九、神恵内

 青山は駐車場からアクセルを踏む。漁港から離れるように坂を上がって、国道へと戻った。岩と海の間に袋澗らしき名残が点在している。海水は打ち寄せるたびに白く波立ち、果ての水平線がはっきりと濃い海を際立たせていた。トンネルを潜るたびに海の色は濃くなり、車道脇の残雪の量が明らかに減っていった。真南に昇っていた太陽は既に落ち始めている。昼はとうに過ぎていた。空腹感を覚えていたが、飲食店は見当たらない。点々と続く泊村の漁村を過ぎても、先にあるのは岩壁とその壁を抜けるためのトンネルばかりだ。暗いトンネルを抜けた途端、龍が赤い玉に巻きつくイラストが描かれた、神恵内村のカントリーサインが出迎えた。長く蛇行した橋を越えて、神恵内の漁村の中を進んでいく。久々に出会った信号を左折して、村役場を抜けた。

 すると突然、岩礁近くに大岩が出現した。波は大岩に当たって高い飛沫を生み出し、ぼとぼとと車道へ落ちていく。沿岸に並ぶテトラポッドの向こう側、たびたび現れる袋澗らしき浅い岩礁の中で、荒波が閉じ込められては揺れている。進めば進むほど時化が起こって、辺りの積雪は少なくなっていく。まるで雪が白波に置き換わっているようだった。

 頭上の看板に、道の駅「オスコイ! かもえない」の表記を見つける。この先すぐのところにあるらしい。道の駅なら、何かしら食べ物があるかもしれない。

「腹減りました。寄っていいですか」

「……私はあまり空いてないから、好きに食ってくれ」

 桜井は海に目を向けたまま答えた。寄り道を許されるたびに、微かな甘えを覚えてしまう。トンネルの手前、海と堤防を横目に右折して、駐車場へ車をつけた。小さな横長の道の駅は、山のすぐ前に建っていた。山にも道にも雪が無かったから驚く。青山は車から降りて、反対車線の先の海を見つめた。左に岩内、右に積丹と書かれた赤矢印の看板があった。分岐点だ。これが本当に最後の寄り道となるだろう。

 道の駅の入口前、鰊御殿とまりでも見たにしん街道の標柱があった。説明文は先程とは違って、袋澗について書かれていた。神恵内村には五十三ヶ所にものぼる袋澗があることを知る。ここに来るまでに見た袋澗らしきものは、やはり見間違いではなかったと確証を得る。

 道の駅の入口には、流木を組み合わせて造られた鹿や熊などのモニュメントが置かれていた。自動販売機とトイレを横目に自動ドアを潜る。内部は狭いワンフロアで、客は疎らだ。正面には軽食やソフトクリームのある売店があり、中央には帆立売りの生簀が鎮座している。生簀を囲むように置かれた棚には、道の駅の限定グッズやハンドメイドのアクセサリーなどが置かれている。ふいに桜井が小物の一つを手に取った。角の取れた群青のシーグラスの先に、白いドライフラワーがついている小さなピアスだ。桜井の左耳、蝶のピアスが呼応するように揺れる。瞬間、桜井は我に返ったように、ピアスを棚へと戻した。

「買わないんですか」

「……ああ。見ていただけだ」

 確かに、桜井が手に取ったそのピアスは、どちらかといえば女性が好みそうなデザインだ。だが、桜井が今付けている蝶のピアスも、男物とは言い切れない美麗さがある。そういうものが好みなのかと勝手に思っていた。

「その蝶のピアス、綺麗ですよね。揺れるたびに、ひらひら飛んでいるみたいで」

「……胡蝶の夢」

「夢?」

「ああ。蝶になって飛ぶ夢を見た。その夢から目覚めた時に私は思うのだ。果たして蝶になったのは、ただの夢だったのか。それとも夢で見た蝶が本来の私で、今の私は蝶が見ている夢なのか——。そういう説話がある」

 桜井は何かに取り憑かれたように笑った。

「これは、歩香の形見だ」

 蝶が揺れて、じわりと自罰が滲む。これはきっと、甘えだ。青山は、桜井の腕を掴んで引いた。

「なんか食いましょう」

「でも、腹減ってないんだよ」

「それでも食べるんです。エネルギーが切れたら、積丹まで辿り着けないですよ」

 青山は桜井を売店へと引っ張っていき、棚にあったパック入りの帆立ご飯と、帆立のチーズトーストをレジに置く。勢いのまま買ってやろうとポケットに手を突っ込んだところで、ついさっき、桜井に金を突っ返したことを思い出した。

