火星の歌姫

高間晴

BLUE NOTE-01

 火星のメトロはなんてややこしいんだ。おれは舌打ちした。降りる駅をどうやら間違えたらしい。ちょっと気分転換にと遠出をしたらこの有様だ。

 駅を出ていく人混みに流されながら、ジーンズの尻ポケットから手のひらサイズで縦長の無色透明な板――モバイルデバイスを取り出す。画面の上に、音もなくおれの設定しておいたコンサルの姿がホログラムとして現れる。それはデバイスの上でふわりと広げたスカートの裾をつまんで小さくお辞儀した。それから装着した骨伝導イヤホンに涼やかな声音でこう問いかけた。

「はい、有馬悠一様。なにかお困りですか?」

 名前はサラ。長いプラチナブロンド、二十歳くらいの女性。白い肌と髪を引き立てる漆黒の裾の広がったワンピース。それがおれのコンサルだ。これはデバイスに搭載されたAIで、タブレットサイズから手のひらサイズ、または腕時計型など、様々な形の情報端末は「デバイス」と呼ばれている(昔とは少し言葉の意味が違うらしい)。まあ、今どき身分証明、連絡手段から情報収集、各種支払い、あらゆる娯楽まで取り揃えたこの道具を持っていない人間を探す方が難しいだろう。

 持ち運びには腕時計タイプが一番普及している。だが、おれは古いものが好きで、かつて「スマホ」と呼ばれた形に似ているタイプを愛用している。

 おれは人混みから逃れるように、街灯の光が見える地上への階段を上がりながら、簡潔に用件を言った。

「ここどこ? あと、自宅への経路を教えて」

「最寄り駅より二駅乗り過ごしてしまったようですね。さきほどのが終電です。

 ここからご自宅へなら目前のタクシーに乗るのがよろしいかと」

 そう言ってサラは消え、かわりにマップと経路、自宅までのタクシー料金が表示された。目の前には無人タクシーが何台も停まっている。

「わかった」

 はあ、とデバイス片手に息をついた。宅配便や出前を運ぶドローンが何体も行き交う、どんよりした夜の曇り空を見上げる。まだ火星に来て三日。少しは見慣れてきたが、いつ見ても辛気臭い。でも雨は降らない。湿度や温度は春先くらいの心地よさだ。ここ火星で天気予報は百パーセント当たる。なぜなら、地球から移住した人間の住む区画は地球と同じ成分の大気で満たされ、温度や湿度が管理された密閉型の巨大で透明なドームの中にあるからだ。

 ホログラムを消そうと、デバイスの画面に指で触れようとした瞬間だった。

「ただ、現地点から南に約三百メートルの場所に『BLUE NOTE』というジャズバーがあります」

 サラからジャズバーと聞かされて、おれは一瞬固まった。

 ――なんだって?

 おれは地球の古い音楽、特にジャズが好きで、今やデッドメディアであるレコードを収集している。コンサルの設定でそのデータを入力したので、たぶんそう提案してきたのだろう。

「サラ。そのバー、おれでも入れる?」

「はい。火星での飲酒可能年齢は十四歳からです。悠一様も入店できますよ」

 気が変わったおれは、ナビに沿ってバーの方向へ足を向けた。

 ジャズバー。よく考えたら初めて行くな。さっきまでの憂鬱はどこへやら、足取りは軽くなる。

 おれはまだ半年前で十八になったばかり。ジャズバーは地球にいた頃、一度は行ってみたいと憧れていた。でもアルコールも出すから未成年は入れない。

 高校卒業直前に父親が交通事故で死んで、親しい身寄りもなければたいした金もないおれは大学に行かずフリーターを始めた。そのうち、地球の環境汚染が深刻になってきて、幾度めかの火星への大移民が再開された。二世紀ほど前から始まった火星の植民地化計画は数十年前に成功した。移民船のチケットは老若男女や国籍、社会的地位などとは関係なくランダムに、各デバイスへと世帯単位で順次配布されるらしい。それをいつ使うかは受け取った世帯次第だったが、親兄弟や親友といった近しい人間も特にいないおれはあまり迷うことなく、入手した早々にそれを利用した。あえて理由を挙げるなら、数年前に衛星放送でライブを見た、火星一と謳われる女性ジャズシンガー、アヤカの大ファンになってしまったから。火星に行けば、あるいは生でその歌声が聴けるかもしれない。そう考えたのだ。

 母親は物心ついたときにはいなかった。父親はそれについて訊いても何も教えてはくれなかった。たぶんおれは代理母から生まれた子供なんじゃないだろうかと思っている。

「目的地です。ナビを終了します」

 そう告げられて、おれは我に返ってホログラムを消した。路地裏の突き当り。隠れるように、こぢんまりとした店構え。木目調の取っ手のないドアに引っ掛けられたプレートには「BLUE NOTE」とある。デバイスを入口付近の専用リーダーにかざすと、ドアがすっと横に開いた。

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