自己紹介の練習

「それじゃあ、いってくるね」



 車椅子を動かし俺を自室まで戻した母は、仕事へと向かう。帰りに女性用の服や下着を買ってくると言っていった。

 性別が変わると入り用のものも大分違うらしく、帰りは遅くなるらしい。

 静寂になった自宅でやることといえば、昨日の続きであるVtuberに関する知識の補充だった。

 背中を丸めて手元のタブレットに視線を落とし、Vtuberの概要と配信の仕方、収益化の条件や準備。必要なことを、タブレットに書き込んでいく。

 そして、ある程度の知識や動画投稿サイトの使い方を履修したところで、ここからは、喋る練習の時間だった。今となっては、会話の相手は母しかいない。

 そんな俺にとって、見えない相手だとしてもコミュニケーションの術はある程度身につけておきたかった。



「んっ」



 試しに出した一音の女性らしさに忸怩たる思いが胸を掠めた。今までとはまるで違う音色。

 当然だが、納得は出来ない事象に反感めいた気持ちを抱きつつも、発音の練習を続けていく。



「は、初めまして立花……栞です」



 情けないほどの消え入る声。誰がこんなやつを応援するんだろう。

 車椅子で前に進んだり、後ろに戻ったりを無意味に繰り返し、憤りを無理矢理に抑えつける。

 たった一言ですら、バクバクする心臓が耳に響いてうるさい。

 だが……俺は一歩進む決心をしたのだ。そうやって、なけなしの反骨心に火をつけて、練習に向かっていく。



「趣味は読書とゲーム。アニメも好きです」



 今回は幾分滑らかに言えた。それでも憫然たる己の声量に自分で引いてしまう。こんなに弱々しかったのか。

 まるで初めて知ったかのように自覚する貧弱さに情けなさを通り超して笑えてくる。次は、趣向を変えて物真似をしてみた。

 Vtuberの動画を流し、同様なトーンで言葉を繰り返す。



「天界に住む天使。七色七瀬……」



 この声じゃ、天使じゃなくて悪魔だろとセルフツッコミを禁じ得ない。

 ちなみに物真似の出来は優しく見積もっても及第点に程遠く、最早開示することすら罪と言える凄惨な出来だった。

 ああ、どこまでいっても違和感が身に宿る。お前は男だろという心の声が身を摘んで、声量にも影響していた。

 まあ、どう見繕っても可愛い路線は不可能だし、面白路線も難しい。そうなると自分の強みをどこに置くのかが重要である。

 そう考えを切り替えて声を出すことは止めた俺は、自身の配信の強みを分析していた。例えば、パーソナル情報を幾分か提供するというのはどうだろうか。

 ただ、ここら辺の判断を下すのは非常に難しい。正解がない答えなのは間違いなく、下手をすると同情や憐憫が生まれるかもしれない。

 調べた限り、オフコラボというものも存在するらしい。実際に会うという超えられそうにないハードル。

 今、妄想しても仕方ないのはわかっているが、もし起きたら俺は対応できるのだろうか。キコキコと車椅子で室内をわずかに移動する。

 窓から外を見ると、制服姿の男子が数人歩いていた。



「友達……か」



 事故に遭ってから、関係を断った友人関係。そして、既にその状態から数年が経過している。友達なんて今までいなくても何とも思わなかった。

 必ず自身が主体となる遊びの提案に嫌気が差して。何より対等ではない関係に配慮し、申し訳がなくて。それもネットでだったら、困らない。

 小さくなった手のひらを顔の前に翳した。唐突になった女の子の体。膨らんだ胸の膨らみ……。『歪』

 そんな一つの単語が胸を掠めた。パジャマのボタンを外して、姿見の鏡に上半身を晒す。検査なんて必要がないほど、どうしようもないほどに証明される性別の変化。

 まあ、いつだってこんなもんか。恵まれない運に悩まされることなんて、今に始まったことではない。

 暗鬱な表情を見せた目の前の少女を無表情へと変化させ、SNSを起動した俺は、今度はアバターの作成者をネット上から探し出す。機材は既に見繕った。

 だから、最後のピースは仮想の自身の姿のみだった。



 *



「ただいま~」



 帰宅を知らせる母の大きな声が、部屋にも届いた。ガサガサと音がしている。たぶん、買い物の袋だろう。バタバタと駆けてくる母は、仕事終わりなのに随分と元気だ。



「買ってきたよ」



 ほくそ笑む母の手には、衣類が入っているだろう袋。

 服と下着も買うと言ってたし、おそらくそれらが入っているのだろう。



「今日はお風呂入るから」


「そっ。それじゃあ、その時に! トイレは大丈夫?」


「うん」



 約束を交わした母は慌ただしく、荷物を整理して料理に取り掛かる。

 たまには出来物でいいのに。それを良しとしない性格なのはわかっているが、いつか倒れそうで本当に怖い。



「連れてってくれる?」


「ん? リビング?」


「そう」



 優しさを享受し、寄りかかる自身の変容を切望する。

 俺はリビングへと運ばれて、エプロンを着用した母の料理姿をじっと見つめていた。

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