第三章 口舌り
第一節 第二十七話 落第
「
罪を翔けぬ翼に 焦がされた烏
帰る場所を違えて 眠る鴛と鴦
ああ……、あ、あ、あれ……?」
もう幾度繰り返されたか分からないその歌だったが、ミズの歌声が不意に途切れだしたようだ。
森の中、ユミとサイはミズを遠く離れた場所からずっと見守っていたのだが、戸惑った様子の彼女を見るのは初めてだった。
「ミズ?」
不審に思ったユミはぽつりと呟く。
まだミズの傍に姿を現すには早い。孵卵の試験監督が前に出られるのは、受験者の身に危険が迫った時なのだ。
ユミが森で歌うミズの姿を最初に眼にしたのは6年前のことである。
それはユミが孵卵の際、偶然にもナガレの村に足を踏み入れてしまったことがきっかけだった。
ナガレは他の村から隔絶された流刑地であり、その時点でナガレに辿り着ける者はトミサに住む高齢の男1人しかいなかった。
その男が亡くなればナガレの住民の生活は破綻する。ナガレへの案内役の男に代わる後継者が求められていたのだが、ミズがその候補であった。
ミズはナガレへの帰巣本能を発現する可能性のある唯一の存在であったのだ。
その時もミズの潜在能力を引き出すため、森の中に1人置き去りにした。するとやはり、彼女は我を忘れたように歌を紡ぎ始めたのだった。
帰巣本能を持たない子供は森の中で自我を保てない。
過剰に恐れたり、狂ったように笑い出したり。ミズの場合は歌唱という形でそれが現れた。
放っておけば、その内ミズに帰巣本能が発現する可能性はあった。
しかし、お産を迎えたヤミが囚われた状況である。クイは一刻も早く彼女を助けたかった。
それに応える形でユミはもりすを発揮し、ナガレへとクイとミズを案内した。
ミズの父親はその結果を以てナガレも当分は安泰だと納得したのだが、実のところ彼女に帰巣本能が発現した訳では無い。
ミズが一人で森に入ろうものなら我を忘れたように歌を歌いだすのが道理なのだ。
そんな彼女が歌うのを止めた。即ちミズに帰巣本能が目覚めたと示唆される。
このまま彼女がナガレへと辿り着くことが出来ればそれを証明することになる。
「ミズ、頑張って……」
彼女には聞こえないようにユミは応援する。ユミ自身も自分のことのように緊張してしまっていたらしく、その声は震えていた。
その様子を察知したのか、隣にいたサイがぎゅっと手を握ってくる。
「ユミ、あいつを信じてやろう。私も応援する。頑張れ、ミズ。合格したらうまいもんいっぱい食わしてやるからな……」
「サイ……」
サイらしいなと思い、ユミは思わず笑ってしまう。
時に喧嘩をすることもあったが、鳩になって以来ずっと助けられてきた。
雛の講義でトキから教わったように、お互いを補い合うことの大事さを幾度も実感することになった。
運動能力の低いユミにとって、バカが付くほどの力を持つサイの存在は頼もしかった。
そしてユミにも持ち前の賢さがある。単純な思考回路のサイとの相性は抜群だったと言えよう。
そんな彼女と一仕事終えた後に食べるあんみつは格別な物だった。
サイの発言には、その輪にミズも加えてやろうという思惑が見て取れる。
ミズがナガレへ帰巣本能を発現するための孵卵は、クイと行った非公式な物を除いてもこれが初めてではなかった。
ミズがトミサへと預けられたのは11歳の頃。それ以降は200日に1度程度は孵卵に挑んだ。
裏を返せばそれだけの回数、不合格を重ねたと言うことだ。
さらに直近にいたっては受験頻度が増していた。森へ挑んでは落第し、トミサへ帰っては10日程の休息をとる。そして再び森へ赴く、という繰り返しの日々だ。
これほど孵卵の受験回数を重ねた者は過去にも例がない。ミズの表情からは日に日に追い詰められていく様が見て取れた。
そして今回の孵卵の監督にユミを指名したのはミズ本人だった。
ユミとミズとの出会いについて詳細を明るみに出すわけにはいかないが、雑貨屋で働くミズと親し気にしているユミの様子はトミサでも周知の事実であった。
受験者が監督を指名する例などほぼないが、繰り返し孵卵に挑む彼女の意志を汲む形でユミが試験に携わることになった。
そしてもう一人、試験監督にはトミサの鳩が必要となったので当然のようにサイが着任したのだった。
