八、泊

 来た道を遡り、灰色に鈍る岩内の町を出発する。青山はアクセルを踏み込み、土の混じった残雪の間で、走る速度を加速させていく。助手席には赤く目を腫らした桜井が、煙草を吹かしては、烟る紫煙を口から吐き出していた。

 青看板を左折すると正面が山だった。昨日越えてきたニセコ連邦だ。橋の先で曲がると、断崖絶壁と兜が描かれた泊村のカントリーサインを通過した。助手席側の窓では、鈍色の海が口を開けて、果てなく広く続いている。この沿岸線を辿ることで積丹半島を回っていく。この海からが始まりだ。

 少し走ると、左手「とまりん館へようこそ」の看板と、ガラスのドームを有した赤茶色の建物を通り過ぎた。かつての記憶が正しければ、あそこは泊村の原子力発電所の仕組みを伝える展示施設だったはずだ。ハンドルを真っ直ぐ前へと固定したまま、青山はぼやく。

「昔、ここも父に連れられてきたことがあります。おれは実験のおもちゃとかがあって楽しかったけど、父は敵情視察だと言ってました。その意味が今更になってわかりました」

 科学のおもちゃで好きに遊べると博物館気分で来た幼い青山の横で、父親が原子力の仕組みを真剣な眼差しで見つめていたのを朧げに覚えている。長いトンネルに入り、辺りは漆黒に包まれた。桜井は白くけぶる紫煙と共に、言葉をゆっくりと吐き出す。

「ヘロカラウスというのが、この辺りの土地の名前だ」

「ヘロカラウス?」

「正しくは、ヘロㇰカルシ——アイヌ語で鰊を・捕る・いつもするところ、という意味だ。木田金次郎の絵に『ヘロカラウス残照』という作品があったろう。かつて木田金次郎が描いて愛したヘロカラウスの岩を爆破して、泊原発は建てられたんだ」

 荒井記念美術館の一号館三階、岩内岳の中腹から見下ろした町並みを思い出す。岩内港の対岸に、この泊原発を望むことができた。確かにこの辺りは、岩内に住む木田金次郎の肉眼でも捉えられる位置にあるのだろう。

「原発では多くの海水を冷却に使う。付近の漁が難しくなる代わりに、多額の補助金が下りた。だから原子力は漁の敵だと、生粋の漁師である君の父親は思ったのだろう」

 途端、トンネルが切れて、海と磯がひらけた。海の側までの道が、灰色の鉄柵で厳重に閉鎖されている。柵の先を指し示す看板には、この先泊発電所と記されていた。

「これは、敵なんですかね」

「敵だと定めるのは短絡的かもしれないが、制御できる閾値を容易く超えてしまうという意味では、人間には持て余す力なのかもしれない」

 鉄柵を過ぎた先、「原子力は厄神」「原発やめろ」という看板が乱雑に立っているのが見えた。青山はハンドルを強く握り、前を見据えた。

「泊村の繁栄の要になった鰊の群来も原子力の制御も、どっちだって人間の力を超えている気がします。一面や一個人じゃ判断できない。鰊の漁獲も放射能の利活用も、何かは正しくて何かしらは間違っているんじゃないですか……」

 乱獲と保護。発電と廃炉。賛成と反対。きっと二項対立では判断できない。結局、最後はどちらかに決めなければならないとしても、過程は混じり合って正しさと間違いの両義を持つ。 「だからおれは、できる限りを知っていたいです」 「知ったところでどうにもならないとしても?」 「はい」  原発も海も影を潜めて、走る車はまたトンネルへと突入する。暗い道路の中で、並ぶライトが行く先の道を照らした。 「本当に、君は……」  桜井の語尾は白煙と共に闇へと散った。前を見つめる青山の視界の左端を、副流煙が曇らせる。振り切るようにアクセルを踏み込んで、輝く出口へと向かった。

 トンネルを抜けると、また白い海が広がっている。道路脇、等間隔に立つ群青色の電柱広告に「鰊御殿とまりまであと三キロ」の文字があることに気が付く。進む先、点々と道標のように連なっている。

 岩内でも小樽でも捕れたのだから、同じ日本海沿岸である泊村も鰊の恩恵を受けていたことは容易に想像できるし、勿論知識としてはわかっていた。だが、この泊村にも鰊御殿があることを青山は初めて認識した。

 かつて鰊漁が栄えた際に使われていた番屋は今、文化財として数多く日本海側に残されている。嫌でも記憶に刻まれている。青山の生まれ育った町であると同時にこの旅の始まりである、祝津の崖の上にも残されているからだ。青山はふと思う。父に連れられたことはあっても、青山の意志で鰊御殿に入ったことは一度も無かった。できる限りを知っていたいと、さっき青山は桜井に言ったばかりだ。発した言葉に見合う自分でありたい。