 おそるおそる桜井を見上げると、ふっと微笑みが返る。桜井はアップル味のソフトクリームを追加し、全ての代金を支払った。

「なんか、締まらなくてすみません」

「いや、いいよ。優しさは十分に伝わった」

 青山が二つのパックを持ち、桜井はカップに乗った薄黄色のソフトクリームを運ぶ。せっかくだからと、外に出た。道の駅の入口前に置かれたベンチには、先程の動物たちと同じ、流木を組み合わせてできた人のような彫刻が腰掛けていた。その隣に並んで座る。

 青山が割り箸を割って、帆立ご飯を食べようとしたところで、一つもらうかなと桜井は帆立トーストのパックを開けた。軽いプラスチックのパックは海風で開いたり閉じたりと忙しない。青山はトーストの入ったパックの蓋を太腿で雑に押さえながら、帆立ご飯を掻き込んだ。帆立は小振りながらも身から肝まで新鮮で、米にまで味が染みていて美味しかった。

 トーストを齧りながら、桜井はぽつりと呟く。

「林檎味、見かけるたびに買ってしまうんだ」

 桜井はトーストを食べる合間で、溶けていくソフトクリームを口へと運ぶ。そういえば、赤井川村のベーグルも林檎味を買っていた。

「林檎、好きなんですか」

「うん。好きだし、……思い出す。家族で行った旅行のことを」

 堰を切ったように桜井は語り始めた。

「余市や積丹にはよく行っていた。いつかの祝日、父親だけが仕事の時に、母親が私たち兄妹を連れて車を走らせてくれたことがあってね。まず、余市でいちごとさくらんぼ狩りをした。歩香はさくらんぼが好きだけど、俺は食べてる途中で種を吐き出すのが苦手だから、いちごの方が好きだった。三人であんなにお腹一杯果物を食べたのに、さらに積丹まで足を延ばしてうに丼も食べに行ったんだ。二人で一杯を分けるんじゃ少ないよと、歩香と一緒に母さんに駄々を捏ねて一人一杯頼んだくせに、結局残してしまった。やっぱり勿体無かったと、母さんにがみがみ怒られたのを覚えてる」

 語る桜井の口調はどことなく幼い。そうだ。桜井の妹は十二歳で亡くなった。兄妹の思い出は、小学生の妹のままで止まっている。

「来られなかった父さんのお土産を買いたいと、歩香が言い出したから、余市でアップルパイを買ったんだ。四つ、しっかり鞄に入れてファスナーを閉めて持ってった。せっかく積丹まで来たんだから、島武意海岸の崖を降りて、海の側まで行ったんだよ。波に触って散々はしゃいで、岩に座ってアップルパイを食べたんだ。あれは本当に美味しかったな。でも、食べ終わった後、ちょっと鞄から目を離して遊んでいたら、飛んできたカラスに父さんのアップルパイを掻っ攫われたんだ」

 途端、桜井の笑みに深い慈しみが混じる。その口元に林檎味のソフトクリームが運ばれては、じわりと溶けていく。

「ファスナーを開けてまで捕っていったカラスに、俺も母さんも唖然としていたけど、歩香だけは凄く怒ってね。そこから帰りの車でずっとぐずってた。帰り、温泉であったまってもずっと半泣きで……。そういうところ本当に強情なんだよ。もう一度買いたくても果樹園は閉まってて、結局家に帰った時、仕事帰りでへとへとだった父さんの方に気を使わせた」

 青山は、帆立ご飯を飲み下す。桜井もトーストを食べ終わり、カップに残ったソフトクリームの最後の一口を掬っていた。

「あのアップルパイの味を思い出したくて、俺はいつも林檎を選んでしまうんだ」

「……死んだのに」

「ん?」

「みんな死んでしまったのに、思い出すのは辛くないんですか」

 桜井の目が見開かれる。その左耳で蝶が煌めき、潮風に流されるように揺れた。桜井は耳元に手を伸ばし、蝶に優しく触れながら言う。

「辛いよ。だから、そんな時は戒めのように胡蝶の夢のことを考えている。現実と夢に差異を無くしたのは俺だ。書いた瞬間は、こんな文字如き、現実に及ぶわけがないと思っていた。だが、俺は小説という夢に没頭したし、人は現実を忘れる残酷な生き物だった。今、俺が君に語った思い出も、昔、俺が書いたから残っているだけだ。何が本当かなんて、もう覚えていない。この記憶は、俺の書いた文章によって歪曲されているだろう」