「ねえ、サイの孵卵の時、お姉さんと2人だったって言ってなかった?」
ミズからは眼を離さず、ずっと気になっていたことを問うてみる。
「お前よくそんなこと……。あ、ユミのもりすにかかればこのぐらい覚えてるのか……」
「うん。少しづつだけど普通の人の記憶力との差も分かってきた。だからこんな話できるのも七班の皆にだけ」
「ユミ……。なんか嬉しいよ」
――やっと家族になれたんだなって。
そんな言葉を発するのは野暮な気がしてしまった。
姉を亡くしてからというもの、サイは家族という存在をより一層意識するようになっていた。
あって当たり前だったものが失われてしまう。失われた後の世界は現実味を帯びていなかった。
義兄であるトキも悲しみに暮れていたはずだ。その義兄妹は自然と支え合うような関係になっていた。トキの担当する七班にサイが割り当てられたのもそのためだ。
サイは生前の姉の姿にはいつも憧れていた。
雛の初日、学舎の引き戸を開き席につく少年少女らを見て、こいつらの姉になってやるという決意が芽生えた。
ところが、彼らの態度は思っていたものと違った。
女らしさの無さをからかってくるギン。思慮に欠いた発言の多いユミ。自認している以上の女をサイに求めてくるテコ。
どうにも彼らからは姉とは程遠い存在だと思われていたようだ。
しかし次第に、立場に拘る必要もないだろうという気持ちも生まれてくる。
講義の最終日、返された試験結果から他の班員と比較しても自身の至らなさが身に染みた。
そして不得手な部分においては歳など関係なく誰かを頼れば良いのだと気づいた。それは再三トキが主張していたことでもある。
時には姉に、時には妹に。どのような立場であっても家族には違いない。
姉のスナという憧れに近づくにはまずはその意識を持つことが必要だったようだ。
さらに言えば、その関係をサイが家族と表現しているだけで、ともに育み合うことができればなんだっていいのだ。
ユミがどう思っているかは分からないが、七班の一員として頼ってくれているのは十分に伝わった。
「ユミ、姉さんのことなんだけど……」
ユミにはまだ話していないことがある。この機会にサイの孵卵での出来事を話してしまおうか。
それは恥ずかしいことだと感じていたが、今ではむしろユミに聞いてもらいたいという気分になっていた。
「まって、サイ。ごめんね。話は後にして……」
ユミの反応に一瞬むっとしてしまったが、今は職務中なのだと冷静になる。
ユミの視線の先のミズの様子がおかしいようだ。
「お父さん? お母さん? ユミ? ソラ……」
歌ばかり歌っていたミズの口から久しぶりに発せられた人を呼ぶ声だ。
一概に言えたことではないが、帰巣本能に目覚める際は愛する人へ縋るような気持ちになることもあるようだ。
「ふふふ、ミズ。まだ私と……、それにソラのこと好きなんだ」
6年前にも突然向けられたミズからの好意。そして乗り換えるようなソラへの態度。
当時は戸惑いと憤りを覚えたが、今ではミズも大事な友人だ。彼女もそれをわきまえており、一線を引いたような態度を取っている。
「ソラ? ウラヤの? ……ミズは会ったことあるのか?」
「あ、そっか。ミズが会ってたらおかしいのか……。七班の縛めにも関わることだから折を見て話してあげるね」
ミズとソラが出会う経緯は非常に複雑だ。せっかくなら腰を据えて話したい。
今はミズの動向に注視すべきだ。
「ユミ……、助けて……」
「え……?」
「ユミぃいいい! 助けてぇええええええ!」
突然発せられたミズの号哭が、ユミとサイの耳を
受験者の危機が迫った際には救出に向かうのが孵卵の規定事項だ。しかしユミは、それよりも先に6年前母から受け取った文を思い出す。
――危ないと感じたらすぐに助けてと言いなさい。杭さんたちがウラヤまで連れて帰ってくれるそうです。
文面に従えば今まさにその時だ。試験を打ち切り、ミズを助け出さなければならない。
考えるよりも早く、足が動いた。
「ミズ! そこから動かないで!」
ミズとの距離はユミの足で20歩ほど。ユミにとっては関係のない話だが、一度眼を離しても再び対象者を見つけられるギリギリの距離である。ミズの耳にもユミの声がする方向が分かるはずだ。
「ユミ!」
ユミへと振り返ったミズの顔からは涙が溢れ出していた。
