BLUE NOTE-03

 黒人男と見つめ合ったまま、頭の中でどう切り抜けるかと考え始めた瞬間。男はおれを手で制し、小型の片耳ヘッドセットからなにか聞こえたのか小さく返事した。低い声でおれに言う。

「――アヤカが呼んでる。楽屋はあっちだ」

 おれは男に案内されるまま、関係者以外立入禁止の扉をくぐった。

 狭い廊下を抜け、男は楽屋のドアをノックする。中から返事があると、ドアを開けておれを押し込むようにして男も入った。鏡台の前の丸椅子に腰掛けていたアヤカが振り返って愉しそうに笑う。さきほど歌っていたときの匂い立つような色香とは違い、いま浮かべている表情はいくらか幼い気がする。舞台映えするメイクは濃いのだな、と思う。

 でも、なんでおれが呼ばれるんだ? やっぱりまずかった?

 居心地悪そうにしているおれを見たアヤカはくすくす笑う。

「オーナー。そこのピアノマンの様子から見ると、脅かしたね?」

 そこで男は声を上げて笑った。緊張の糸が解ける。

「いやあ、あんまり嬉しくてな。お忍びでアヤカが歌いに来てくれるってのに、ピアニスト一人も雇えない寂れたバー。ボロい機材は案の定トラブル! そこに現れた我らが救い主よ!」

 オーナーと呼ばれた男は、笑いに喉を震わせながら大きな手のひらでおれの背中を叩いてくる。感極まっているのか、勢いがよくて痛い。正直に痛いとつぶやくと、オーナーは慌てて背中をさすってくれた。

「おっと悪かった」

 アヤカは立ち上がると、深々とおれに向けてお辞儀した。

「ありがとうって、お礼を言わせて。あなた、最高だった。こんなにいい気分、いつぶりかな」

「え、あ、そんな……もったいないです」

「それで、突然現れたピアノマンのお名前は?」

 アヤカに訊かれて、おれはろくに目も合わせられないまま、自分の名を告げた。

「あ、有馬悠一、です」

「へえ。ユーイチっていうんだ。なんの仕事をしてるの? なんでピアノが弾けるの?」

 興味津々といったふうな矢継ぎ早の質問に、おれはしどろもどろに答える。

「えっと、三日前に火星へ移住したばかりで、まだ職はありません。地球では日本で高校卒業してからフリーターをやってました。

 ピアノは学生の時に、その、独学で……」

 最後の方は消え入りそうな声になってしまっていた。仕方ないだろう。おれの推しが目の前にいるんだから。なんせライブ中継をひと目見て大ファンになってしまい、その場で彼女の歌声が聴けるサブスクに申し込んだくらいなのだ。

「なんだって? いまは仕事してない?」

 オーナーが大仰に驚く仕草をすると、アヤカの傍に近づいてなにやらひそひそ話を始めた。なんだろう。なんかいやな予感がする。落ち着かないおれは、無意識にデバイスを手にした。あ、SNS見られるじゃん。さきほどのアヤカのシークレットライブについて何か投稿がないかと検索をかけるが、はっきり言明しているアカウントは見つからない。さすがよく訓練されたアヤカのファンだ。

 やっと相談が終わったらしいアヤカは髪を翻して振り返る。さっきおれがピアノを弾いていたときのように、口の端を上げた。

「ねえユーイチ。あたし明日から、しばらく長い休暇が続くんだ。ゆっくり休もうと思ってたけど、このバーで歌うことにするから」

「うちも人手が足りなくて困ってたんだ。バイトじゃなくて正規雇用でどうだい? 普段は掃除やカウンターでの仕事をやってもらうが、アヤカが歌う時にピアノを弾いてくれたら給料はずむぞ?」

 ――予感だいたい的中。なんというか、荷が重い! 重すぎる! かたや火星一の歌姫、かたやちょっとピアノが弾けるくらいの現在無職だぞ?

 おれが返事をためらっていると、オーナーがその辺にあった電卓とかいう古代の機械をはじいて金額を提示した。

「これが雑用だけやってもらった日の給料」

 その白黒の液晶を覗き込むと、夜勤だということを差し引いてもまあ悪くない金額だ。一旦電卓が引っ込められ、新たな金額が提示される。

「それで、こっちがピアノを弾いてもらったとき日給に上乗せする最大額。

 チケットはここの常連にだけ口外無用で売って、その売り上げ十パーセントをお前さんにやる」

 目玉が飛び出すかと思った。破格の扱いだ。アヤカの歌声を聴きながら、彼女のためにピアノが弾けて、それでこんなに金がもらえるなんて。

「な、なんか裏がありませんか?」

 訊いてしまってから、そこで是と答える馬鹿はいないだろうと気づく。

 二人は顔を見合わせて肩を落とすとため息をついた。仕方ないとばかりにアヤカが、失敗してタネがバレてしまったときの手品師の顔でしぶしぶ語りだす。

「あのね。あたしの母さんもジャズシンガーで、よくここのバーで歌ってたんだ。あたしはそれを子守唄に育った。オーナーは父親代わりで、ここで歌うのは恩返しみたいなものなの。

 だからあたしの取り分はいらない、というわけ」

「つまり、こっちには残りの九十パーセントが入る仕組みだ」

 そういうことなのか――。

 おれは年齢含めてプライベートが謎に包まれているアヤカの一面を知って、なるほどと腑に落ちる思いがした。力強いが、時に寂しさや物悲しさを滲ませることもある彼女の歌声。それはそんな過去があったからなのだろう。

「……おれでよければ、ここで働かせてください」

 それを聞いて、アヤカとオーナーは喜んで諸手を上げるとお互いの手を音高く打ち合わせた。

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