第五節 第三十一話 過労

 クイに別れを告げ、ユミは鳩の巣を後にする。

 腰のがま口にはキリの書いた鴛鴦文おしふみが入っている。

 これをソラに読んでもらおうというのが、かねてからの計画だった。

 

 巣を訪れる前はミズの落第が尾を引いて気が重くなっていたが、その件についてもある程度悩みが払拭された。

 自らミズへとコナの想いを届けることが出来ないのは口惜しいが、2人の行く末は見届けたい。その顛末を知れば、アサも喜んでくれるのではないかと夢想する。


 とは言え疲労が頂点に達していた。

 孵卵の監督を務め、結果の報告を終え、その足でクイと対峙したのだ。我が家へと歩を進める毎に、抱えていた緊張感が解けていくが、それとともに足取りが重くなるのを感じていた。

 ミズの孵卵が最短とされる3日で済んだのは幸いだったが、その間碌に休むことが出来ていない。

 ミズは終始、歌うか眠るかを繰り返していた。彼女が眠った隙にサイと交代で仮眠をとってはいたのだが、心身共に負荷が蓄積していった。

 

 先刻、サイはテコにあっさり投げられてしまっていたが、それも彼女の疲労があってのことだろう。それを含めてテコの戦略が功を奏したと言える。

 大人の勝負に手段は選んでいられないと言うのがサイの座右の銘でもあるが、投げられた彼女は実に満足そうだった。傍から見れば阿呆鴛鴦あほうどりと言いたくなる気持ちも今のユミなら理解できる。


 家路が長い。

 支えになるのはやはりキリとの思い出だ。もりすを駆使して鴛の手の温もりを記憶から引きずり上げる。

 朦朧とした意識の傍ら、甘い気持ちになったり、羞恥心がこみあげたり。夢の中のような帰り道ではあったが、どうにか間借りしている長屋の前に辿り着く。

 いざ我が家へと足を踏み入れようとした時、背後から太い男の怒声が聞こえてくる。


「ユミ!」

「トキ教官!?」

 振り返ってみれば、そこにはかつての恩師が立っていた。

 そのただならぬ剣幕にユミの眠気も覚めてしまう。


「お袋さんが倒れた!」

「お母さんが!?」

 一体いつ? 私が家を空けていたから?

 そのような疑問が浮かんだが、居ても立ってもいられなくなる。

「お母さんは医術院?」

「ああそうだ。たまたま俺が近くにいたから運んでやれたんだが……。早く行ってやれ!」

「ありがとう!」

 言い終わる前に駆け出していく。足取りは嘘のように軽くなっていた。


 ――――

 

「お母さんは!?」

 医術院の正面玄関へと足を踏み入れるや否や、受付台に座る女性へと問いかける。

 ユミの鬼のような形相に一瞬気圧されたものの、受付嬢は冷静に応じる。

「落ち着いてユミちゃん。お母様は無事です。ちょっと疲れたみたいで……。あと、院内では静かに」

「ご、ごめんなさい」

 既に顔なじみとなっていた彼女の言葉が胸に刺さる。

 鳩になって間もない頃は幾度もこのような注意を受けてきたが、今となっては懐かしい感覚に肩をすくめる。


「お母様は2階の突き当りの……、ここの部屋です。」

 嬢は受付台の傍らに掲げられた院内地図へ描かれた一室を指し示す。

「ありがとう」

「3人部屋だからくれぐれも大きな音を立てないでね」

「はいぃ……」

 繰り返される注意にユミの動揺はむしろ鎮まっていく。それに乗じる様にぺこりと頭を下げ、母の待つ病室へと足を向けた。

 

 階段を昇り、廊下を歩く。脳裏によぎるのはユミ自身の孵卵で一時帰宅した際の母の姿だ。

 止むをえない部分もあったとは言え、試験開始前夜よりも一回りほど縮んでしまったその体を目の当たりにして、ユミは罪悪感を覚えたものだった。

 トミサの医術院へ通うようになって以来、母はおおむね元気な様子に見えた。そのおかげでユミは鳩として安心して家を空けることが出来たのだ。

 

 やがて件の病室の前まで辿り着き、1つ大きく息を吐く。


 ――大丈夫、お母さんは無事だって言ってた。


 嬢の言葉を思い出しながら自身を勇気づける。

 