 セイコーマートを過ぎたところで、辺りの景色が茫洋とした沿岸線から小さな海町へと変化した。海の淵には、現在も使われている泊村の漁場が並んでいる。沿岸に浮かぶ漁船と網を視界に入れながら、青山は祝津の港町のことを思い出していた。並ぶ電柱広告に記される数字——鰊御殿とまりまでの距離がどんどん縮まっていく。

 青山は選んだ。表記の矢印に沿って、左へハンドルを大きく回す。

「うわっ」

 助手席の桜井がよろめく。咄嗟の反射か、けぶる煙草は灰皿へと押しつけられた。フロントガラスが彩度の低い海を正面に捉えた。高台から曲がりくねった坂を下りていく。海抜はゼロに近づいていく。斜めに傾く車体を狭い道に捻じ込みながら、海沿いの住宅の間、僅かにひらけた駐車場に車を入れた。ブレーキを踏み、ギアを力一杯パーキングへと入れる。

「行きたいです。鰊御殿」

 もう、ここまで来てから言うのは狡いかもしれない。だが、ハンドルは青山が握っている。積丹まではちゃんと連れていくつもりだから、またの寄り道を許してほしい。

「……鰊御殿は、小樽にもあっただろう」 「そうです。でも、まともに行きたいと思えたのは今日が初めてだったから」

 挿していたキーを引き抜く。やめる気はなかった。一人でも行くつもりだったし、きっと桜井はついてくるとも信じていた。青山が自ら選ぶ限り、桜井はそれを見届ける。暫し青山が動かないでいると、助手席側のドアが開いた。車内に充満した煙が抜けていく。青山もドアを開けて、外へと出た。

 潮の香りが鼻をつく。詰まる匂いには、染み付いた海町の生活が迫っていた。住宅の間に倉庫が建ち並び、開いたシャッター下に置かれた箱に、網がみっしりと詰められている。潮でそれらの外観は赤黒く錆び、建物前に残る粗目の雪の間からは枯れた植物が覗いている。雪解けの歩道を先導して、踏み締めていく。駐車場から少し歩いた突き当たり、瓦屋根を有する巨大な番屋へ辿り着いた。ここが鰊御殿とまりだろう。

 入口の残雪を踏んで砂利を越えると、眼前に堤防があった。先には白んだ海が広がっている。防波堤と消波ブロックに守られた泊の漁港だ。水平線の左端には、先程までいた岩内岳が淡く薄く輝いていた。すぐ横を向くと、「にしん街道」という表記が標柱に色濃く彫られているのに気が付く。近くに立てられている看板を青山は読む。

「ここ泊村では、江戸時代より鰊漁が始められ、明治中期から大正末期まで鰊の千石場所として栄え、村の発展に大きく寄与した……」

 泊村だけが鰊場として特別な訳では無い。松前までの日本海沿岸では、大抵どこも同じような歴史だろう。春、多数の魚場と鰊の建網を構えた町は、各地から集まったヤン衆と呼ばれる働き手で活気に満ち溢れる。期待に目を輝かせた人々に呼応するように群来は起こり、カモメが鳴き、波間でキリ声が響き、モッコ背負いの波が起こる——。

 青山が幼い頃から繰り返し聞いてきた歴史が、この泊村でも同じように語られている。最早、お伽話に近い。青山は、生まれてから一度も群来を見たことが無いから。

「桜井先生は、群来を知っていますか」

 言葉無くとも、桜井はちゃんとついてきており、青山の側に佇んでいた。強い海風が桜井の長いコートをはためかせる。

「……鰊が産卵のために押し寄せて、その精子で海の色が乳白色に変わる現象のことだろう。私は見たこと無いが」

 看板などには目もくれずに、桜井は答える。やはり群来など当然に知っていた。だが、その桜井の持つ机上の知識と、青山の聞かされてきたお伽話は、きっと限りなく等しい。

「おれも無いんです」

 青山がそう溢すと、桜井の目が僅かに見開かれた。

「そうなのか」

「おれ、親父のことが嫌いで。というか、青山の名前が嫌なんです。祝津で青山と言えば鰊の網元で。鰊御殿どころか、金ぴかの豪邸が建っちゃうレベルの本当に有名な家なんですよ。おれはその青山家の末裔なんです」

「……小樽の旧青山別邸だろう。数回程行ったことがある」

「やっぱり知ってましたか」

「確証はなかったよ。でも、初めに青山という名の漁師だと聞いた時から、そうかもしれないとは思っていた。君はどうやら地元を疎んでいるようだったし、あの名家なら家そのものを忌み嫌うのも腑に落ちる」

