偉大なる祖父
相変わらず祖父の部屋は広いのか狭いのかよく判らなかった。平米自体は広い。だがこの部屋は単なる寝室ではなく、祖父の居室であると同時に書斎でもあり、さらに浴室と厠までも押し込められているのだ。狭いというより詰め込み過ぎに思えた。
だが散らかっている訳ではない。むしろ人が住んでいる部屋とは思えない程に整理されている。装飾らしい装飾もなく、絵画も彫刻もない。かろうじて花を活けるための壺があるくらいだ。多くの人間は
かと言って全体の印象を言えばはやはり狭く感じる。それは部屋の広さや家具の大きさではなく、祖父の存在感そのものが部屋を小さく感じさせた。
「あなた、マクシミリアンが来ました」
祖母は祖父にそう声をかけた。
「ああ」
祖父の声がした。マクシミリアンは当然祖父はベッドに居るものかと思ったが、なんと祖父は全面ガラス窓の前で、背をこちらに向けて立っていた。
「お加減は大丈夫なのですか?お祖父様」
マクシミリアンは驚いてそう声をかけた。
「人を呼んでおいて寝たまま応対はできないよ」
祖父は優しい声でそう言った。
そう言って祖父は振り返った。振り返る時に真っ白になった長髪がなびいた。陽光の反射もあり、それは白髪というより白銀髪のように見えた。
「よく来たね、マクシミリアン」
祖父はマクシミリアンに優しく声をかけた。
「お体は大丈夫なのですか?」
マクシミリアンは再度そう訊いた。
「いや駄目だな。恐らく二、三日中だろう」
祖父はあっさりとそう言った。
「…………」
マクシミリアンは絶句してしまった。
この部屋に対して感じる矛盾と同様に、幼いマクシミリアンは祖父に矛盾を感じていた。祖父は重病に侵されている。それは医者じゃなくても誰でも一目で判る。だが、だからと言って祖父は病に負けてはいなかった。
げっそりと痩けた頬の上には変わらぬ強く優しい眼光があり、肉の落ちた身体は今なお威風を漂わせていた。病はやがて祖父の生命を奪うだろうが、国家を支えた英雄の不屈の魂までを奪うには至らなかった。祖父は祖父のままだった。
「閣下は永久に不滅です!」
ふいに大音声でクレスノフがそう叫んだのでマクシミリアンは驚いて跳ね上がってしまった。ちょっと部屋の中で大声で叫ばないでよ。
「確かに君はあと百年は生きるだろうな」
祖父は薄く苦笑を浮かべてそう言った。
「ご自身も大将閣下なのに別の人を閣下とお呼びなさいますな。混乱を招きますよ」
祖母も苦笑を浮かべてそう窘めた。
「私が閣下とお呼びする方は地上で唯一人です!」
クレスノフは再び大音声でそう叫んだ。
「また私はただの円卓会議長ですが、ロードマイン大公は連邦軍総監であります!」
クレスノフは三度目の大音声を張り上げた。
「わかったわかった」
祖父は苦笑しながらそう諌めた。
「アントニオ、茶を頼んでいいかな?」
祖父は祖母に向かってそう言った。
「ええもちろん。そういう約束でしたわね」
祖母はやや憤慨したような振りをしてそう言った。
老夫婦の会話にマクシミリアンとクレスノフは微妙な視線を巡らせた。夫婦の約束があるのなら他人が口を出すべきではないし、今この場には侍女は居ない。しかし大公の正妻に茶の準備をさせるというのは些か以上に気が咎めた。
「気にしなくていい。少し外してもらう口実だ」
祖父は少し茶目っ気のある顔でそう言った。
「マクシミリアン」
祖父はマクシミリアンに呼びかけた。
「はいお祖父様」
マクシミリアンも素直に応える。
「お前は私より大伯父上に似ている」
不意に祖父はそう言った。
「大伯父上……セルファード殿下ですか?」
去年ついに退位されたが、祖父の実兄に当たる人物で、長年ロードウェル王国の国王を務め、最高会議でも長老として辣腕を振るってきた政治家だ。
「お前が政治家に向いているかは判らぬが」
祖父はそう前置きした。
「兄上は御幼少の頃から茶目っ気のある方でな」
祖父はそう言うとそれを真似るように笑った。
「そういうお前だからこそ宿題を残したい」
そう言うと祖父はゆっくりとした足取りで本棚に向かった。本棚に並べられた本を見てマクシミリアンは少しげんなりとした。あんなに難しそうで重くて分厚そうな本など渡されても正直困る。本なんて教科書と小説だけで充分だった。
「これを読みなさい」
そう言って祖父が渡してきたのは本ではなかった。書類というか、あまり枚数のない紙の束だった。全部で十枚ほどしかない。え?なんですかこれ?
「これを読んでどうするかはお前の自由だ」
祖父はそう前置きした。
「だが、もし何か思う事があり、人の助けが必要ならクレスノフ大将を頼りなさい」
祖父はそう言ってクレスノフを見た。
「君には迷惑かも知れんがな」
そう言って祖父は微笑を浮かべた。
「閣下のご命令とあらば万難を排して!」
クレスノフは高々とそう宣言をした。
マクシミリアンはぽかんとして祖父とクレスノフを交互に見た。不思議な話である。もしこの紙の束を見て、何らかの人手が必要になったのなら、普通に父や使用人に頼めばいいのではないか?なぜ一族でもないクレスノフにそれを頼むのだろう?
「不思議かな?」
祖父はマクシミリアンの表情から疑問を察した。
「……はい。何故でしょう?」
マクシミリアンは素直にそう訊いた。
「私も些か心残りを解消したくてね」
祖父はまた茶目っ気のある笑みを浮かべた。その言葉にマクシミリアンもクレスノフも怪訝な顔を浮かべたが、ふとクレスノフは愁眉を開いた。
「閣下、まさかそれは」
クレスノフは驚きの声を上げた。
「もし君が何か察する事があるのなら、あるいはその予想通りかも知れんな」
祖父は微笑を浮かべてそう言った。
「私は別に含むところはありません!」
クレスノフはやや頑迷にそう言った。誰が見てもそれは強弁に見えた。
「クレスノフさんの苦手な人ですか?」
マクシミリアンはクレスノフにそう訊いた。
「そのような事は決してありませんぞ若!」
クレスノフは再び大声で強弁を張った。
マクシミリアンは祖父と視線を合わせ、互いの目が笑っているのを確認した。祖父が茶目っ気のある事をするのは実はさほど珍しくはない。だがこれほど謎めいた話は初めてだった。祖父の最後の悪戯かと思えば何やら心が躍るマクシミリアンだった。
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