 先刻のクイとの会話では母が人質になっている一面を認めざるを得なかったが、トミサへ連れて来たこと自体は後悔していない。

 人との関りが増えたのはユミだけではなく母も同様だ。今回の入院の原因は単なる疲労だったとは言え、1人では行き倒れていた懸念もある。

 トキが偶然近くに居たのは確かに運が良かったのだろうが、たとえそうでなかったとしてもトミサで暮らす限りは誰かが助けてくれたはずなのだ。

 これも鳩の縛めによって維持された平和による恩恵と言えるのだろう。欠点があるとすればその恩恵を享受できる者が限られている点なのだが、今のユミはこの体制に感謝するしかなかった。


 意を決して病室の戸を叩こうとした手を引っ込める。中にいるのは母だけではないのだ。

 他の入院患者に配慮して、戸をゆっくりと横へ滑らせる。戸の縁に蝋でも塗られているのだろうか、まるでひっかりが無い。


 部屋の中には横並びに寝台が3つ配置されていた。奥、中央、手前。

 奥の寝台は垂れ幕で姿は隠されている。

 また手前の寝台には、人の寝ていた痕跡はあるものの今においては不在の様である。

 見た目には中央の寝台で1人だけが体を横たえているような状況だ。


 ユミはゆっくりその人影へと近づき、顔を覗き込む。間違いなく母の顔だ。安らかな寝息を立てている。

 ユミの胸へと安堵感が一気に押し寄せた。

「お、かあ……さん」

 薄れゆく意識の中、絞るように声を出す。

 母の枕元へ顔を突っ伏すと、ユミもそのまま眠りに落ちていく――。


 ――――


 ユミよりも先に眼を覚ましたのはハコだった。

 瞼を開くと、すぐ眼の前に愛しい我が子の顔がある。

「ユミ!? 帰ってたんだ……。お帰り、心配かけたね……」

 聞こえてはいないのだろうが、優しく声をかけ、頭をそっと撫でてやる。

 

 実際、疲れただけではあった。原因は仕事の立て込みだ。

 仕立て屋での仕事も5年となり、そこで働く周りの人々にも移り変わりがあった。

 ハコは新人の教育も任されるようになっていたのだが、そのため自身の仕事へ遅れが生じてしまった。

 店の主人はハコの体の事情を把握していたため、無理はしない様に声をかけてくれてはいた。しかし真面目な彼女の性格が災いし、遅くまで作業をする日々を自ら続けてしまう。

 

 ようやく仕事が一段落し、奮発して兎肉でも食べようかと夕市ゆういちへ繰り出したところで足がもつれ、そのまま意識を失ってしまったのだった。

 そして気がついた頃にはこの病室の寝台へ横になっていた。傍には日頃世話になっている医師の姿があり、聞けば娘の恩師が運んでくれたとのことだった。

 礼を言わねばと立ち上がろうとしたが、医師からは寝ていなさいと制され、ほのかに甘い茶を飲まされたのだった。


 今もまだ、少し体が重い。

 ユミの寝顔は何よりも癒しになる。しかしそれと同時に情けない気持ちが押し寄せてくる。

「ごめんね、ユミ。ダメなお母さんで……」

 呟くと同時にぽつりと涙が落ちる。

 並みの人間より長く生きることは叶わないだろうと自覚はしていた。

 娘の仕事を応援してあげようと決意したのはハコ自身だった。たとえユミが鳩になったことがハコのためだったとしても、我が子には自由な意志で羽ばたいてもらいたい。

 自身の存在がその足枷になるのではないかと思うと、何のために今を生きているのか分からなくなる。


「おかあさん……。キリ……。大好き……」

 寝言を放つユミはとても心地良さそうな顔をしている。

「また、キリ……」

 ユミには自覚は無いのだろうが、ハコはその名前を幾度も耳にしていた。それもユミが孵卵を終えて以降の日々の中で。

 10日以内に帰ってくると聞かされていたはずの我が子が、壮絶な体験をしたであろうことは容易に想像がつく。

 1度目の帰宅時には赤い織物が髪に結い上げられていたはずなのに、2度目に我が家へ迎えた折には、代わりに白い帯が鎮座していたことも不可解だ。

 隠し事をしているのは明らかだったが、母親に余計な心配をかけまいと気丈に振舞う我が子を見て、あまり深入りはできないでいた。

「ユミ……。もう……我慢しないで。あなたの好きに生きて……」

 切に願うその声がユミの耳に入ったのか、その瞼がぱっちりと開かれる。

 