日頃、度を越えた明るさを振りまく彼女からは想像し難い表情だ。
「ミズ! もう大丈夫だから!」
ユミは両腕を広げた。応じる様にミズもその体へと飛び込んでいく。
6年前に比べ、ユミもミズも背は伸びた。それでも2人の身長の差はほとんど変わらない。ミズが泣き顔を胸に押し付けてくるのも構わず、その頭を撫でてやる。
「ありがとう、ユミ……。ボク、またダメだった……」
腕の中のミズは上目遣いにユミを見る。
「大丈夫だよミズ。また受ければいい」
帰巣本能を持たぬ者を再び森の中に投入するのは酷な話であるが、彼女はナガレにとっての希望なのだ。
「違うの……」
「え?」
ミズの吐息が荒くなっていくのを感じる。
ヤマから教わった知識を借りれば、これは過呼吸という状態だろうか。極度の恐怖や不安に襲われた時に生じる症状のはずだが、今のミズはユミの腕の中だ。
キリがそうであったように、ユミと触れ合っている限りは森を恐れないはずなのだ。
何がミズを不安に陥れているのか。彼女はその答えをゆっくりと紡ぐ。
「帰巣本能に目覚めたら……、森に惑わなくなるんだよね?」
「そうだよ、ミズ」
初めから森に惑わなかったユミにとって、その感覚が分からない。しかし知識としては頭にある。
「ボク……、今はもう歌いたいって衝動が無い……」
「え? それは良かった……ね?」
良いことであれば、何故ミズは泣いているのだろうか。
「なのに!」
ミズは洟をすすり、コクンと唾液を飲む。
「ナガレの場所が分かんないよー!」
帰巣本能の発現によって得られる効果は2つ。
1つは森に入った者を惑わせる千鳥に打ち勝つ力を得ること。
もう1つは生まれた場所へ導かれるようになることだ。
現在ミズは前者の効果は得たのに、後者の恩恵を受けていないと主張している。
「そんなはずは……、ねえサイ!」
「おう!」
ユミの後ろに控えていたサイが出番だとばかりに返事をする。
「サイが帰巣本能に目覚めた時ってどんな感じだった?」
帰巣本能について感覚的に分からなければ、分かる者から聞けば良い。
「えっと……」
ちょうど先ほど話そうと思っていたことである。
「姉さんと殴り合って……、楽しくなってきたからぼこぼこにしてやったんだよ」
「サイ……」
なんとも物騒な言葉に呆れそうになるが、ユミは努めて冷静に読み解く。
恐らくは千鳥に惑わされた結果、サイの姉の幻影を見てしまったということだろう。
「そしたら姉さん、嬉しそうに笑ってお前の勝ちだって私の手を引いてくれた。そんで、気づいたらトミサに居た」
サイは懐かしそうに遠い眼をする。
「初めてだったよ。姉さんに勝てたの。叶って良かったよ……、
その言葉にはっとする。
「サイ!」
感傷に浸るサイを引き戻すようにユミは声を上げる。
「サイが孵卵に合格したのって幾つの時?」
「大人になるギリギリ直前だったから16の終わり頃だったはずだ。今思えば、もう一足遅ければ姉さんに会えなかったんだろうな。この点については千鳥には感謝だ」
ユミは息を飲む。
ユミは忘れていた訳ではない。これから辿る友人の境遇から眼を逸らしていたのだ。
森に惑わなくなる条件はもう1つある。
それは大人になることだ。
「……ミズ。今幾つ?」
「うん。最近17になったところ……。大人って言われる歳……」
そして帰巣本能が目覚めるためには自らの意志を以て千鳥に打ち勝つことが必要だ。
サイの場合、姉の影を打倒することがそのきっかけだったのだ。
「ミズ!」
腕の中のミズをさらに強く抱き締める。
「ユ……ミ……。おとう……さん……。おとうさん……」
大人になれば自然と森に惑わなくなる。自ら千鳥に打ち勝つ必要もない。その機会さえも失われてしまったのだ。
即ち、帰巣本能の発現する見込みもなくなる。
「お父さん、ごめんなさい。もう、ナガレには行けない……」
「ミズは悪くないよ!」
必死でミズを慰めようとするが、ユミの眼からも涙が溢れ出してくる。
ユミもミズの父親のアサとは6年前に別れたきりだ。
特に強い縁を感じていた訳でもないが、鳩の縛めを犯した烏という割には思慮深い人物であると感じていた。
実際彼は一人娘の身を案じ、早々にトミサへと預ける判断をしたのだ。