 眼前には、悠々と満ちた海が広がっている。小波に合わせて静かに漁船が揺蕩っていた。

「おれは群来る海なんて知らない。父だって知らないはずなんです。なのに父は、我が物顔で語って押しつけてくる。漁も海もずっと嫌いです。輝かしい歴史は生まれる前に終わってんのに、これからもぼんやりと続いていく退屈な未来の全部が嫌だった。おれは、本気で死にたかったわけじゃない。ただ逃げたかった。海にも陸にも居場所がないから」

 海でも陸でも生きていけないから、死んで逃げたかった。そんな青山を、桜井はできる限り岩礁から遠ざけたかったと言った。だが今、青山はまた海に対峙している。きっと青山を受け入れないまま変わらない、揺蕩う海に。

「でも、ここまで戻ってきました。海に居場所があるかどうかはわからない。それでも海や鰊のことを知りたくなりました」

 青山は振り向く。木造の番屋が、厚い瓦屋根で陽光を反射しながらそこに存在していた。かつての鰊漁の栄華を示す証明の一つ。ここには、今まで青山が向き合ってこなかった海の歴史がある。

「どうして知りたくなるんだろうな……」

 残雪の混じる砂利の上を歩き出した青山の後ろから、声が飛ぶ。桜井の言葉尻は、幼い迷子のように小さくなっていく。振り返らないままで青山は答えた。

「桜井先生が、おれの価値を見出したからです。文学館や美術館に連れてかれたおかげで、おれはおれの目で物を見たくなった」

 死者は蘇らない。歴史も変わらない。だが、その事象をどう解釈するかは鑑賞者に委ねられている。歴史にただ呑み込まれるのではなく、自分の目で見て初めてわかることがあると、青山はこの旅を通して知った。

「おれを書きたい、おれに選んでほしいとあんたが言ったから、おれもそれを知りたくなった。全部全部、あんたのせいだ」  おれは選ぶから、あんたも選べ。その言葉は飲み込んだ。振り返らずに前へと進んだ。青山は巨大な鰊番屋に真正面から対峙する。青山が自分に向き合うことで、どうか桜井も選択してくれないかと願いながら。

 番屋の玄関を開けて土間に一歩踏み入れた瞬間、木の深い香りが青山を包んだ。天井を見上げると、太く長い無数の木材が梁や柱となり、屋根裏を支えるよう格子状に張り巡らされていた。今、立っている土間を境に、建物は右と左の二つに分かれている。右側は畳敷の居間が襖越しに連なっているが、左側は吹き抜けの板の間が大きく広がっている。板の間の中央には囲炉裏が置かれ、奥に炊事場が見えた。左端には外へ続く戸があり、渡り廊下を経て、別の建物である客殿に繋がっているようだ。

「小樽の鰊御殿に、似てる」

 青山は呟く。番屋はどこも極めて構造的な造りだ。右手側が親方とその家族が暮らす豪華な居間となり、左手側が出稼ぎのヤン衆たちが雑魚寝する漁夫だまりとなっている。

「青山君も、ここに来たのは初めてなのか?」

「もしかしたらあるかもしれないけど、覚えてないです。鰊御殿は色々行きましたが、近いからと、父に連れられて小樽のばっかり行ってました。青山家のものだから、見せびらかしたかったのでしょう。鰊御殿はどれも似ているから、どこがどこだか区別がつかなくって」

 日和山灯台の側、崖の上にある赤い屋根の鰊御殿を思い出す。あそこには鰊漁の道具が数多く展示されており、二階から祝津の漁港を見渡すことができる。

「あれは青山家の番屋ではないけどな」

「え?」

「あの鰊御殿は小樽ではない別の所から移設されたものだ。青山家の番屋は小樽から札幌に移築され、北海道開拓の村に現存している」

 青山は愕然とする。みんなが小樽の鰊御殿と呼ぶから、当たり前のように青山家のものだと思い込んでいた。施設の説明には勿論書いてあるだろうが、今まで気に留めたことは無かった。

