサの医師とを掛け持ちしていた頃だな。ユミには想像がつくんだろうが、あれはやんちゃが尽きない子でね。おまけに女好きと来た。女を巡って度々喧嘩して怪我をこさえて来ては、私が面倒を見てやっていたのさ」

「やんちゃなんて可愛いもんじゃないよ……」

 未だにケンがキリを殴り飛ばしたという事実が、心の中に深く突き刺さっている。

「あの子が鳩になったと聞いた時は、祝ってやろうという気持ちよりも不安の方が大きかった。いずれ過ちを犯して人様を傷つけるんじゃないかってね」

 

 ユミも話に流されそうてしまいそうになっていたが、ケンの犯した過ちは2つあるはずなのだ。

 1つは先ほどから話題に上がる不義密通。本来ならこれを成した時点で烙印を受けることになるはずだ。偽物の鴛と鴦との双方が。

 しかしアイはそうなっていない。ソラが連れ出されたことにより不義密通の証拠が無くなり、罪を免れたということだろうか。ソラを奪われること自体がアイへの罰とも取れるのだが。

 従ってケンも同様に不義密通については罪を免れたはずだ。ケンがナガレに送られた理由は他にある。

 即ち、キリの父に対する暴力だ。カラは2度ケンに傷つけられたことになる。


「鳩の縛めを犯してもトミサの門の外ではばれない。これは鳩の間で密かに囁かれていたことだ。それを行動へ移したものもいるだろうとは思ってた。あくまでも証拠が残らない様にな。ケンもその1人だったということなんだろう」

 

 ――門の外では使うも自由。

 ユミに向け、もりすについて言及した覚書おぼえがきに記された文言だ。

 ケンの末路を知った今では、安易に鳩の縛めなど犯してはいけないのだと言う認識がある。

 

「案の定というべきか、ある日ケンは血相変えて私の自宅へ飛び込んできた。『鴛鴦文で相手の決まった女子おなごを妊娠させちまった』ってな」

「それが私。アイさんとお父さんとの間の……」

「ああそうだ。アイの顔を初めて見た時はびっくりしちまったがとんでも無い美人じゃないか。魔性の女とでも言えばいいのか? それにケンも顔だけは男前だからな。鴛鴦文の存在も忘れてお互い惹かれ合うものがあったようだ」

 アイとケンの馴れ初めについて、傍から聞いていると呆れたところはあるが腑に落ちる部分もあった。

 ソラは医院へ訪れた男どもに必ずと言っていいほど言い寄られる。その美貌も母親と父親から受けついだものということなのだろう。性格の面においては全く似なかったようであるが。

 

「ケンから話を聞いた時は鼻で笑っちまったよ。因果応報だろとな。しかしその後のあの子の行動には驚かされた。その場に手をついて『オレの子供を助けて下さい』なんてしおらしく頭を下げてきたんだ」

「え!?」

 思わず声を上げてしまったが、ケンがキリに向かって頭を下げていたこともあったのだと思い出す。

 ユミが認識している以上に、ケンには分別があるのかもしれない。

 

「私も面食らっちまってねぇ。一肌脱いでやろうかという気になった。まさかあの子に我が子のことを思う心があったなんてね」

「お父さん……」

「ケンは烙印を恐れてたんじゃない。ソラ、お前がアイに酷い目にあわされることを恐れてたんだ。」

 ソラの体が強張るのを感じ、ギンは慌てて抱き留めた。


「幸いにもアイの本来の鴛鴦がラシノへ移住するまでには猶予があった。時間軸としてはソラの生まれる方が少し先だな。そしてちょうど私も鳩を引退するのに良い時期だったんだ」

 移住する者にとって、生まれの村とは今生の別れになりかねない。鴛鴦文での誓約の成立後、心づもりのため1年以上時間を要することも少なくない。

 また一般的に鳩は60歳を超えた辺りで引退する。その後は元居た村に帰るか、トミサで静かに暮らし続けるかだ。

 ヤマのウラヤでの暮らしを見ていると、愛した故郷に医師として貢献したいという気持ちを汲み取ることが出来た。トミサへの未練もほぼ無かったのだろう。


「ユミ、森の隙間は分かるだろ? トミサからウラヤへ向かう門から森へ少し出たところにも、小さな隙間があるんだ。長年の鳩の経験のおかげでその存在に気づくことが出来た。と言っても大体の場所が分かると言うだけで、毎回その隙間に辿り着ける訳じゃない。当たりをつけてその近辺を彷徨えば、その日の内に2割ぐらいの確率で辿り着けるというところだな。待ち合わせには不向きな場所なんだろうが、他の奴らに見つかる危険も少ないと言える」

