鍵と鈍色

十戸

鍵と鈍色

 そしていま、彼の目の前には女がいる。

 寂しい肩をした、無口で静かな《女》だ。

 彼は一度として、《女》がその口でものをしゃべるところを聞いたことがない。

 うめき声やら叫び声やら、そういった音の類いのひとつも、《女》は口にすることがなかった。

 息をしているのかどうかさえ疑わしい。

 食事もせず、眠っている様子もない。

 その場にじっと座りこみ、微動だにしない《女》。


(生き物であるなら多少なりと身動きをするものだろう。

 座り直したり、立ち上がったり、とにかく何でも良いから)


 だがこの《女》は動かない。

 果たしてあの身体のなかには、心臓か、それ以外の臓器の一つも、収まっているのだろうか。


 彼にはそもそもこれを女と呼んでいいのかもわからなかった。

 生き物と思っていいのかさえ。

 たしかに容貌のみを見るならば、それは女であるに違いなかった。


 《女》は小さな部屋のような、素っ気ない形のガラス箱のなかへ入れられている。

 箱の置かれた部屋は、隅まで白一面に塗られていた。

 彼はその片隅、ガラス箱からはいくらか離れたところに、小さな椅子を与えられて座っている。

 それが彼の仕事だった。

 天井には、いやに強い電灯がうるさく光を放っている。

 目に沁みるほどの明るさ。


 光を受けて黒く影を落とす《女》。

 その影だけが、《女》が実体をもって存在することの証明だった。


 彼はそろそろと立ち上がり、ガラス箱に近寄った。

 足音を立てないように。

 《女》はやはり微動だにしない。

 彼は笑った。

 見た目のことだけなら、《女》は惚れ惚れするほど美しかった。

 垂れて散らばった白い髪。

 同じだけ白く見える肌。

 その滑らかな曲線、折り目のない関節。

 うつむいた首筋。

 口元とおぼしきところはいくらか赤く、ひとみがあるはずの場所には、わずかな青さが明滅している。

 《女》は完璧だった。

 そしてやはり、彼の目にはどこまでも《女》であるとしか映らない。


 彼は見つめた。

 《女》を。

 それが彼の仕事だったから。


 ため息をする。

 ふとポケットへ突っこんだ指先に、冷たく硬いものがぶつかった。

 二本の鍵。

 ひとつは彼のロッカーを開けるための――そうしてもうひとつは、目の前の箱を開けるための鍵だった。

 手のひらにじわっと汗が浮き上がる。

 それは本当なら彼が持っているはずのない鍵だった。


 ぱっと手を抜き出す。

 息を吐く。

 神経質に首をめぐらす。

 そうして部屋の壁に貼りつけられた時計を見上げた。

 じき交代の時間だった。

 ガラス箱からそっと距離をとる。

 彼は椅子に座っていなければならなかった。


 いくらもしないうち、後ろでドアの開く音がした。

 小さな扉だ、そこから彼同様、冴えない風体の誰かが、窮屈そうに入ってくる。

 彼は立ち上がり、何も言わずにドアへ向かった。

 見知らぬ誰かも無言のまま椅子へ座る。


 振り向きざま、ドアの閉まる最後の一瞬、彼は部屋のなかを見回した。

 何も変わらない。

 《女》は身じろぎもせずうずくまっている。



 触れたものが腐敗する。

 腐る。

 それはただそんなものだった。

 人間のようにも見えるが、じっさいそうとは言い難かった。

 ただ見た目が似ているというだけのことだと考えられた。

 それがこの世に生まれた原因は定かではない。

 いつからいたのか。

 どこからきたのか。

 正体もわからないままだった。

 いままでに何人かの『勇敢な』人間たちが調べようと試みたが、そうした人々はみな次々と腐って死んでしまった。

 腐るものに隔てはなかった。

 人、獣、草木、建物。地面と水。

 ところがただガラスだけは、《女》たちがその手で触れ、身を預けても、どうしてか腐ることがなかった。



 彼はいま、食堂でひとり味気ない食事をつついていた。

 すり減って傷だらけのスプーンで、粥とも汁ともつかないものをかき混ぜる。

 何度も何度も――《女》のいる部屋とくらべ、ここはずいぶん暗かった。

 食べる気はしなかった。

 それでもこれはあてがわれた食事で、頼まなくてもあてがわれた通りにこうして出てくる。

 ゆがんだ銀色の深皿のなかで、不快なにおいをさせているそれは、どこか腐肉にたかる蛆に似ていた。


「なあ」


 背後で誰かの声がする。


「聞いたか、盗られたものがあるんだってよ」


 食器をそのままに、彼は素早く立ち上がる。

 まるで逃げるようにしてそこを出た。

 もとからしめてもいない襟を意味もなく何度も引っ張った。

 前へ進むための足音が、やけに大きく響いて聞こえる。


 手がポケットへ伸びる、震えながら。

 這うように。

 あの鍵が入っているほうのポケットへ。



 そしていま、彼の目の前には女がいる。

 彼は椅子に座って《女》を見ていた。

 一昼夜を過ぎ、再びこの部屋へきてからずっと、心臓は不自然な速さで波打っている。

 指先は何度もポケットのほうへのばされ、鍵に触れてはおびえたように離れた。

 目の前の《女》は、やはりぴくりとも動かない。


 けっきょく、騒ぎらしい騒ぎはなかった。

 情報は共有されず、誰も何も調べないまま時間だけが過ぎた。


 壁の時計を見上げる。

 前に見たときからいくらも経っていない。

 時間が止まってしまったような気がする。


 ふらふらと、うつろな調子で身体が動いた。

 脚が立ち上がる。

 まるで引き寄せられるように進んだ。

 《女》のほうへ。


 どうしようもなく震える手が鍵を取り出す。

 一見して鍵とはわからない、何か得体の知れない仕組みで作られたそれを摘み上げる。

 忌まわしくもいとおしいその鍵を。


 そうして端を、ガラス箱の表にそっと当てがった。


 《女》が、彼が知る限りはじめてその身を動かした。

 振り向きながら首をかしげる。

 睫毛のない、透きとおった青さが彼を見る。

 《女》の四肢がゆらめきながら拡がる。

 大きく寛容に伸ばされる両腕。

 唇に似た器官が微笑む、いずれ錯覚に過ぎずとも。


 彼は《女》の手をとる。

 ほとんど同時に、皮膚のはがれるような感覚があった。

 《女》の手を痛みとともに撫でながら引き寄せ、自分の胸にそっと当てた――恋人のように。

 その、やわらかく冷たい白い手のひら。

 彼の心はひどく穏やかだった。

 この上もなく安堵しながら、彼は《女》を見つめて少年のように笑った。

 酸に濡れたような痛みが走り、ひときわ強い目眩が襲った。

 すべてがただゆがんでいく。


 最後の息を吸う胸には、ただひとつ豊かな歓喜があった。

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鍵と鈍色 十戸 @dixporte

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