BLUE NOTE-04

 店の事務所。オーナーが接客用のソファに座り、ローテーブルでタブレットサイズのデバイスを操作しながら説明する。

「うちは十八時オープンの三時閉店だ。出勤時間は十六時で、掃除や料理の仕込みをやってもらう。三時半に上がりだ。制服は支給するが交通費は出ないぞ。どこに住んでる?」

 向かいのソファに座ったおれが答える。

「ここからメトロで二駅のところです」

「よし、週五日入れるか?」

 夜間警備のバイトをしていたこともあるので、またこれから夜型の生活になるなと思った。別に嫌ではない。どちらかといえばおれは夜型なので、給料のいい夜勤のバイトでも探そうと思っていたところなのだ。

「大丈夫です。ええと、定休日は?」

「日曜と月曜だ。他に訊きたいことは?」

「カクテルの作り方はわからないですが大丈夫ですか?」

「そうか。それはおいおい教える。さっき機材チェックしてたバーテン、ワタヌキ・ケイスケっていうんだが、面倒見のいいやつだからうまくやってくれると思う。お前さんを指導する立場になるなら、あいつの給料も上げてやらないとな」

 次にいつから入れる? と訊かれた。

「まだ荷ほどきやらが済んでないので、明後日の夜からなら」

「了解。他には?」

「特にありません」

「これが雇用契約書だ。よく読んで」

 デバイスがすっと差し出される。おれは契約書を上から下までスクロールしてじっくり読んでから、自分のデバイスを取り出して画面にタッチした。軽い電子音が響く。

「これで契約成立、っと。これからよろしくな、ユーイチ。期待してるぞ」

 オーナーは歯を見せて笑う。おれのデバイスにも契約書が届いていた。立ち上がって握手をする。そのタイミングでアヤカの声とともにドアが開いた。

「ねえ。終わった?」

 おれがその声に背後を見ると、いつの間にかメイクを落として私服に着替えた彼女がいた。

 まるで別人みたいだ。先程の黒のロングドレスとは対照的に、白を基調としたスポーティな服装。髪をまとめてキャップに入れ、オーバーサイズのトレーナーに生脚も出し惜しみしないショートパンツ。足元は靴底が厚いスニーカー。肩から斜めがけにしている小さなブランドのショルダーバッグ。いまの彼女は、おれとそう変わらない歳に見えた。この姿で歩いていれば、誰だってこの女の子が火星一の歌姫その人だなんて気づかないだろう。女って、本当にわからないものだ。

 にこにこしながらオーナーがおれの手を離すと、軽く片手を振る。

「終わった終わった。アヤカもお疲れ様。これで稼げば、もっとアヤカの歌える環境がよくなるさ」

「ありがと。オーナーもお疲れ様。――じゃあユーイチ、行くよ」

 そう言ってアヤカはおれが羽織っているフランネルシャツの上から手首を掴んで引っ張った。突然のことで頭が混乱している。

「行くって、どこへ……」

「まだ四時前だよ。始発まで時間つぶさなきゃ」

 アヤカの左手首にある腕時計型デバイス、現在時刻は三時四十二分と表示されていた。それを見て、おれは夕飯を食べていないのを思い出した。途端に腹の虫が鳴く。

「お腹空いた? あたしもお腹空いてどうしようもないんだ」

 と、いうわけで。彼女は握りこぶしを元気いっぱい突き上げた。

「あたしの奢りで、ご飯食べに行こう!」

 オーナーに見送られ、半ばアヤカに引きずられるように店を出た。まだ街灯が照らす夜道。朝焼けを待つ闇は、デバイスで見た湿度よりもしっとりと優しく感じられる。

「あ、アヤカ……さん? ご飯って、何食べるんですか?」

「火星名物まるばつうどん! 日本人ならやっぱうどんだよねえ」

「えっ、はい……」

「もしかしてそば派だった?」

「いや。おれもどちらかといえばうどんが好きです」

 颯爽と歩く彼女の後をついていきながら、うどんなんて、歌姫は意外と素朴なものを好むんだなと思った。おれはトップスターがみな、高級なものしか口にしないと思っていた浅はかさがおかしくなって小さく笑った。地球の歴史を鑑みればわかるが、頂点にいる人間にだって、庶民の楽しみは通じるのだ。

 おれが笑った気配を感じ取ったのか、アヤカが振り返った。

「なんかあった?」

「なんでもありません」

 それならいいんだけど、と彼女は言ってまたもう一度おれを見る。

「あ、そういえば敬語、やめてよね」

「いけませんか?」

「あたしのほうが年上に見えちゃうじゃない。一応これでもオフでは若作りしてるのに」

 腰に手を当てて、首を傾げる。別に、若作りしなくてもその自然に出てくる仕草のひとつひとつや雰囲気が、若い女の子そのものなのに。

「すみませ……ごめん。わかった」

「よろしい」

 彼女は上機嫌に鼻先で笑う。

 道の隅でやっている屋台を見つけると、おれを急かしながら早足で歩み寄る。

 屋台。太古の地球、東南アジアや日本にあったという移動型のごく小さなファストフード提供店舗だ。国会図書館のデータベースでしか見たことがない。あとは、古い映画の中とか。

 彼女は「まるばつうどん」と書かれた暖簾をかきわけ、店主のおやじにこう挨拶した。

「よっ、大将。やってる?」

 その声で、椅子に腰掛け、帽子からはみ出した白髪頭を揺らして居眠りしていた店主が目を覚ます。

「おお。アヤカじゃないか。やっとるよ。来るだろうと思って待ってたらほんとに来てくれた」

 久しぶりに会うらしき二人は二、三言葉をかわす。

「で、そこの兄ちゃんは彼氏かい?」

「違うよ。新しい仕事仲間」

「なんだ。そうなんか」

 ちょっとばかり残念そうな顔をする。アヤカが恋人を連れてきてくれたものと思ったらしい。たぶん、この二人は古くからの付き合いなのだろう。

 アヤカとおれは屋台前の長椅子に並んで座る。メニューはないらしく、おれが戸惑っていると、彼女がさっと手を挙げて注文する。

「じゃ、大将。かけうどんの大を……」

 そこで溜めると、にやりと笑ってこう続けた。

「四つくれ」

 おれは思わず、条件反射でこう叫んだ。

「二つで充分ですよ!」

 アヤカも屋台のおやじも、あっけにとられて口を開けている。

「……驚いたなあ。このネタが通じる人間、他にもいるなんて」

「あたしもびっくりした。

 ……ね、ユーイチ。『ブレードランナー』観たことあるの?」

 おやじは真面目な顔をしてうどんを鍋で茹で始めた。おれは答える。

「中学生の時に観た。ブルーレイのディスクも買ったよ。買った後に再生機器がないのに気づいて慌てたけど」

「うそ。あたしもおんなじことした」

「ま、うちにゃあ、海老天はもちろん深海魚すら置いてないけどな。

 ――へいお待ち! かけの大、二丁!」

 差し出された丼には、湯気を立てる黄金色のつゆに太く白い麺が浸っていた。上には乾燥の刻み葱と天かす。

 置いてある使い捨ての箸を手にすると、二人揃って麺をすする。うまい。空腹にしみていく気がした。

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