 森の隙間についてはユミよりもギンの方が感覚的な理解は深い。ヤマの説明に対して、運次第ではその隙間へ辿り着くことも出来るだろうという印象を受けた。

 

「ケンにもその場所を教えてやった。相棒となるラシノの鳩にもな。……確かフデって名前だったな。アイのことを昔から知ってるらしい。だからそいつもアイのことを助けてやりたいと思ったようだ」

「フデ……」

 ユミは一度、アイからその名前が語られたのを覚えていた。ユミがアイに囚われの身になっていた時、フデがアイに例の茶葉を提供していたはずだ。

 おかげでアイが眠りに就き、その手から逃れることが叶ったのだが、一歩間違えばユミが茶を飲まされるところであった。

 そこまで考えを巡らせ、ユミは複雑な顔を浮かべてしまう。


「基本的にトミサの門をくぐる時は2人1組だが、鳩の引退で村に帰る時は単独で出門することになる。私はアイのお産に立ち会うため、ケンとフデに先行してその隙間を目指した。幸いにもその日はすんなりと隙間に至ることが出来た。だが、ケンとフデはなかなかやってこなくてねぇ……。まあ、この辺はいいだろう。時間はかかったが、結果的にはラシノへ着くことが出来た。フデの帰巣本能に従ってな」

「先生、それって……」

「ああそうだ。ウラヤの鳩である私が本来ラシノに行くことは無いんだがな。まあ、最初で最後の冒涜だ。鳩と、この世界に対するな」

 ヤマの不敵な笑みには自虐的な色も含まれていた。


「ケンとフデとの合流が遅れたこともあって、ソラはもう生まれちまってた。その時点でのアイは……、ソラを傷つける意思の無いことだけは分かった」

 ユミがアイに囚われた時にも、傷つける意思のないことは感じ取れた。とは言えユミに向けられた過剰な執着が怖いと思ったのも事実だ。生まれたばかりのソラにまで何をしていたのかと思うと背筋が凍る。


「しかしアイ自身も、不義密通が悪とされることは知っていたようだ。私の姿を見た奴はソラを奪われると思ったらしい。まあその通りだったんだが。アイはソラを抱えて森へ逃げ出した」

「え!?」

 ヤマに対面する3人が一斉に眼を丸くする。帰巣本能を持たぬ者が森へ入るのは無謀なことだ。自殺行為と言っても良い。

 

「もちろん私らはすぐに追いかけた。森に紛れた者を再び探し出すのは苦労したが、まだお産から間のないこともあって、アイは遠くまで逃げることは出来なかったようだ」

 ヤマの声が少しずつ小さくなっていく。

 自身の身に何かあったのだろうと察したソラは固唾を飲む。


「アイを見つけた時、奴は手に小刀を持っていた。ソラを地に寝かせ、そしてソラの眼に向かって……」

「ひっ……」

 ソラは体をくるりと捻り、ギンの胸元へ顔を押し付ける。そして彼の腰へと腕を回した。

「すまないソラ。やめておこう。ギンにも苦労かけるね」

「大丈夫です」

 ギンもソラに応えるように、背中の辺りを優しくぽんぽんと叩いてやる。

 

「それを見たケンはすぐに飛びだして行ったよ。それでアイの体を突き飛ばした。暴れるアイに向かって、『ソラは必ず戻ってくる、だから今は手放せ。そしたらオレがこれからもラシノに通ってやる』そんなことを言ってたかな」

「お父さん、ありがとう……」

 ギンの胸の中でソラがむせび泣く。

 一方のユミは、ケンの発言に思いあたる節があった。それはアイと初めて会った時に発した「ちゃんと約束通り戻ってきてくれたんだね」という言葉に対応する。

 ケンはその場を収めるためにソラが戻ってくるなどと宣っただろうが、ユミはその無責任さに憤りを感じていた。


「その間のソラは泣きっぱなしだ。私が抱き上げてやったら大人しくなったがな。今思えば、あの時にソラが帰巣本能に目覚めたんじゃないかと思ってる。帰巣本能の根源は森で恐怖に打ち勝つ力だ。赤子ながらにアイの凶刃から逃れようと必死だったんじゃないかと」

 話の山場は終わった。そのことを示すように、ヤマはふうと息を吐いた。

「そのままケンらに別れも告げず、私はウラヤに向かった。そうしてお前が今ここにいるんだ」

「先生……、ありがとう。私、先生の元で育って良かったと思う……」

 洟をすすりながら、ゆっくりと言葉が紡がれていく。


 ――どんな雲にも銀の裏地がついている。


 5年前、ユミの母から託されたソラへの文の一文。

 自身が銀の光となれるよう、これからソラと歩んで行こう。改めて決意を固めるギンであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る