 赤い瞳に目尻が切れた形。

「やっぱり、お父さんそっくり……」

 ユミをその腕に抱いた時から思っていたことだ。叶うことなら3人で暮らしたいと思ったこともあるが、そんな望みはとうに忘れたはずだった。

「お、とうさん?」

 ユミは頭を突っ伏したまま聞こえた言葉を繰り返す。少しずつ意識が明瞭になってきたので、はっとしたように顔を上げる。

 

「お母さん! ごめん、私寝ちゃってた!」

「ふふふ、いいのよユミ。孵卵の監督お疲れ様」

 焦るユミにハコは優しく微笑む。


「それで、ミズくんは?」

「うん、ダメだった……」

「そう……」

 ユミも疲れているはずだ。気にはなるが、残念そうな表情を浮かべる娘にそれ以上追求できなかった。

 

「あのね、監督を務めた後はしばらく休暇がもらえるから、お母さんのこと支えて上げられるよ。お給料も入るし、何か欲しいものがあったら言ってね」

「ありがとう、ユミ。……本当に立派になったわね」

 そうは言うものの、幼い子供と接するようにハコは娘の頭を撫でた。

 

「ねえ、私のお父さんって……」

 ミズとアサとのことは気がかりであるが、思えばユミも父親に会ったことが無い。これまで気にしないようにもしていたが、今日は先ほど耳にした母親の言葉が妙に引っかかる。

「森で帰らぬ人となった。ユミにはそう伝えていたかしら」

「うん。そうだけど……、お父さんは死んだってことなの?」

 首を傾げるユミの頭から手を放し、ハコは真剣な眼を向ける。

「いい加減、ユミには本当のことを話してあげないといけないね」

「本当のこと?」

 先ほどまで頭の上にあった母の手を、名残惜しそうに見ながらユミは問いかけた。


「お母さんね。昔、百舌鳥だったの」


 ――――

 

「お母さんが百舌鳥だった?」

 束の間の沈黙の後、ユミは言葉をひねり出す。

 ウラヤに住んでいた女性にとってそれはあり得ない話ではないのかもしれない。しかし、母に限っては違うのだろうと思っていた。

 

 ユミ自身の孵卵の前夜、母親と食卓を囲いながら鳩になれなかったら百舌鳥になろうかという旨の発言をした。それはほんの軽い気持ちだった。その日は特別に兎肉を与えられたのだが、百舌鳥であればもっと頻繁に食べられるのだと知っていたためだ。しかし対するハコは顔を真っ赤にしてユミを制した。

 その頃のユミは、百舌鳥はトミサからやって来た鳩をもてなすのが仕事だと認識していた。

 しかし実際はもう少し込み入った事情があったようだ。それを知った時には羞恥心を覚えつつ、母親の前でとんでもないことを言ってしまったのだと自責の念に駆られたものだった。

 一方で百舌鳥に対する感謝が深まったのも事実だった。ギンがマイハに通っていたという疑惑についてなじりはしたが、言葉の端々に百舌鳥への尊敬が現れていた。

 とは言え、自身の母親がそうであったという考えは欠落していた。少なからず偏見を持っていたことは否定できない。


「ユミがお母さんに聞いたことがあったわよね。どうしてナガレなんて知っているのかって」

「あ……」

 先刻のギンとの対話でも議題に上がったことでもある。

 鳩の仕事は心身ともに負担が大きい。そして百舌鳥に癒してもらうことが犯罪の抑止力になっているのだろうと。

 ハコがナガレを知っていたのは、自身が担った責任からということだろう。


「ユミは嫌? お母さんが百舌鳥だったって知ったら」

「ううん。そんなことはない、でも……」

 そうだとすると父親は鳩だったと言うことだろうか。そして「森で帰らぬ人となった」という文言に別の意味を帯びてくる。


「ユミのお父さんは鳩よ。お母さんが会ったのも一度きり。森で帰らぬ人となったと言うのは、あれ以来ウラヤに来ることも無かったって意味だったの」

 ユミの疑問を察したようにハコは言葉を紡いでいく。

「え……、じゃあお父さんは今も?」

「ええ、トミサにいるはず……。ユミが私をトミサへ連れて行ってくれるって聞いて、本当は期待してたの。お父さんにまた会えるんじゃないかって」

 ユミにはそれで十分だった。ハコに向かって微笑みかける。

「お母さんは今もお父さんが好きなんだね」

「ええもちろん。結局まだ会えてないんだけど……」

 諦めのような表情だ。それでも割り切った色も伺えた。


「お母さんってこんな体でしょ? マイハでの暮らしもほとんど下働きだったの。あねさん達からもよくいじめられてた。お前なんかいつまで経っても郭公かっこうを迎えられないって」