「……知りませんでした。そんなことすら、おれは知ろうとしなかったのか」

「誰が建てたかなど、見分けがつく方が珍しいだろう。私は有島武郎の家を訪れるため、開拓の村にはよく行っていたから。鰊御殿は構造的で美しく、好きで覚えていただけだ」

 桜井はぽつりと呟く。そういえば、木田金次郎の絵がある芸術の森の家の他に、もう一軒、北海道開拓の村に有島武郎の家が現存していると桜井が話していた気がする。

「開拓の村、ぜひ行ってみたいです」

 そう、期待を込めて溢すと、桜井は苦笑を浮かべた。

「そうだな。君は好きかもしれない。青山家の漁家住宅は勿論だが、その有島武郎の家ってのは、まさに木田金次郎が有島武郎を初めて訪れた、林檎園のそばの家だから」

 青山は目を見開く。固まるこちらから逃げるように、桜井は革靴を脱いで右側の畳敷へと上がった。青山も我に返り、慌てて靴を脱いで追い掛ける。親方の居間、窓際の帳場の位置にモニターが置かれており、その向かいには観覧用の座布団と脚の低い椅子が並んでいる。液晶の下には小さなボタンがあった。押すと、施設説明のビデオが再生されるようだ。桜井がボタンを押して椅子に腰掛けたので、青山も倣って隣の椅子に座る。端正なナレーションと共に、映像が流れ始めた。

 泊村の鰊漁は、今から三百年程前の江戸時代から始まった。特に明治中期から大正末期にかけて、鰊の漁獲は盛んに行われた。積丹半島には他にも多くの鰊場が開かれ、鰊の産卵の時期である毎年三月に出稼ぎの人が全国から集まり、親方に雇われて漁を行った。定置網で捕った大量の鰊は、まず袋澗に運ばれて、そこからモッコでさらに岸へと運ばれる。鰊の身は余すことなく活用され、他にも身欠き鰊や干し数の子が作られたり、灯油や石鹸、肥料などの加工品に姿を変えたりして、全国へと出荷された。さながら浜は戦場のような忙しさだった。三月から五月の鰊漁だけで一年分の収入を得ることができたほどだった。

 泊村でも多数の網元が名を馳せた。その中でも川村家・武井家・田中家が特に大きな漁場を経営し、それらの親方が、春先の漁に備えて出稼ぎの漁夫らを養うために建設された番屋が鰊御殿である。鰊御殿は、鰊漁が行われていた当時から村の繁栄の象徴であり、また今日でも鰊漁の栄華と衰退を物語る貴重な文化財となっている。この鰊御殿とまりは、川村家の番屋と武井邸の客殿の二つの建物を繋げて、移築復元したものである。

 川村家番屋は、明治二十七年に建築された、切妻造り総坪数百四十坪の建造物である。瓦屋根を支える太く長い柱や梁には、タモやセンが使われており、現在では入手不可能な大きさの木材となっている。一階、出稼ぎ漁夫と親方の生活部分は土間によって左右に区切られており、二階は主に客間として使われた。

 武井邸客殿は、大正五年に建築された木造平屋建て、瓦葺きの入母屋造りである。檜や杉、瓦などの建築材料の殆どを本州より取り寄せて建築された。二十七畳の和室は祝宴に使用された他、四部屋通して五十四畳の大広間としても活用された。近江八景などが描かれた欄間の透かし彫りや、現在は輸入禁止となっているビンロージュの床柱などは建築的にも大変価値のあるものとなっている。客殿に併設された石蔵は、八方方杖合掌組工法という柱を用いない小屋組みとなっており、当時から武井家の高価な品々が収蔵されていた。これらの客殿には、画家の木田金次郎もよく訪れ、廊下を磨いていたと伝わっている。

「木田金次郎が……」

「近いから来てたんだな」

 青山の呟きに桜井は呼応する。その声色から、桜井も木田金次郎との関わりを初めて知ったことが窺えた。豪華絢爛な武井邸客殿の画面が切り替わり、映像は終わりへと向かう。

 三百年もの間、泊村の栄華を支え続けた鰊漁は大正末期から昭和初期に掛けての急速な漁獲量の衰退と共に終わりを告げる。鰊番屋はその役目を終え、浅瀬に残る袋澗の痕跡や現在でも続く漁場のみが栄華の名残を感じさせている。当時の泊村の栄華を後世に伝えるために、この鰊御殿とまりは移築復元された。鰊御殿の姿は、その輝かしい歴史を生き生きと私たちに想像させるのだ——。

 ビデオはそこで終わり、暗くなった画面が青山と桜井の惚けた顔を映した。桜井は静かに立ち上がる。向かった先、奥の部屋は展示室となっており、豪華な食器や御膳、扇子や煙草、双眼鏡などの民具が所狭しとガラスケースの中に飾られていた。奥は縁側となっており、窓からは上屋に覆われた木造船が見えた。おそらく鰊漁で使われていたものだろう。窓に沿って板目の廊下を歩くと、これまた窓越しに雪を被った巨大な鰊釜が並んでいる。

