マイ・フェイバリット・シングス-01
ジャズバー「BLUE NOTE」は今日も満員御礼だ。アヤカの歌が始まるまで次々とカクテルの注文が入る。
「ティフィン・グレープを頼む」
「かしこまりました」
おれがティフィンとグレープフルーツジュースの瓶を手に取る間もなく、他の客がこう言った。
「スカイ・アンド・シーちょうだい」
「こちらで承ります」
先輩がそう言って手早く材料をシェイカーに注ぐ。それを心地よい音を立てながら両手で持ってシェイクし始める。
ここで働き始めて二週間ほど。おれはまだステアとビルドのカクテルしか作れない。いつかはああやってシェイカーを振れるようになるだろうか。
「ティフィン・グレープです」
そう言っておれが半透明な橙色も鮮やかな液体が入っているタンブラーを、静かにさきほどの常連客の前に出す。年かさの男はタンブラーを手にしておれに笑いかけた。
「ユーイチ。あんたとアヤカの息の合ったセッション、最近はわしの生きる楽しみだ」
「ありがとうございます」
頭を下げると男はティフィン・グレープを一口飲む。柑橘とアルコールの匂いがかすかに漂う。今やこのバーでは常連客におれの名は知れ渡っていた。
「アヤカは神出鬼没だからな。ここで毎日のようにその歌が生のピアノと一緒に聴けるなんて、長生きはするもんだよ」
男は上機嫌に呵々と笑い、カウンターを離れていった。
おれの片耳ヘッドセットからオーナーの声がする。
「そろそろ準備してくれ」
はい、と返事しておれはそれを先輩に伝え、カウンターを出た。
ピアノの前に座ると、客がいよいよ始まるのかと言わんばかりにこちらを見てくる。オーナーの声がまた聞こえた。
「アヤカが準備に手間取ってる。少し時間を稼いでくれるか」
「何を弾きます?」
低く訊ねると、オーナーのにやりと笑う気配がした。
「景気づけに派手なのを」
そう言われ、おれはぱっと思いついた曲を弾き始めた。
ハイテンポで派手に始まり、いったん穏やかになるという緩急の激しい曲。
これは遠い昔に制作された、宇宙を股にかける賞金稼ぎたちの冒険活劇セルアニメのオープニング曲だ。おれがジャズを聴いたり弾いたりするようになったきっかけの曲。当時は「これはジャズなのか」と議論が絶えなかったらしいが、それも昔の話。いまではすっかりジャズの一曲に名を連ねている。
鍵盤を凪いで弾き終わると、拍手が送られた。
オーナーの声が耳に届いた。
「いいぞ、ユーイチ」
そこでアヤカがステージに現れ、さらなる拍手が巻き起こる。青いドレスに身を包んだ彼女はこちらに目配せした。おれは打ち合わせ通り、「マイ・フェイバリット・シングス」を弾き始める。そこへアヤカの歌が乗ってきた。
薔薇の花に乗った雨のしずく、子猫の口ひげ、ぴかぴかの銅やかん、暖かなウールの手袋――お気に入りのものを、韻を踏みながら挙げていく一曲。アヤカの歌声は弾むように、そして伸びやかに歌い上げる。
客はこちらを注目したままその場からほぼ動かず、ストップモーションをかけたような状態だ。アヤカとおれが奏でるセッションだけが店内に満ちている。
こうして夜は更けていく――。
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