 青山は思い出す。『終末に向かうあなたと』に、カラスとアップルパイについての似たようなエピソードがあったことを。現実から小説を生み出したくせに、その小説を読むたび本当の現実がわからなくなっていくのか。

「もう、薄れた記憶の中では、それが真実と縋って生きていくしかない。だって、歩香はいないのだから」

 辛くても忘れるよりはましだと、桜井は言いたいのかもしれない。それは途方も無く寂しいことだと、青山は思った。

「あのアップルパイのこと覚えてる? と、そんな話をすることすら叶わない。みんな死んでしまったから尚更だ。家族の思い出は、もう俺の記憶の中にしか存在していない」

「でも、その記憶も嘘かもしれないんですよね」

「ああ。そんなものに縋るなんて、気が狂ってると思うだろう」

「思いません」

 吹きつける海風に逆らうように、青山は声を荒らげた。

「だって桜井先生は、そんな小説家の嘘に救われたから書き始めたんじゃないんですか。有島が『生れ出づる悩み』という嘘を書いて、それを読んだから書くことを選んだんでしょう? 小説は嘘だけど真実だって、あんたは言ってた。有島の小説に出会わないまま、普通に教師でもして、生きて。それで本当に、あんたは救われてたんですか」

「それは……」

「書かないまま、おれや『君』みたいに、崖の上から自殺を企まず、有島みたいに自裁しなかったと、本当に言い切れるんですか」

 小説の中、有島の書く「君」は願っていた。

『画が描きたい』

 「君」は寝ても起きても、祈りのようにこの一つの望みを胸の中に大事にかき抱いているのだ。その望みをふり捨ててしまう事ができないのだ——。

「あんたにとって、書くことは生きることと同義じゃないのか」

 書いているから生きている。生きているから書いている。自罰から逃れられないでいるのは、死んでいった家族への懺悔か、書くために捨てた恋人への後悔か。それはきっと、桜井にしかわからないし、桜井が決めている罪だろう。それでも、青山は書くことを素直に肯定したかった。

 何がなんでも生きてほしいから。

「君は、本当に真っ直ぐ向き合える人だな」

 強い海風が目の前の海原へ抜けていく。銀の蝶が大きく揺れる。空へ海へと、遠く羽ばたいていきたいと、必死に足掻いている。

「俺も向き合ってみたい。だからあと少しだけ、俺の懺悔に付き合ってくれ」

 終わりが香る。まだその先もありますよ、と青山が口にするよりも先に、桜井が言った。

「……ずっと、一人でいいと思っていた。でも、今なら向き合える気がする」

 真っ直ぐな桜井の瞳は、海と同じ青色を映していた。その瞳が静かに瞬く。

「君がいるから」

 瞬間、その先の未来を望んだ自分を恥じた。不確定な未来なんて望むべきじゃない。今に向き合おうとしている桜井の隣に、最後までいたい。やっぱり、ただそれだけだった。

 パックのゴミを片付けて、車に乗り込む。運転席、キーを差し込んで回した。エンジンが掛かり、ギアを引いてアクセルを踏む。正面、テトラポッドの先に、青く輝く海があった。

 左が岩内、右が積丹。青山は迷いなく、積丹の方向にハンドルを切った。


 車は進む。青い海の狭間に聳え立つ岸壁を越えるために、掘られたトンネルを抜けていく。入口が固く埋め立てられたトンネルを横目に、いくつかの漁村と袋澗を新しい道に潜って進む。特段大きな岩に飲まれるように、暗いトンネルへと突入する。前後に車は無い。青山は早く抜け出すために、アクセルを深く踏み込んだ。出口が迫り、視界が開ける。海と崖とオレンジの花が描かれた積丹町のカントリーサインの向こう、青く透き通った海が一面に満ちて広がった。先程とは青色の深さがまるで違う。真っ青な水平線の果てには断崖が聳え立ち、尖ったローソク岩がぽつんと浮かんでいるのが見えた。