 縁側を回って、床の間のある居間に入ると、中には金屏風や青色の火鉢があり、中央の卓袱台に出納帳が乗せられていた。開け放たれた襖からは、向こう側の漁夫だまりを見渡すことができる。ここから親方は、働くヤン衆を見ていたのだろう。

「ここから踏ん反り返るには、青山君には貫禄が足りないんじゃない?」

 卓袱台前で胡座をかき、雑に出納帳を捲りながら、桜井は茶化したように笑う。祝津の青山別邸は勿論、この番屋すら確実に今の青山の実家より見窄らしいのは事実だ。

「どうせおれは没落した網元の末裔ですよ」

「落ちぶれたのは君のせいではないだろう。その分、栄華も君のものではないけれど」

 父とは真逆のことを桜井は言う。栄華も衰退も青山のものでは無い。ここにあるのは、かつての網元が生きていた、ただの事実ばかりだ。

「誰のせいでもない。縋るものが元々人智を超えていただけだ。人々はそれに気付いていなかったか、気付いていても縋るしかなかったかのどちらかだろう」

 桜井は立ち上がる。畳があわく撓んで軋んだ。青山は床の間を見上げる。その壁上には、川村家親方の精巧な肖像画が飾られていた。鰊のために存在した全ては、鰊と共に役目を無くした。喪失へと対峙する人の足掻きなど、あまりに瑣末で惨めなものだ。

 だからこそ人智を超えたものに向き合った時、初めて意味が見出されるのかもしれない。いや、喪失の後に新たな意味を探さなければ、きっと人は生きていけない。

 親方の居間を去り、土間の上に掛かった板間を歩いて漁夫だまりへと移る。漁夫だまりには一面、焦茶の板の間が敷かれており、中央、囲炉裏の前には漁師を象った蝋人形が置かれている。先程入口から見たように、裏手には炊事場が続いていた。手間の壁際にはパネルが並んでおり、鰊漁の歴史を伝えているようだ。青山は展示を目で追っていく。

 鰊は、春に群来と共に町に祭りのような忙しさを連れてくるため、春告魚とも呼ばれていた。その活気は凄まじく、江差の五月は江戸にも無いと謳われたぐらいであったが、江戸時代から明治時代に掛けてピークを迎えた漁獲量は、昭和の初めにほぼゼロに等しくなる。鰊が捕れなくなった原因は、乱獲・海水温の変化・森林伐採など、様々な説があり、現在も不明なままである。

 次のパネルには当時の鰊漁の様子を記録した写真が展示されていた。人と鰊で溢れる活気満ちた海岸の様子が、モノクロームの写真からも伝わってくる。そのうちの一枚、鰊番屋の写真に目が留まった。海岸沿い、山を背に建てられた鰊番屋の前に、数十人の漁師とその家族らが集合して写っていた。昭和十年頃、この鰊番屋の網元である田中家が主催する行事で撮られた写真らしい。

「あっ」

 キャプションの続きを読んだ瞬間、青山は小さく声を上げた。当時、泊村照岸にあったこの田中番屋は現在、小樽の祝津に移築されたと記されていた。その濃い屋根の黒が、岸壁に佇む、見慣れた赤の屋根を想起させる。

「……これ、祝津の番屋です。間違いない」

 思わず指をさしながら呟く。桜井も写真を覗き込み、僅かに息を呑んだ。

「田中家か。さっきのビデオでも泊村の有名な網元は、この川村家と隣の武井家とあと一つ、田中家だと言っていたな」

 流石の記憶力だ。青山は素直に感服した。

「先生も知らなかったんですね」

「祝津の鰊御殿が青山家のものではなく、他の場所から移築されたことは知っていた。でも、それが泊村からだとは認識してなかったよ」

 桜井は、ふっとやわらかな微笑みを浮かべた。

「巡るんだな」

「巡る?」

「昨日、漁から逃げて崖の上から死のうとしていた君が、今日は漁業に向き合って生きようとしている。だから、今いるここが、あの鰊御殿のルーツの場所というのはとても美しい。正しい向き合い方じゃないか」

 桜井はどこか愛おしそうに祝津の鰊番屋の写真を見つめる。皮肉では無い、純粋な称賛と羨望を感じた。青山の頬に熱が集まる。

「そう、なんですかね……」

「ま、改めて思うけど、たった二日の付き合いなのに、ここまで俺についてくるなんて君は酔狂だよな。正気じゃないよ」

 桜井の微笑みが苦笑に変わる。濁されたのがわかった。また、桜井自身は何も選択しないのか。途端に寂しくなったから、青山はそっと笑ってみせた。

「木田だって、たったそんだけのきっかけです。一度有島の絵を観ただけで家に押し掛けて、有島もそんだけで木田のことを小説にしちゃった。些細な出会いが人生を変えてしまうって、二人は作品の中で証明している……」

