ワルツ・フォー・デビィ-02

 翌日。十六時の出勤時間より三十分前に裏口から店に入ると、スタッフルームのロッカー前で制服に着替えている三十代後半くらいの男がいた。例のバーテンだ。名前は確か――ワタヌキとか言ったっけ?

「おはようございます」

 男はおれの挨拶に気づくとこちらを向いた。

「おっ、誰かと思えば例のピアノマンじゃねえか。オーナーから話は聞いてるぜ」

「あ、はい。今日からここで働くことになりました。有馬悠一といいます。よろしくお願いします」

「有馬ね。俺は綿貫啓介。よろしく。いやあオレにも後輩ができたか」

 そう名乗った男はおれの分の制服を渡してきた。そして自分の黒髪をきっちりオールバックに整えた後、部屋を出ていく。

「じゃ、先に行ってるから」

 おれは急いで制服に着替える。白いシャツに黒いベストとスラックス。こんなかしこまった服を着るのはほとんど初めてで、緊張する。最後にロッカーの鏡でタイが曲がっていないか確認して、ホールへ向かう。

 綿貫先輩がモップを手にしていた。

「まずはホールの掃除な」

「わかりました」

 先輩と二人でフローリングの床を磨き始めた。

 手は動かしていてもほとんど頭は使わないので、雑談しながら掃除をする。

「それにしてもこないだのピアノ、助かったぜ」

「いえ、あの時は無我夢中で……」

 改めて言われると気恥ずかしくなってしまう。

「ピアノも念のためにオレが調律しておいたんだが、ピアニストを呼べるほどは儲かってなくてな」

 掃除を一通り終えるとつまみ類の仕込みを済ませ、先輩からカウンターでカクテルの作り方を教わる。

「シェイカーを使うカクテルは難しいから、とりあえずビルド――混ぜるだけでできるやつの作り方から。

 ジン・トニックくらいは覚えておいてくれ」

「はい。少し予習してきました」

 やるじゃん、と先輩が感嘆する。その目の前で棚からジンとライムジュース、トニックウォーターを選び、グラスに注いでジン・トニックを作ってみせる。昔は生のライムを絞っていたそうだが、いまや果物などは高級嗜好品だ。

 それを味見した彼は言った。

「――うん、合格。他のカクテルは作り方がわからなかったらオレに訊け」

「はい」

 おれは手首の時計をちらりと見る。開店までまだ時間がある。物珍しそうに先輩が覗き込んできた。

「あれ? 腕時計してんのか。そんな骨董品よく手に入れたな」

「これは父の形見みたいなもんです。あとおれ、古いものが好きで」

 そこへ裏口からアヤカが入ってきた。

「よっ。ケイスケ、ユーイチ。

 ――ユーイチってば、その制服似合ってるね」

「あ、ありがとう」

 おれが照れたのを見て、先輩は身を乗り出して自分を指差す。

「アヤカ。オレは?」

「はいはい。似合ってるよ」

 素気ない返事で、アヤカがカウンター前の椅子に腰掛けて肘をついた。先輩は悲しげなため息をつく。

「ひどいな。昔はオレを『お兄ちゃん』って呼んでくれるくらい可愛かったのに」

「なっ……! どれだけ昔の話よ?」

 慌てるアヤカを見て、彼女は本当にこのバーで人生の多くの時間を過ごしたのだろうと思った。

「じゃあ、あたし着替えてメイクしてくるから。

 ――ユーイチ! 今日もよろしくね」

 言い置いて楽屋へと引っ込んでしまう。

 そうこうしているうちに、開店時間になった。

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