「お母さん……」

 それはユミにとってある面安堵を覚える事実だった。体の弱い母親が何人も男を相手にしてきたと考えるよりよっぽど気が休まる。


「私が外で洗濯物を干している時だった。姐さん達に指を差されながら。そしたら体の大きな男の人が声をかけてきたの。君は百舌鳥なのかって。あの時のお父さん、格好良かったんだけどそれ以上に可愛かった……。信じられないものを見るかのように頬を赤らめて」

 母の惚気が始まったのかとユミは呆れそうになったが、黙って続きを聞くことにする。

「周りにいた姐さん達は血相を変えてた。『この者はお客様を相手に出来るような器ではありません。是非私と……』そんなこと言ってたっけ。正直少し滑稽だった」

 基本的に優しい母親だが、姐さんとやらに対しては思うところはあったようだ。

 

「そしたらお父さん懐からありったけのお金をばって出して、『こいつは俺がもらっていく』なんて言って私の手を引いてくれたの。姐さん達もお金の魅力には勝てなかったみたいね」

 ハコの顔がどんどん赤らんでいく。

「お父さんの手はすごく温かかった。お母さんもそれで思った。この人とならって。そのまま連れて行かれた先はヤマ先生の医院。その時は先生も現役の鳩だったから不在のことは多くて、医院だってことは分からなかったんだけどね。だから私はここでお父さんに……、そう思った。だけどお父さん『ここの家主のことは良く知っている。寝起きするなり好きに使え』そんなことを言って立ち去ろうとしたの。ねえ、これってすごく失礼だと思わない?」

 ユミにはそれが無礼に当たるのか判断がつかなかった。


「だからお母さん、奥の手を使った。姐さん達がやってることを真似をしたの。……具体的なことは言わないけどね。そしたらお父さん『やめてくれ、手加減出来なくなる』だなんて。それでそのまま……。あ、ごめんねユミ。娘に聞かせる話じゃなかったわよね」

 ユミがぎょっとした様子を察し、ハコは慌てて話を止める。親の性事情ほどおぞましい話は無いのだ。


「とにかく、お母さんが関係を持ったのは、後にも先にお父さん1人とあの1度だけ。だからユミのお父さんは間違いなくあの人」

「あの人……」

「そう、名前も知らないの。もしかしたら本当は誰かの鴛なのかもしれない」

「お母さん……」

 ハコは遠い眼をする。どこかまだ、恋焦がれた人への未練のようなものを感じてしまう。

 

「大丈夫、私が鳩をしていたらきっとお母さんの好きな人にもまた会える。そしたらお母さんの想いだって伝えられる」

「ふふふ。お母さんの好きな人だなんて……。あなたのお父さんなのよ? ユミからお父さんって呼んであげるのが一番よ」

「それは分かる、でも……」

 ユミは素直に頷くことが出来なかった。


「そうね。ユミのことを置いてけぼりにした訳だから、戸惑うわよね。でも、いつか会うことが出来ても怒らないであげて。ユミは立派に成長したんだから」

「……うん」

 不承不承といったところだが、ユミの返事に満足したハコはぽんと手を打つ。今度はユミの番だと言わんばかりに。

 

「ねえ、ユミの話も聞かせて」

「え?」

「キリ。あなたが好きな子の名前なんじゃないの?」

 ユミは驚愕の表情を浮かべる。一体母はいつの間に把握したのだろうか。

「さっきも寝てる間に呟いていたわよ」

「あ……」

 ユミの顔が赤くなるが構わずハコは続ける。

「もしかしたらお母さんも力になってあげられるかもしれない」

 ユミは1つ大きく息を吐いた。

「うん。お母さんに聞いて欲しい。キリのこと」

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