杉ちゃんのシュトーレン

増田朋美

杉ちゃんのシュトーレン

風が吹いて寒い日であった。何故かこういう寒い日は、外へ出ないほうが良いという注意喚起があったとしても、外へ出てしまいたくなるものである。というのは、12月というのがとても忙しい日が多いから。師走と書くくらいだから、いつも動かない人物が動き出すのが師走なのである。

そんな中、製鉄所ではとても深刻な問題が起きていた。製鉄所と言っても鉄を作るところではなくて、居場所の無い女性たちに勉強や仕事をするための部屋を貸し出す福祉施設なのであるが、その利用者たちが、製鉄所にやってくると、水穂さんが竹箒を持って中庭を掃いていた。

「水穂さん大丈夫なんですか?庭掃除なんかして、昨日柳沢先生に安静にしていなくちゃだめだって、叱られたばかりじゃないですか。」

と、利用者は心配そうに言ったのであるが、

「いえ、大丈夫です。それに寝てばっかり居たら体も鈍ります。それなら、こうして庭掃除をしていたほうが気が紛れますよ。」

と、水穂さんは答えるのであった。その言い方も、弱々しい感じだったが、利用者は、あまりこういう重病人に関わりたくないとでも思ったのだろうか。

「あんまり無理しないでくださいね。決して良い方ではないって、言われたんですから。」

と言って、居室に行ってしまった。

それと同時に、今日は半日しか仕事がなかった今西由紀子が、製鉄所にやってきた。どんなに賃金が少なかろうと、勤務時間で無いときは、彼女は必ず製鉄所にやってくる。それは由紀子に取って、外せない日課でもあった。由紀子は、庭掃除をしていた水穂さんのところへ駆け寄って、

「水穂さん疲れるから、横になって休みましょう。」

と言ったのであるが、水穂さんは、そのまま庭掃除を続けていた。

「無理しないで!庭なんて掃除するの辞めて。それより、横になって休む方が大事なのよ。庭掃除は、他の人に任せればいいわ。それで良いことにしなければ。」

由紀子は、水穂さんにそういうのであるが、

「いや、他に庭掃除ができる暇な人が居ないじゃないですか。それに庭が汚いので見てられないんです。」

と水穂さんは言った。確かに庭は荒れ放題だった。最近庭に植えられているイタリアカサマツが、よく葉を落とすので、庭には松葉が散乱している。由紀子は、松の木が恨めしくなった。まあ確かに松は一年中緑の神の木なんて言われる樹木だが、それが勝手に葉を落として庭を汚しているのであり、水穂さんが庭掃除をする羽目になって居るのだから、ちょっと憎む対象になる。それに、製鉄所は人手不足であることは否めなかった。いくら女中さん募集の貼り紙をしても、応募者は全く現れないし、多くの女中さんが、数日でやめてしまう。由紀子には、その理由がよくわからなかったが、いつもそうなってしまうのは確かだった。

「庭なんて、誰かできそうな人が掃除すればいいのよ。水穂さんは、横になっているべきなのよ。だからお願い、辞めて。何なら私が庭掃除するから。水穂さんは、横になって休んで、眠って頂戴。」

由紀子は、水穂さんに懇願するように言った。

「あたしも、そう言い聞かせているんですけど、全然聞いてくれないんですよ。」

と、少しなまった日本語でそう言いながら現れたのは、野上あずささんであった。両手を粉だらけにしているので、多分、そばでも作っているのかなと、由紀子は思った。どうも由紀子はみんなにガミさんと呼ばれて慕われている、この女性が好きになれなかった。

「まあ確かに、誰も庭掃除できそうな人は居ないんですけどね。庭が汚いの、水穂さんは我慢出来ないんでしょうね。それに、庭掃除が終わったら廊下も掃除するからとめないでくれって言うもんですから、そこはあたしがするからって言って辞めさせたんですけど。」

あずささんはそういった。由紀子がなぜ顔や手を粉だらけにしているのか聞くと、杉ちゃんがシュトーレンを作っているので、その手伝いに来たという。まあ確かに、杉ちゃんは歩けないから、庭掃除などできそうな人物でもない。あずささんは、もうすぐクリスマスなので、張り切っているんですよというが、由紀子はクリスマスを祝う気持ちには到底なれなかった。由紀子が、そのあたりをどうやって言葉にしようか、感情にじゃまされながら一生懸命考えていると、箒が土の上に倒れる音がして、激しく咳き込む声と、どさんと何かが倒れる音がした。あずささんが、水穂さん大丈夫ですかと声をかけているのも聞こえてくる。由紀子が後を振り向くと、庭の土の上に仰向けに倒れているのは水穂さんで、口元は、朱肉のような液体で真っ赤になっていた。由紀子は思わず金切り声で、

