BLUE NOTE-02

 なんだか、聞き覚えのある歌声だ。店内へ足を踏み入れて驚いたのは、そのバーは客もまばらながら、客の全員がステージに注目していることだった。おれも目線を上げると、そこに立つ人物を見て、意表を突かれた声が漏れた。そりゃみんな釘付けになるだろうと納得がいく。

 そこにいたのは、胸元の開いた黒いロングドレスにゆるくウェーブするブルネットの髪。見た目は年の頃三十前後。火星一の女性ジャズシンガーと呼ばれるアヤカだった。今歌っているのは、「ストレンジ・フルーツ」。

 待ってくれ。心の準備ができてない。おれの推し(これも古い言葉だが、オタク界隈ではまだ根強く使われている)が、いま、この目の前にいるなんて。

 その立ち姿は凛々しく、真っ赤なルージュを引いたその口から発せられる、力強く朗々とした歌。その深みのある声はこの小柄な体のどこから出ているのだろうと半ば酔ったような頭で考える。

 ――なんでアヤカがこんな小さなバーで?

 手に持ったデバイスでSNSを見ようとするが、それは一時的に使用不可になっていた。なるほど、シークレットライブか。黙ってデバイスをポケットに戻した。

 アヤカが歌い終わると、一瞬の間があってから割れんばかりの拍手とアンコールが響き渡る。おれも手が痛くなるほどの拍手を送った。やっぱり、最高だ。

 歌姫はマイクに触れて、鳴り止まぬ拍手をくすぐったそうに笑う。

「ありがとう。じゃあ、もう一曲だけね。最後は、『ホワット・ア・ワンダフル・ワールド』」

 アヤカの十八番だ。いつも最後はこの古典の名曲。歌姫の合図に反応して、演奏機材がオートで曲を奏で始める。もったいない。せっかくのアヤカのステージに役者不足だな。たぶんこのバーにいる誰もが思っていることだろう。ステージの傍には演奏する者もいないクラシックなピアノが鎮座しているが、あれは飾り物なんだろうか。

 アヤカはすうっと息を吸い込んだ。

「――I see trees of green, red roses too...」

 と、そこまでだった。演奏がぴたりと止んで、アヤカは歌い続けながらも戸惑った様子を見せていた。客が少しざわつき始める。バーカウンターから飛び出したバーテンが機材のチェックを行い、「機材トラブルです。少々お待ちください」と店内放送で言った。

 客の落胆した声が聞こえてきて、アヤカは歌うのをやめてマイクの前で客に向かって呼びかけた。

「みんな、ちょっと待って。すぐに直るから」

 それでもざわめきは収まらない。とっさにおれは早足にピアノへ向かった。客、バーテン、アヤカ。ホールにいる全員がおれに構う余裕はなさそうだった。

 鍵盤蓋を開けると、白鍵と黒鍵が思ったとおりに並んでいる。久々なのでうまく弾けるか――それにアヤカが乗ってくれるかもわからない。

 ――でも。

 おれは鍵盤の上に指を乗せた。これまでの人生で最もハイリスク・ハイリターンな賭けを覚悟する。

 試しに鍵盤をいくつか軽く叩いてみる。よかった、ちゃんと調律されてる。そこからおれはそう遠くない昔、中学と高校時代の合唱部で弾いていた感覚を思い出していく。まず、客の声をなんとかしようと、鍵盤上を凪ぐように端から端までかき鳴らした。その音に、客が驚きおれを見ているのが感じられる。よし、静かになった。

 即興で「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」のイントロを弾き始めた。これで大丈夫かな、とアヤカの方をちらり窺うと、彼女はにっこり口の端を上げてこちらにウィンクする。おれの伴奏に合わせ、アヤカは改めて歌い始めた。

 夢のようだ。敬愛する、推しのジャズシンガーの伴奏ができるなんて。

 さすがに合唱部でジャズはやらないので、おれは部活が終わった後にも学校に居残って、動画で見たジャズのピアノ演奏を必死で真似ていた。いつかきっと、おれはジャズピアニストになるんだ。そんな過去の青臭い努力が、いま報われているのだ。

 店内に静かに流れる、アヤカの歌声とおれのピアノ。胸がいっぱいで、涙が出そうだった。雑音は一切ない。

 アヤカの声が余韻に残る中、おれは演奏を締めくくった。三分弱の短い時間は、もっと短いように感じられた。先程の「ストレンジ・フルーツ」の時よりも盛大な拍手喝采が、沸き起こる。アヤカは笑顔で手を振り、ステージを降りていった。その後ろ姿を見送って、大きなため息をつく。すると後ろから肩に大きな手を置かれた。

 やばい。そう思いながらもゆっくり振り返ると、スキンヘッドに口ひげを蓄え、ブラック・スーツを着崩した、分厚い体の黒人男がおれを睨むように見下ろしていた。

 おれの人生、終わったかもしれない。

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