マイ・フェイバリット・シングス-03
アヤカは病院に救急搬送された。
おれは白く無機質な廊下の長椅子で待っている。アヤカ、どうなっているんだろう。そう考えると胃のあたりが重い。待つ時間が果てしなく長く感じられた。おれの傍には、先輩に渡すはずの紅茶とクッキーの入った袋が置かれている。
どれだけ待ったのか。看護師が病室のドアから出てきた。
「有馬悠一さんですね? 中へどうぞ」
促されるままに中へ入ると、アヤカがベッドに横たわっていた。目を閉じており、まるで眠っているようだ。だが、その傍にはバイタルデータを表示するモニタがあり、点滴の管が腕へと刺さっている。
傍にいた医者へ、おれは詰め寄る。
「アヤカはどうなったんですか」
医者は答える。
「アヤカさん――本名は常磐彩花さんですね。私は常磐さんの担当医です。
彼女はウェルナー症候群を患っています」
ウェルナー症候群。おれは医者の言葉を反芻した。聞いたことはある。要するに生まれ持った遺伝子のせいで老化が早まり、若くして死ぬ病気だ。
――これでもオフでは若作りしてるのに。
彼女の言葉が思い出される。
でも、いまは症状の進行を止める薬ができていたはず。
薬。そこでおれは思い出す。アヤカの飲んでいた薬、あれか?
「常磐さんの病状は史上稀に見る症例でした。老化抑制剤を処方していたのですが、限界です。
三週間前に、仕事はもう辞めて休養するようにと指示しましたが……」
初めて会った日の夜を思い出す。確か、あの日がちょうど三週間前。
――あたし明日から、しばらく長い休暇が続くんだ。
あの時、おかしいと気づいていれば。いや、その前に――。
「おれがピアノなんて弾かなければ……」
悔やんでも悔やみきれず、うつむいて拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込んだ。
「……そんなことないよ」
アヤカの声が滑り込む。はっとしておれはベッドを覗き込む。彼女が目覚めた。
医者は静かに病室を出ていった。
「あたし、ユーイチに会えてよかった。嬉しかった。楽しかった」
「そんな……これから死ぬみたいなこと言うなよ」
縁起でもない、と懸命に作り笑いをしてアヤカの手を握る。ひやりと冷たいのが不安になって、少し力を込めた。
「……ねえ、ユーイチって小さい頃の記憶ある?」
そこでおれの脳裏に蘇るのは、時々夢に見る、幼少期のおれとよく似た落ち着く体温。
――まさか……。
「あたしは、ユーイチと同じ日に生まれた。でもちょっとだけ、先にね」
「おれの……双子の姉さん……?」
アヤカはうなずく。
驚いた。でも、だとしたら納得がいく。気づけばいなかった母親。何も語らなかった父親。息の合ったセッション。馴染みのある体温。似通った趣味――。おれはバラバラだった記憶の点と点がすべて線で繋がっていくのを感じた。
アヤカは目を閉じる。
「あたし、最初から気づいてた。言い出せなくてごめん」
「そんな……おれの方こそ覚えてなくて……」
もう言葉が出てこない。代わりのように涙が頬を伝う。それはしずくとなり、アヤカの白く透き通る頬の上に落ちた。おれは「マイ・フェイバリット・シングス」の歌詞、その歌い出しを思い出していた。――薔薇の花に乗った雨のしずく。
おれを見て、アヤカはやわらかく微笑む。
「ありがとう、ユーイチ」
それが、彼女の最期の言葉だった。
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