「神威岬だ」

 桜井は呟く。今向かっている積丹岬より、きっとこちらの方が有名だ。先の坂道を上り、再度トンネルに潜る。

「神威岬もありますけど、目的地は積丹岬でいいんですか」

「ああ。神威岬は断崖の上までしか行けないから、海にはどうやったって触れられない。そもそも神威岬までの道は冬季閉鎖していたはずだ」

 神威岬は、駐車場からしばらく歩かなければ海を見ることはできない。対して積丹岬は、駐車場から島武意海岸へ降りていくことができる。桜井が妹と母とアップルパイを食べたのも、きっと積丹岬、島武意海岸の方だろう。海に触るなら急な階段を下りなければならないが、海を見るだけなら少し歩くだけでいい。

 トンネルを越えた先、先程よりも神威岬の断崖が間近に迫っていた。神威岬の先、白と黒の灯台が建っているのがはっきりと見える。岬からの小道を歩くと、確か灯台の隣まで行けたはずだ。あの崖の上からローソク岩と積丹ブルーを見下ろせる。

 青山は神威岬から視線を外す。また一つトンネルを抜けると、ちょうど神威岬の付け根に躍り出たのがわかった。桜井の言う通り、神威岬へと向かう左折路に遮断機が下りており、冬季通行止めとなっている。

 青山は正面を見据える。丘の下、一筋の水平線が横切っていた。そこに向かうように進んでいく。道は緩やかに右へと曲がりながら下っていく。丘を下りた水平線の果て、地続きの先に真っ青に染まった海に浮かぶ、雪の被った断崖絶壁があった。

「積丹岬……」

 今度は青山が岬の名を呟く。まぎれもなく、あそこが目指すべき目的地だった。本当に、小樽からぐるりと積丹半島を回ってきたのだ。埋められたトンネルを横目に、暗闇に潜る。その暗い闇に、紫煙が舞った。

「いつも始点は、手稲だった。こっちから回ることは殆どなかったな」

 桜井は白煙を吐き出す。漂う煙草の香りが死を連れてくる。もしかしたら喫煙は、桜井なりの弔いなのかもしれなかった。父が遺した吸殻に、桜井はそっと灰を落とす。

「おれも、回るなら余市からですね。島武意海岸も神威岬も、父に乗せられて行ったことがあります。こんな冬に行くのは初めてですが」

「泊村といい、青山君が父親と行ったのは日本海ばかりなんだな」

「ええ。函館とか稚内とかも行ったらしいんですけど、あんまり覚えてないです。ずっと仕事が忙しかったし、行ったとしても海からは離れられなかった。ただ遊びに連れてかれていたのか、本当は何か思っていたのか……。海にいる以外、家で酒ばっか飲んでたからよくわかんないですけど」

「聞いてみたらいい。まだ話せるのだから」

 煙草が灰皿に押しつけられる。立ち昇る煙は、線香の細い煙によく似ている。

「……はい」

 桜井の後悔が、吐き出されては消えていく。

「函館も稚内もいいところだよ。津軽海峡と函館山、日本海と利尻富士、どちらも海と山が近くにあって綺麗だ」

 煙草の火が消えたところで、トンネルが開ける。海の青はまた深くなる。短いトンネルに潜っては漁村を越えて、海岸線を緩やかに辿っていく。桜井はぼんやりと呟いた。

「他にもいろんなところに行ったな……」

「例えば、どこですか」

「小樽や余市、積丹は勿論だけど、野付半島のトドワラや羅臼のヒカリゴケ、北竜町のひまわり畑とかは凄くよく覚えてる。どれも本当に美しかった。家族四人、両親が交代で運転して、俺が右で歩香が左の後部座席。そうやって何千キロ——いや、何万キロも旅をした」

「すごいですね」

 決して、誇張ではないだろう。北海道中を駆け巡ればそのくらいの距離になる。青山が見たことない世界を桜井はたくさん見ているのだ。青山はアクセルを踏み続ける。

「でも、歩香が死んでからは行かなくなった。俺が隣の空席に耐えられなかったんだ」

 後部座席、兄の隣に座る人はもういない。喪失に殴られるというのは、きっと、そういう一つ一つの欠けた日常が積み重なっていった結果だ。

「三人では数回程しか行っていない。俺も十八で家を出たし。両親は、元々旅行好きだから、俺がいなくなってまた二人の旅行に戻っただけだろう。俺も大学から一人旅を始めたから、結局、家族はばらばらのまま互いに放浪ばかりしていた」