 有島武郎を桜井に重ねたいわけではない。桜井には自裁してほしくないから。だが、たとえ有島武郎が木田金次郎を置いて自裁した事実があっても、青山は有島武郎の小説と木田金次郎の絵を肯定したいと思っている。二人の関わりによって、それらの作品が生れ出づることになったのならば。

「先生はさっき、おれが漁業に向き合ったと言いましたけど、まだ向き合えてはないですよ。やっと、見ただけです。ここから何を考えてどう行動していくかで、向き合い方が決まるんじゃないんでしょうか」

 田中番屋の次の写真群、眼前の展示はかつての鰊漁業の作業歴を示していた。三月初め、船出しと雪切りから漁は始まり、三月末に網が下ろされて、網おこしと沖あげが繰り返される。今の青山の仕事と何ら変わりはない。説明に添えられた白黒の写真には、刺し網に掛かった大量の鰊を陸へと揚げる漁師の姿が写されていた。

「そうか。そうだな」

 窓からの陽光が、浅く肯首する桜井を淡く照らす。空の青が視界の端にちらついた。晴れてきたのか。ふと青山は、昨日の旅の始まりから先程までずっと続いていた、雲が厚く海霧のかかった天気を、父が「花曇り」と呼んでいたことを思い出した。

「晴れじゃない。花曇りの天気の時こそ魚は来る、と父は言っていました」

「それを君は信じているのか」

「わかりません。だって、それは父の経験則だから」

 船の上で網を引く父の姿が浮かぶ。青山が逃げた今日も、父は花曇りの海上に出ていたのだろう。父は海を選び続けて、戦って、今を生きているのかもしれなかった。

「……おれもちゃんと漁業に向き合って、信じられるものが欲しい」

 吐露が花曇りを散らしていく。陽光はますます強くなり、青山を煌々と照らした。窓から降り注ぐ斜光は目に刺さって、眩しい。それでも目を背けずに、ここに立っていたかった。

 漁夫だまり端の戸を開けて、渡り廊下を歩き、隣の武井邸客殿へと辿り着く。かつて木田金次郎が磨いたらしい艶のある廊下をぺたぺた進む。廊下には埋木細工が施されており、波紋や灯台、番屋などの緻密な絵を床材の中に見つけながら歩く。きっと、これらの芸術品を木田金次郎は観に来たのだろうと合点がいった。さらに奥の大広間では親方の娘の結納が再現されており、朱塗のお膳が並んだ先、金屏風を背に白無垢と羽織袴が飾られていた。和室の緻密な欄間の透かし彫りに感服し、床の間の厳かさに目を見張る。

 石倉へと続く廊下に、袋澗についての展示があった。海の際、浅瀬に石が疎らに置かれて、囲われた写真がある。これが、袋澗なのだろう。

 袋澗とは、網元が自費で石を積んで作った個人所有の小漁港のことらしい。鰊漁の最盛期である三月、この辺りは強い北西風が吹き、時化に見舞われることが多かった。定置網に大量の鰊を捕獲しても、岩礁の多い積丹半島西岸に船を長時間つけておくことができない。海荒れに陸揚げが間に合わず、泣く泣く網を切って鰊を海に逃すこともままあったという。そこで、定置網で捕った鰊を小分けして運搬できる袋網が考案された。その袋網を一時保管するために作られた生簀が、袋澗だ。

 現在、袋澗はその役割を終えている。だが、漁業漁村の文化財として袋澗は保護され、日本海の荒波に打ち砕かれながらも、辛うじて残されている。かつての白黒写真だけではなく、カラーで彩られた現代の袋澗の写真が何枚も飾られていた。岩礁を掘削した海の合間に間知石が積まれて、堤が作られている。波はここで堰き止められて、鰊の鮮度を保つのだろう。

「袋澗、祝津では見たことないですね」

「小樽と比べても、積丹は本当に砂浜が少ないからな。当時の漁業技術において、袋澗は極めて画期的なものだったのだろう。荒波に耐えられる馬力のある船が造られている現代技術では、もう不要なものだ」

 袋澗では袋網に入れられた鰊が、最長七日程保存されていたらしい。網の中で行き場を失くして藻掻く、鰊のことを想像する。

「さながら袋澗は、鰊の監獄のようですね。陸揚げという死を待つためだけに、岩礁に閉じ込められるのだから」

 思ったよりも冷ややかな声が出た。青山の身体の奥底から、冷えた海水が噴き出てくる。桜井はふっと苦笑を浮かべた。

「漁師がそれを言っていいのか? いちいち魚に感情移入してたら、やってられないだろう」

「ええ。だから、おれは上手くやれなかった。陸には上がれないのに、浅瀬の網からも逃れられない。通過点に囚われている。ずっと、そんな人生です」

 自罰に聞こえるだろうか。青山が囚われていることは事実だった。父の言いなりのまま何も考えず、ただ網ばかりを引き続けていた。中途半端な自分だから、漁師を誇ることなどできない。陸と海の間、自然と人工の岩礁に阻まれ飼い殺される、鰊のような人生だ。