ユミを手籠めにしようとしたり、ヤミが産む赤子をナガレの鳩の候補に仕立てようとしたりしたケンとはまるで違う。
ナガレに送られる経緯がどうであれ、ミズに再び相まみえることぐらい許されても良いはずだ。
何よりもミズがそれを望んでいるのだから。
ミズがトミサに預けられて以降、彼女とアサとのつながりが完全に断たれた訳では無かった。
年に1度程度ではあるが、ナガレに帰巣本能を持つ鳩を通じて文のやり取りをすることが許されていた。
やがてそれすら出来なくなる日も遠くはない。
「ミズの思いは私が届けるよ。アサに……」
ユミは涙を拭い、ミズの耳元に囁く。
「え?」
「ナガレの場所は分かってる。七班の縛めさえ解かれたら行くことだって出来るから……」
ミズはユミのもりすを身を以て体験した1人だ。
ユミの決意にわずかながらも希望を見出すことが出来たのだろう。その瞳から少しずつ光が満ち始める。
「ありがとう。ユミのこと信じる。お父さん、元気してるかな……」
「大丈夫。きっと今頃悪いことしたケンにお灸でも据えてるよ!」
「ふふふ……。お父さん、ケンを𠮟りつける時はよく楽しそうにしてたよなぁ……」
ミズは懐かしそうに微笑んだ。
「よし、帰るぞお前ら! 孔雀屋のあんみつ、私がおごってやるよ!」
「やった!」
空気を読まないサイの発言にかえって救われる。
ほとんど空元気なのだろうが、ミズは諸手を挙げて喜んで見せた。
――――
トミサへの帰路はサイが先導することになった。
ユミとミズはその後ろを隣り合って歩く。
「ねえ、ユミ。手、繋いでいい?」
ミズが垂らした手のひらは大きく開かれている。
そこに指を絡ませ、
「……いいよ。今日だけは」
6年前は無遠慮に絡めて来ようとするミズの手を拒否してしまったが、今はお互いに分別がついている。
「ありがとう、ユミ。ふふふ……。キリ、こんなことして怒らないかなぁ……」
「大丈夫だよ。私のキリは優しいから」
「私のキリか……。やっぱり勝てないなぁ……」
ユミのことはとうに諦めていたはずのミズだったが、傷心の今、胸の奥に押し込めていたものがこみ上げてくる。
「ねえ、ソラは元気?」
「うん。元気だよ」
正式に鳩になってから5年間。
ウラヤへ訪れる度にソラとは顔を合わせており、時にはミズの話で盛り上がることもあった。
「ボク、鳩になれなかったってことは
期待を孕んだミズの眼を見て、ユミは嫌な想像をしてしまう。
「そうだけど……。もしかして……、ソラと文通したいの?」
「うん……。ダメ……、かな……?」
「それはダメ!」
「ひっ……」
思わず張り上げてしまった声にミズは恐れおののいた。
ふたたび涙が溢れ出したミズにユミは猛省する。
「ご、ごめんねミズ。でも……、それはダメなの」
「うん、分かってる。そんな気はしてた……」
雛の最終試験にて、ユミは不本意ながらギンをソラに引き合わせることになった。
ギンがユミからソラへと乗り換えることは想像に難くはなかったが、ソラまでもがギンに興味を持つとは考えたくもなかった。
どうせギンのことだから、すぐ他の女になびいてしまうだろうと思っていた。
しかしギンは飽くまでも一途であった。ギンのことを好きになると宣言したソラの想いをしかと受け止めたということなのだろう。
「ああでもなぁ。ソラの相手があの時のお兄さんだなんて……。なんかやだなぁ……」
「うん、分かるよミズ。でもね、いい加減認めてあげないとと思ってる」
真剣な眼差しのユミを見ると、ミズは邪悪な笑みを浮かべ始めた。
「ねえ、ユミ。お兄さん、ユミにお茶飲まそうとしてたんだよ。孵卵の前に飲むやつ」
「え……。うん。まだ遅くないね。今からでも烙印を与えよう、ギンに」
ミズと繋いでいる手に力がこもる。
「ふふふ。うそうそ。お兄さん、ユミに飲ませたらって勧めた茶葉、買わなかったんだよ。葛藤はしてたけど……」
「ミズぅ? ……危うく手籠めにされるとこだったじゃない!」
「ごめんって……。きゃははは! やめてくすぐらないで!」
すっかり元気を取り戻した様子のミズに、ユミは安堵を覚えるのだった。
――――
「あつまれ おねしょた」の森も更新しました。
良ければ読んでください。
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