 桜井の声が僅かに低くなり、震えを帯びた。

「……両親が軽井沢で死ぬ前日、実は東京で道中の二人に会っていたんだ。私もちょうど二作目を書き終わって、最近仕事を辞めたところだったからね。一度顔を合わせておこうという話になって。大学入学からもう九年は経ってるし、俺が法事嫌いで実家になんて全く顔を出さないから、碌に話したのは本当に久々だった」

「何を話したんですか」

「一応、仕事辞めたことに言い訳が必要だろう。でも俺、小説書いてるって、両親にちゃんとは言えてなくて。まあ、本名で書いてるから、知らないわけはないんだよな。それでもどうしても言えなくて。あの時も当たり障りのない、適当なことを言ってたら——」

 桜井は一度、言葉を切る。そして続けた。

「もう背負わなくていい、と言われたんだ」

 見透かされたのだ。桜井の両親はちゃんと小説を読んでいた。妹の後を追って二十七で死ぬと決めていた一作目の小説を。そして恋人を捨ててまでも書くことを選んだ二作目の小説も。

「そう言われて俺は、何も言えなかった。この十二年間、俺は勝手に背負っていたのかもしれないが、向き合ってもいないと思ったんだ。仏壇をひっくり返して暴れたし、法事からは逃げ続け、両親との対話も避けていた。後ろめたかった。死者を偲んで小説を書くことが、実の両親にすら何も言えないくらいには、ずっと」

 緩やかな道は、断崖に沿って海を辿る。潜るトンネルはもう無かった。積丹岬までの距離がみるみると縮まっていく。

「だから、ちゃんと北海道に帰ろうって思った。ちゃんと今度の歩香の十三回忌には出て、手を合わせよう。ちゃんと両親とも話をしようと思った矢先にあの事故だ。よりによって軽井沢って有島武郎と同じとこで死んでんじゃねえ。また山かよ。みんな、いつも俺のいないとこで死ぬ」

 道路の凹凸で車体が揺れる。バックミラー越し、毛布が落ちて、後部座席の遺骨が露わになった。それでも死者は喋らない。桜井は妹の死を正しく弔えなかったから小説を書き、ようやく向き合おうとした途端に両親を亡くし、和解の機会を永遠に失ったのだ。喋らない三つの骨を抱え、途方に暮れた果てが、あの祝津の崖の上だったのかもしれない。

「結局、俺は逃げたんだ。みんなが死んで、今更骨を抱えてここに帰ってきたところで、また小説に逃げている。謝ればよかった。ちゃんと思いを伝えられればよかった。本当にたくさんの人を傷つけたし、今も君を傷つけ続けている。そんな一つ一つの後悔が降り積もっていくのに俺はまだ、小説を書き続けている」

 積丹の町、坂を右手に信号を越える。岬の岸壁の付け根、通行規制地区を過ぎる。近づきすぎたから岬の先端は見えなくなった。青い海の上、巨大な岩に白波がぶつかっては弾ける。

「でも、あんたはここに戻ってきた。骨に触れて、海に還すことがこれから向き合うことになるんじゃないですか」

 青山は漁師だから当たり前に知っている。浅い海岸に何かを捨てても、波が打ち寄せるから簡単に戻ってきてしまうのだ。ちゃんと海底まで放らなければならない。だから、桜井が望むなら、祝津に戻って船を出してもいいと思っていた。

「……なるだろうか」

 だが、それを今、桜井は望んでいないのだろう。きっと撒くことはただの口実で、ここまで来る理由を作りたかっただけなのだ。懺悔と後悔が打ち寄せる、思い出の海岸まで。三人が山の麓で死んだから、逃げて思い出の海に縋りたかった。あわよくば、死んでもいいすらと思っていたのかもしれない。

 それなのに、死にたいおれに出会ったから、あんたは書きたいと願ってしまった。おれに小説家の死に様を見せて、小説家に書かれたモデルの生き様を見せ、おれを捨てると言ってまでも、書くことを切望している。

「それをあんたに勧めるのはあんた自身だ。それは痛ましい陣痛の苦しみであるから、それはあんた自身で苦しみ、あんた自身で癒さなければならない苦しみなんだ」

 有島武郎の『生れ出づる悩み』の一節。繰り返し反復したから、青山の記憶に焼きついている。隣で桜井が静かに息を呑む気配があった。その緊張が伝わってくる。あとはもう、最後まで見届けるだけだ。それしかできない。