「桜井先生だってそうでしょう。妹が死んだ雪山に囚われてる。生と死の狭間で、会う人々を通過点だと消費して書き続けてる。いちいち人に感情移入なんかしてたら、教師は勿論、小説家なんてやってられないんじゃないですか」

 ぴくりと桜井の眉が動いて眉間に皺が寄る。そういえば、青山の方から妹の死について言及したのは初めてかもしれない。

「鰊御殿も袋澗も、絵や小説だってそうだ。どうしてみんな、栄光や不幸をわざわざ遺して、振り返ろうとするんでしょうね」

 ふっと桜井に微笑を向けて、青山は歩き出す。引き戸を越えた先、白い石と黒の金属で象られた厚い扉を抜けて石蔵の内部へ踏み入る。嵌る窓は小さく、橙のランプがぼんやりと灯るだけの閉鎖的な空間が待ち受けていた。壁に沿って、鰊漁に使われた道具が剥き出しのままずらりと並べられている。ガラスの青い浮き玉の側には大小の背負いモッコが置かれ、しめ胴や粕砕き、こまざらいなどのかつて使われていた鰊の加工用具が展示されている。天井からは袋網が吊り下がり、長い大タモが壁から壁まで寝かせられている。モッコなどとは違い、網もタモも青山にとっては馴染み深い道具だ。全てが懐古となるのではなく、受け継がれているものもある。当たり前だ。過去が積み重なって今をつくり、今の繰り返しが未来となるのだから。

 壁のパネルには、武井家の親方の紹介と共に鰊漁の仕掛けや網の構造、鰊の加工工程や当時の出荷先が事細やかに記されていた。一通り巡回し、二階へと上る。屋根の骨組み、梁材が八方向に伸びていくその下で、壁際に並んだ鰊用具の展示を隔てて、刺し網が幕のように上から下りていた。刺し網は定置網ほど大きく複雑ではない。青山がいつも船の上で引いている網だ。こいつで魚を、昔も今も捕り続けている。何の為に。きっと生きる為だった。

 ここが展示の果てだった。青山は来た道を遡る。石蔵から出て、武井邸の廊下を進み、渡り廊下から川村家の番屋へと戻る。入口近く、鰊を象ったメッセージカードに来館者の感想が貼られているのに気が付いた。「色々見れて楽しかったです」「鰊の歴史が詳しく知れました」などの当たり障りのない感想が並んでいる。どれも同じ向きに貼られたカードは、群来をイメージしているのだろうか。群来とするには少なすぎる数だ。青山は白紙の鰊を一枚掴んで、鉛筆を走らせる。書き終えた紙を箱に入れて、外へと出る。

 白銀の雪を散らす日光の眩しさに目を細めた。太陽は雲の合間からすっかり顔を出し、何の濁りもない青い空とそれを反射する青い海が、漁港と堤防の向こうに広がっていた。花曇りは無い。だから今、群来は来ない。

「さっき、なんて書いたの」

 桜井の声が響く。振り返ると、桜井の瞳が晴れた海を反射して青く輝いていた。モノトーンの全身の中で、青だけが酷く鮮やかだ。

「群来が見たい。ただ、それだけを書きました」

 青山は真っ直ぐ答える。まぎれもない本心だった。

「もう去った鰊をどうして望むんだ?」

 青い波が揺れている。今も続く眼前の漁場には、千石場所を築いた最盛期ほどの鰊はやってこない。鰊は去ったから、栄華は戻らない。だが、栄華も衰退も、そもそもおれのものではないと、あんたが言ったのだ。

「逃げたから、向き合いたいんだ。確かに最初はあんたに誘われたから逃げたけど、おれはあんたのせいにはできねえよ。あんたのこととか関係無しに、おれは父さんに何も言えていない。海が怖いことも、青山家や鰊の歴史を知ろうとすらしなかったことも。耳を塞いで落ちて死ねば、勝手に憎んでくれると思ってたんだ。おまえは出来損ないの息子だって」

