プリンの味とティラミスの味
***
「しおちゃん、通すよ」
今日はお風呂に入らない日。そのため、温かいタオルで全身を拭われた後、新しい下着を広げられる。
母は裸で座る俺の足首に下着を通して、手慣れた動作で履き替えを終わらせた。
「うん。ブラもばっちり」
女性になっても着替えに特段問題はなかった。今日は水色の下着。
とっくの前に捨て去った恥じらいは、既に忘却の彼方だ。
被っていたモコモコの上着から、生地を引っ張って顔を出すとあっと言う間に着替えは終わった。
そして車椅子に乗せられた後は、そのまま洗面所まで運ばれる。
手に受け取った小さなコップと歯ブラシを持って、次は歯磨きの時間だった。
「しおちゃん。ママがゴシゴシしてあげよっか?」
「え?」
「そ、そんな嫌そうな顔しないで……」
「はぁ……」
母の言葉を聞き流し、チューブ状の歯磨き粉を取り出し、シャカシャカと上下に磨いていく。
重くなった瞼に抵抗をしながら、擦るようにブラシを滑らせる。じっくりと磨き終えた後は、水を含んで口をゆすいだ。
「んあ~」
開いた口を鏡に映し、磨いた歯をしっかり確認したら、最後にもう一度口をゆすいで終了。
同年代の他の人からしたら、随分と早い就寝。それは母の起床時間に合わせて、早起きをするためだった。
そういえば、今日は薬を飲まないといけない。処方されている薬は、不安障害による抗不安薬と睡眠薬。
錠剤をプラスチックの容器から取り出し、水で流し込んだ。
*
「じゃあ、ママはもう行くからね」
母の声に布団の中から顔だけを外に突き出す。
朝になって調子の悪い俺の体は、今日は酷い倦怠感で体を動かすことすら億劫だった。
「うん……」
俺の頭を何度も撫でて、部屋を出て行った母の姿を見送る。
ドアが完全に閉まった後にもう一度寝た俺は、スマホのアラームが鳴って、ようやく目を覚ました。
激しい頭痛に苛み辺りを見回すと、ベッド脇にはご飯が用意されていた。今日は特に食欲が無いため、冷めてしまったスープだけを啜る。
そうして遅い朝食を摂り終えると、食器をテーブルに置き、特に何かするわけでもなく時間が過ぎていく。形容しがたい焦燥感と恐れ──。
突如として襲ってきた感情に、胸に手を置くとドクドクと心臓が鳴って、相当に脈が速くなっている。
そしてふと──ポロポロと溢れ出る涙が頬を伝って枕を濡らした。
制御なんて毛先も出来ないほど、打ち寄せる感情の波にギュッと瞼を閉じて必死に咎める。
それでも抗えない判然としない奔流は、哀切極まる刃となって何度も身に突き刺さる。
嫌だ、怖い……。
「……っう、っ、うぅ……ひっ……」
そうして堪え切れずに滲む嗚咽が、孤独な部屋でずっと流れていた。
*
「たっだいま~。しおちゃん大丈夫?」
「うん」
母の帰宅はいつもより早かった。
手近な椅子を動かした母は、ベッド脇にすぐさま陣取る。
「今日はしおちゃんの好きなプリン買ってきたよ。見て」
カサっと掲げたコンビニの袋。杏仁プリンのおでましだった。
「ちなみにママは……ティラミス~いいでしょ?」
「ちょっとだけ、欲しい」
「え~」
「じゃあ……いいよ」
不満げに口を尖らせる母に、屈折した俺は平坦な起伏で、いらないと割り切った。
「あっ、待って。あげる! あげるってば!」
急に慌てふためく様子に、壮快さを幾らか取り戻した俺は。
澱んだ汚れが薄れる気配を感じていた。
「あ~んするね。あ~ん」
そんなことするなら、本当にいらない。
「プリンちょうだい」
「はいはい。今、出ちまちゅからね~……って冗談です。ごめんなさい」
布団に潜り込んだ体を母が必死に揺さぶる。つい、反射的に稚拙な行動に出てしまった。未熟な心に未発達な体。
ある意味、年齢には沿っている……。急に恥ずかしくなってきた行為に、無理やり理由付けをした俺は至極のデザートにスプーンをそっと突き入れた。
「あむっ……何?」
「見てるだけ」
「そっちも食べればいいのに」
「しおちゃんが一番かわいいとこだから……無理……だね」
変に悲壮感を纏った母を無視して、掬ったプリンを口へと運ぶ。
はぁ……おいしい。
「もっとあるけど、食べる?」
「今日はいい。ティラミスもあるし」
「ふふっ」
頬の涙の跡にそっと触れた母の手は、上へと動いて何度も頭を撫でられる。
そうして散々勿体ぶった挙句、ようやく出されたティラミスを『あーん』はせずに、親子で一緒に食べた。
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