 岸壁の付け根、短く出口の見えるトンネルを越えると、漁村の中に島武意海岸への看板が現れた。連なるトタン屋根の間を左折して、斜度の急な坂を登っていく。狭く蛇行した道だが、対向車はいない。青山はアクセルを強く、より強く踏み込んでいく。積丹岬、その果てまで。


 降り立つ駐車場は高台にあった。黒いコンクリートの上、僅かな粗目雪が残されている。ひらけた駐車場の遥か向こうに、雪を残した白黒の山々が連なっていた。近くに建つ、青い三角屋根の飲食店らしき建物や灰色の公衆トイレは当然のように閉まっている。他に車も無く、人もいない。緩やかな坂の先にあるのは、背丈程の小さな隧道だけだ。上には、島武意海岸トンネル入口と書かれている。ぽっかりと空いたその先、出口は見えない。

 桜井は後部座席のドアを開け放ち、顔を突っ込んでいた。青山も反対側から戸を開けて中を見る。毛布を避けた桜井の手は、迷いなく骨箱に掛かったオレンジ色の鮮やかなカバーを引き抜き、純白の風呂敷の結び目を緩めていた。途端、風呂敷は解かれて、桐箱が露わになる。そこに記された文字に青山は目を見開く。

 三月十八日没 行年 十四歳

 納骨 雪華志香童女 俗名 桜井歩香

 骨箱に刻まれた命日は、ちょうど十二年前の今日だった。

「今日だったんですか、命日」

「……今日だからこそ、相応しいんだろう」

 岩内の旅館の宿泊日からきっと合わせていた。全部、初めから定めていたのだろう。

「この、せっ……か? って何ですか。名前ですか」

「戒名だ。成仏と安寧を祈り、死後に名前が付けられるんだと」

「そう、なんですか」

 青山はまじまじと戒名を見つめて、その意味を考える。桜井が苦笑いを浮かべた。

「ああ、そうだ。志春の志。死んで付けられた歩香の名前に、俺の名前が入ってる。冬に死んだから、雪の華までは理解できるんだ。でも、その先はどうにも。坊さんが付けた、気まぐれと偶然のはずなのにな」

 もう俺も死んでいるのかもしれないと、木に記された戒名を緩く親指でなぞりながら桜井は呟く。風呂敷と桐箱の隙間から、薄い封筒が滑り落ちた。封筒には埋葬許可証と書かれており、札幌市の火葬証明が刻まれていた。事務的な書類が死の現実を突きつけてくる。本来ならば、墓に納まるべき骨だった。桜井は丁寧に書類をシートへと退かし、骨箱の蓋に手を掛けた。

 桐箱の蓋が開く。中から、白地の空に満開の桜が鏤められた一つの骨壷が現れた。この小さな壺の中に、人の骨が眠っている。桜井は躊躇なく桐箱から骨壷を持ち上げる。ついに開けるのか。そう青山が身構えたところで、桜井は先程まで桐箱を包んでいた風呂敷を広げて、骨壷を丁重に包み始めた。

「開けないんですか」

「崖の下まで持っていかなければならないから」

 青山は思い出す。島武意海岸までの道は、夏場ですらかなり険しい。溶け始めているとはいえ、かなりの雪が残る冬の今、骨壷を抱えての道のりは相当厳しいものになるだろう。

 桜井はコートを脱いで、黒いハイネック姿になる。骨壷を背負って、風呂敷の端できつく体に固定した。その場で軽く体を揺すり、骨壷が落ちないことを確認したが、その眉が歪んだ。

 桜井は風呂敷を襷掛けした不恰好な姿のままで、青山の目を見つめた。

「重い。一人で三人は無理だ。頼む。一人、背負ってくれ」

 その瞳に宿る熱を見て、桜井の切実が伝わってきた。青山は、桜井と同じようにオレンジのちりめんを引き抜き、風呂敷を解く。その骨箱に刻まれていたのは男性名だった。桜井の父の名だろう。没日は三月十日だ。今からたった一週間前の日付だった。

 そっと桐箱を開けると、黒地の陶器に白い桜が咲く骨壷が現れた。勿論入れられる鞄など無い。桜井に倣って着ていたブルゾンを脱いで、風呂敷で背中へときつく固定した。骨の上から上着を羽織り、その上、さらに首からカメラを下げた。

