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9」への応援コメント


  • お接待の話が色々出ていて興味深いです。
    バイク遍路の場合、遍路路近傍にお住まいの方との交流などは無いので、初日の徳島市内のホテルと、お寺でいただいたもの以外はほぼありませんでした。四国に住んでいこういうことを言うのもお恥ずかしいのですが、そういう文化が残っていることに感慨深いです。

    ただ、これはあくまで個人としての感想ですが、「乞食かそうでないか」は心の持ちようだと思います。「くれて当たり前」の態度は論外ですが、「困っている人」を自分のできる範囲でお手伝いするのは、決して「乞食に対するもの」ではありません。四国外で見るかどうかよくわかりませんが、托鉢僧はたまにいらっしゃって、例えば四国の玄関口とも言われる高松駅でもたまに見かけることがあります。
    自分は決して信心深いことはないのですが、そういう方に対して幾ばくかの布施を差し上げることがありますが、これは何というか、お寺でお賽銭を出すのと同じように、「自分の代わりに修行を積んでいる」というような感覚で寄付しているので、遍路の方に何がしかのお手伝いをすることは、自分の分も回っていただいている、という感覚がある気がします。そこに感謝の気持ちが返ってくれば、もちろん「自分は良いことをした」という気持ちになれますので、さらにお互いに良いものだと思います。

    作者からの返信

    遍路宿ならともかく、ホテルでのお接待などというものもあるのですね! 本当に遍路文化が根付いているのだなあと感じ入ります。四国では、例えば小学校の郷土学修などの時間に、児童や生徒がお遍路について学ぶ時間というのもあるのでしょうか?

    私が幼い頃は、埼玉県にある祖母を訪ねた時など、駅前のように人の往来がある場所で托鉢僧を見かけることがしばしばありました。先日、所用で仙台へ行った時にはやはり駅まで托鉢僧を見ました。しかし、言われてみると、最近は托鉢僧の姿を目にすることはまず無いように思います。

    自分の代わりに修行を積んでいただいているという考え方が、やはり遍路の土地、接待文化が根付いた場所に住まう方ならではのものだと思います。私はお遍路に出る前は、お賽銭は形式的にお金を投げ入れていただけですし、お布施は「相手を助ける」という意味をぼんやりと抱いていただけでした。

    お互いに良い気持ちになれるのがお接待の本質であれば、人がお遍路に魅入られて何度もお遍路を繰り返す人が多いことの理由がとても理解できるように思います。