お風呂とお散歩
「それじゃあ、レッツゴー」
今朝から気分を持ち直した母の気分は軽快だった。
食後にお風呂へと誘導される俺は、弾む声を頭上から浴びて憂鬱さが増してくる。
お風呂は苦手だ。いくらなんでも母親に介助されるのは、裸ともあって恥ずかしい。
早速、脱衣所に着いた途端。身に着けてある衣服は手慣れた動作で脱がされ、両手で母の肩を掴んだ俺は、お尻に手を添えられたまま抱っこをされる。
「今のしおちゃんなら余裕かも……は~い。よしよ~し」
ふざけてあやす母に呪詛をぶつけたくなる気持ちを抑え、浴槽と同じ高さに設置されてある椅子へそっと体を置かれた。体はほとんど自分で洗える。
洗えないのは、足やお尻の部位だけ。そして、体を洗った後は足を持ち上げてそっと浴槽に入れてくれる。
少し前まで、車椅子のまま入れる浴槽も検討していたが、どうやらコスト面で断念したらしい。
「はぁ~」
湯船に浸かると疲れがとれる。効能以外にもそういう心理が働いているのか。
色々と煩雑な部分を抜きにしたら、お風呂は極めて優秀な存在だった。
ただ、それにしても……。チラリと下げた視線に映るまっ平らな股間部。
トイレ時も視認は出来ていたが、真っ裸だと様相が違う。
僅かに火照る頬を自覚して横を向いた俺は、なんだか妙に心疾しいものがあった。
「どう?」
「どうって……別に」
お風呂上りの俺の前に掲げられた下着は、青のリボンに白のパンツとブラだった。
ブラの着け方は知らないから、軽い指導を受けて着用した。
そして、部屋着も女子仕様の可愛らしい白のモコモコに変わっていた。
どうやら母親の趣味らしい。別に拒絶する理由もないし、容姿に頓着ない自分からしたら、着れればそれで何でもいい。別に誰に見せるわけでもないし。
そして、ドライヤーで髪を乾かした俺は、車椅子を押されて部屋へと戻っていった。
「よいっしょ」
部屋に戻る前におしっこを済ませた俺は、母親の介助でベッドへと横になった。
空虚な一日。何をするわけでもなく、ただ受け取るだけの毎日。
スマートリモコンで室内の明かりを消した俺は、『おやすみ』という母の言葉に声を返して、枕へと顔を沈める。早くやりたい……。
薄暗闇の中でタブレットを開き、Vtuverの配信を見るとその気持ちが段々強くなってくる。こんなに能動的になるのはいつぶりだろうか。
期待して、羨望して、失望して、諦めて。
変転する体に追いついた初めての気持ちに、俺は気づかぬ内に幾分か縋っていた。
*
「──ねぇ、しおちゃん。今朝はお散歩行こっか」
「ふわぁ~……ぇ?」
ふと気が付けば、窓の外は少し明るくなっていた。それでも、時刻は朝というにはまだ早すぎる時間帯。
突然の提案に脳の理解が追い付かず、数秒経ってから小さく頷いた。
「さぁ、出発~」
そう言って母が押した車椅子は、ゆっくりとした速度で進みだした。
久しぶりの外出に若干の緊張を感じたが、閑散とした道を見るにどうやらそれは杞憂らしい。
「寒くない?」
「平気」
僅かに吹いた風に撫でられた髪。肩まで伸びた髪の煩わしさに気取られながら、その感触に妙な擽ったさを抱いた。
「たまには日光も浴びないと鬱々としちゃうからね」
散歩コースは、母のお任せだった。途中から見たことのない景色へと変わり、滅多に来ない場所の空気感に新鮮味を覚える。
「しおちゃん。着いたよ」
少しの坂道を上がった先。辿りついたのは、小さな公園だった。
見晴らしの良い場所に設置されたベンチへと母の抱っこで座らせられる。
「今日は空気が澄んでて気持ちいいね」
隣に座った母がそう言うので、俺は小さく頷いた。微かに聞こえる風の音を聞きながら、透き通った空を眺める。
「……ほぅ」
雲一つない澄み切った空に自然と息が漏れた。
*
「しおちゃんお疲れ様」
散歩は想定よりも短時間だった。恐らく俺の状態を考慮してだろう。
それでも最近は滅多になかった散歩に、妙な達成感を覚えた俺はグッと背伸びをした。
「どう? 楽しかった?」
「うーん……普通」
「そっか」
母のその問いに、俺は素直に答えていた。
「ねぇ……しおちゃん。これからもさ、たまに一緒に散歩してくれる?」
どうやら、いつの間にか中断していた散歩も、今日で復活かもしれない。
たった一個の我慢で、穏やかな顔をした親を見るのは、やっぱり悪くなかった。
「……考えとく」
「そっか」
母は嬉しそうな声でそう言って、車椅子を押した。家に戻って朝食を取った後、俺はいつものようにタブレットを開いた。
今日は仕事が休みらしく、朝に散歩してからは、ずっと隣に座っている母。
「この子前に見せてくれた子?」
「うん」
そんな短い会話を交わしながら、俺はVTuverの動画を垂れ流していた。
いつも通りの単調な生活。それでも、今日はひと味違う一日。
──そして昼が過ぎて暫く経った頃、一度部屋を出た母に連れられ、訪れたリビングには大きな箱が置かれていた。
「これ、しおちゃんが頼んでたやつじゃない?」
「あっ」
それは俺が注文していた配信機材だった。
顔を上げると、母は優しく微笑んだ。
「ママも楽しみにしてるね」
「……うん」
それだけで伝わる表情の明瞭さに、俺はひとしきり集めた感情の欠片を乗っけて、小さな声と共に、僅かに口角を上げた。
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