 体を揺すると、きいきいとと小さく陶器の擦れる音が鳴る。重量は中々のものだ。陶器の重さなのか、骨の重さなのかはわからない。桜井は腹側にもう一つ骨を宿していた。母の骨だろう。上からトレンチコートを羽織ると、懐胎したかのような奇妙さがある。

 桜井は三つの桐箱にカバーを付け直し、見えないように毛布を被せた。車のドアは閉められて、鍵が掛けられる。

 桜井の顔面はすっかり色をなくしていた。罪に喘ぐくせに、また罪を重ねようとしている。気休めかになるはわからないが、青山は静かに自嘲を浮かべた。

「死にたい時って、ふと色々調べちゃうじゃないですか。『滑落 痛い 後遺症』とか。海に還るなら似たようなもんかって、散骨についても調べたことがあるんです。知ってます? 散骨って違法でも合法でもないんですよ」

「……法が無いからな」

「はい。死体の遺棄と埋葬は罰せられますが、散骨した場合の罪ってないんですよね。要は骨を埋めなければいい。だから、灰にして撒けばいいんです」

 どうせすぐに波が攫って、砂を被るのに。法が否定しない隙間を屁理屈で突く。どこにも属せない自分たちには誂え向きの末路なのかもしれない。

「……はは。君も知っていたんだな」

「ちゃんと撒きたいと言うなら、おれが船を出してもいいと思ってました」

 しっかりとした海洋葬は、船で沖まで行って海上に撒くのが主流だ。漁の帰り、そういう船とすれ違ったこともある。

「でも、祝津からしか出せません。桜井先生は、この積丹で骨を撒きたいんですよね?」

 遺骨の重みが、青山の背骨に伸し掛かる。桜井の瞳は揺れ、手は激しく震えていた。本心は骨を捨てたいのではなく、思い出の海に還りたいだけなのだ。桜井がそう望んでいるのをわかっていながら、青山は問う。

「ああ」

 目は頼りなく伏せられる。死にたい瞳だ。祝津の崖上で柵に足をかけた自分を思い出す。

 死んでもいっか。ここに来ては、いつもそんなことを考えていた。

「なら、行きましょう。志春さん」

 名前を呼ばれた桜井は、酷く間抜けな顔をしていた。青山は笑う。

「契約は既に終わっています。だからもう、教えは請わない。あんたはおれの先生じゃないよ」

 言葉にして初めて自覚する。青山はずっと、桜井と対等でありたかったのだ。

「友人として一緒に行きたい」

 叶うなら、桜井を二度と置いていきたくなかった。妹や両親は勿論、木田金次郎と有島武郎の関係すら、おれは超えてみたかった。たとえ、その孤独に価値があって、孤独によって桜井が優れた文学作品を生み出していくのだとしても、どうか、孤独の中にある希望を信じていたい。

 微笑む青山を桜井はじっと見つめ返した。心底苦しそうな表情の中に、僅かな安堵が灯っているような気がした。桜井は何も言わないまま、骨によって膨れた腹を抱え、緩やかな雪の坂を登っていく。

 その先では隧道が待つ。山を抉って造られた背丈程のアーチの前、桜井は一瞬だけ立ち止まった後、暗闇へと踏み込んでいった。青山も続いた。冷えては流れていく風の中、闇の中で桜井の姿が消えていく。外から風と共に吹き込んで積もった雪を踏んでいるのか、固い足音が反響する。少し歩くと雪を越え、踏み締める感触が固いコンクリートへ変わった。だが、出口はまだ見えない。

 青山は、昔、父に聞いた話を思い出していた。この隧道は、観光客向けに造られたものではなく、島武意海岸で取れた鰊を運ぶために掘られたものだという。かつて鰊を殺して運んだトンネルを逆走して、人の骨を撒くために向かっている。

 全部は偶然だ。だが、そこに青山は意味を見出したかった。生と死は決して切り離せない。生きるために、死の淵まで向かうのだ。

 潮の香りが強くなる。途端、辺りが明るくなり、触れた壁面にざらついた白い潮が付いているのに気が付く。蛇行する隧道の先、ぽっかりと出口が開いている。半円の下半分を覆い隠すように積もった雪の上、青い水平線が横切っている。

 海が、光っている。

 心からそう感じたのは、これが初めてだった。  

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