 対話がなかったからわからないが、父の厳しさは漁への誇りから来ていたのかもしれない。無理に引きずられた全ては、父なりに歴史と将来を伝えたかったからなのかもしれない。閑古鳥の鳴く映画館とクレープ屋、トドが叫ぶ寂れたおたる水族館。祝津の崖に建つ泊村から移築された鰊御殿と、原発を伝えるとまりん館。そして、荒波の日本海に揉まれながら漁船で引く刺し網の冷たさ。あんたは繋ぎたかったのか、廃れていく故郷を。おれは嫌だったよ。それすら何も言えていない。

「残る全てが嫌だった。恵まれて幸せな過去を見せつけて、おれを惨めにしたいのかって。でも、きっと違うんだろう。鰊御殿や袋澗みたいな過去を残すのは、過去を今にして前に進むためだ」

 父は網を引く。太い血管が浮き出た父の腕は、汗と水飛沫が混じって濡れて、花曇りの後に現れた朝焼けに輝く。指の先、網に捕らえられた魚も朝日に照らされ、きらきら煌めくのだ。海の上で魚を殺してまでも生き抜こうとする姿は、思えばいつも逞しくて、苦しくなるほどに美しかった。  人間というものは生きるために、死の側近くまで行かなければならないのだ。謂わば捨て身になってこっちから死に近づいて、死の油断を見すまして、かっさらいのように生の一片をひったくって逃げて来るのだ——。

 きっと、ここで生きた三百年前の漁師も木田金次郎も同じだ。そして、父も。

「だから、ここを通過点にしたくない。おれは今、漁に向き合いたい。過去の栄華を憎んだり、廃れる未来に怯えたりするんじゃなくて、今、海の上で死に物狂いに網を引くことが生きることなんだ」

 どうせ廃れるからと、知りもしない過去や不確定な未来ばかりを気にして、今に向き合ったことなど無かった。だから、ここから始めたい。海に向き合い触れ合って、海を愛そうとしてみたい。

「その先に群来があったらいい。おれは、あんたと見たいよ。群来る春の海を」

 鰊は春告魚だ。永遠の冬など無いと、どうか信じていたい。太陽が輝いて青山の立つ地面を明るく照らした。ぬるい海風が桜井の左耳のピアスを揺らす。白銀の蝶は海風のまにまに煌めいて、繋がれたまま羽ばたいた。

「君は本当に眩しいね。その眩しさが苦しいから、俺は君を書きたくなる」

「嫌だ」

 青山は詰め寄って叫ぶ。陽光で溶けかけた粗目雪が踏まれて、ざらりと音を立てた。

「おれは今、あんたと共にいたいんだよ。小説は読みたいが、書かれたいわけじゃない。おれを書きたいのなら、おれが寿命を迎えて死んでから書け」

 どうか有島武郎から木田金次郎へ宛てたように、祈りを捧げないでくれ。小説を書いて残すことが、今を生きることの証明になるなら、おれはその今に伴走していたい。

「正直、君とのことが美しい思い出になればと願うくらいには、俺は君といる時間を気に入っている」

 銀の蝶が揺れる。陽光を反射して、慈愛を含んだ青い瞳が青山を捉えた。たった今、桜井の頭の中では物語が紡がれているのだ。

 まだあんたは過去にいる。白銀の雪山で妹の死体を掘っては泣いて、凍えることを欲している。自罰を重ねて、死にたいと嘆いている。勝手におれの眩しさに憧れて、置いていかないでくれよ。ここは冬の山じゃない。春告魚の来る海だ。

「おれは生きるよ。今を生きたいから祝津に帰る。あんたはどうしたいんだ」

 改めて意志を問うた。初めの崖の淵の立場は逆転している。おれは、あんたを淵からできる限り遠ざけたい。生きてほしいから。

「俺は積丹の海に行きたい」

 祝津の崖の上から変わらない答えが返った。変わったのは青山の方だ。荒井記念美術館で一度使ったきり、ずっとポケットに捻じ込んでいた札束と僅かな小銭を、桜井の心臓へ向けて力強く押しつけた。

「これ、返します。でも、一緒に行きます」

 ついていくでもつれていくでもない。共に行きたかった。

 桜井は青山の拳ごと金を握る。触れた熱で、血の巡りと肌の温かさを実感する。振り払われはしなかった。返した金を握り込んで、桜井は呟く。

「……行こうか」

「はい」

 青山は頷いた。今を生きたいし、生きてほしい。妹も両親も有島武郎も木田金次郎も既に死んだ。死者は何も語らない。許されないと嘆いたって、そもそも桜井を許していないのは、桜井だけなのだから。

 だから青山は最後まで見届けたかった。桜井が選んだ時、どうか隣にいたい。そのために青山が憎んで、桜井が愛した海へ還るのだ。

 眼前の海は青く揺蕩い、静かに煌めいている。

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