「だから言ったのに!」

と水穂さんに言ったのであるが、

「布団で休みましょう。もう庭掃除なんて無理だわ。立てる?歩ける?」

とあずささん声をかけているのが目に入ってきた。その倒れている水穂さんの周りに、イタリアカサマツが落とした松葉が、散乱している風景は、由紀子には少々気味が悪かった。あずささんの方はそれを気にしなかったようで、石燈籠に頭をぶつけなくてよかったわなんて言っている。

「由紀子さん、水穂さんの布団を敷いてきてあげて。」

あずささんに言われて由紀子はハッとした。まさか布団を畳んでしまったとは。由紀子はそれも驚いた。

「水穂さんはあたしが背負って連れて行くわ。だから、布団を敷いてきてあげてよ。」

あずささんにちょっと強い口調で言われてしまった由紀子は、また感情に邪魔されて、そこを動けなかったが、

「早く!」

とあずささんに言われて、すぐに四畳半に走った。由紀子が四畳半へ行ってみると、布団はきっちりと畳まれていた。こんなせんべい布団でよく平気で居られるなと思うほど、布団は固まっていた。由紀子はすぐに敷ふとんを敷いてあげて、掛ふとんをそこにかけて、枕をおいてやり、

「準備できたわ!」

と憎々しげに言った。本当は、由紀子が水穂さんを背負う役をやりたかった。あずささんの方は、水穂さんをしっかり背負って、ちゃんと四畳半につれてきて、由紀子が敷いてあげた布団にちゃんと水穂さんを寝かしつけてあげて、机の上においてあった吸い飲みの中身をちゃんと水穂さんに飲ます役までこなした。それのお陰で数分後には水穂さんは咳き込むのをやめてくれたのであるが、その真っ赤になった口元を拭いてやるのも、あずささんに取られてしまって、由紀子は憤慨した。

「よしできたぜ。シュトーレン。オーブンが焼けたらみんなで食べよ。」

顔中を粉だらけにして、杉ちゃんがやってきた。由紀子は思わず、

「とてもそれどころじゃないわよ!」

と、怒鳴ってしまった。あずささんが由紀子に続いて、

「庭掃除していたら、咳き込んで倒れてしまったのよ。」

と状況を説明してくれた。

「何だいまたかよ。まあ、この最近、冬なのにあったかい日も続いていることだし、無理をし易いのはわかるんだけど、でもねえ、これだけガミさんに迷惑をかけているとなるとねえ。」

杉ちゃんは呆れた顔でそう言うと、

「あたしは別に迷惑じゃないわ。こういうことは、ちゃんと前の国家でやってきましたから。」

とあずささんは言った。ちなみにあずささんが前に住んでいたところというのは、中国の湖北省であることも由紀子は知っている。彼女の話によれば、電気もガスも水道もないところだったという。だから由紀子はそれを今使いこなしているこの女性が許せないのかもしれない。

「それより、こんなに頻繁に倒れちゃうし、人の言うことを聞かないとなると。」

杉ちゃんは、粉だらけの顔を拭きながら言った。

「ちょっと対策を立てる必要があるかもしれないわね。」

と、あずささんも言った。それと同時に、

「ただいま帰りました。遅くなってすみません。立食パーティーのあと、ちょっと主催者と話をしてきたんです。なかなか話すのを辞めない人だものですから、それを聞いてくるのに時間がかかってしまって遅くなってしまいました。」

と言いながら、製鉄所を管理しているジョチさんこと、曾我正輝さんが、製鉄所に戻ってきた。由紀子は、この人もなんとなく好きになれないのだった。たしかに偉い人ではあるのかもしれないけれど、彼のような人を頼らなければ、自分たちの生活を変えられないことが嫌だったのである。

「さて、シュトーレンはできましたか。もう完成している頃でしょうかね。」

ジョチさんは、そう言いながら杉ちゃんたちの居るところにやってきたが、偉い人らしく、庭に落ちていた竹箒を見て、何が起きたのかすぐに分かってしまって、

「ああ、またですか。」

と小さくため息をついて言った。

「困りましたね。」

「ええそうなんです。あたしも必死で止めようとしましたし、由紀子さんも一生懸命止めてくれたんですよ。それなのに、水穂さんときたら。」

あずささんが由紀子のことをそう言ってくれたのであるが、由紀子は褒めてもらえて嬉しい気分にはなれなかった。

「そうですか。またやらかしたんですね。そうするためには、多分人材を増やすことが必要なんでしょうけど、それも叶いませんからね。水穂さんの性格では、自分がやらないと他に庭掃除をする人が居ないと思ってしまうのでしょうね。水穂さんに安心して休んでもらうためにも女中さんを一人雇うのが必要なんですけどね。」

ジョチさんはそう言うが、

「でも、女中さん募集をいくら出したって誰も応募してこないじゃないか。」

と杉ちゃんが現実を言った。

「ええ確かにそうなんです。それははっきりしています。そして誰か手伝ってくれる人物が必要なこともはっきりしています。僕も、富士市内の家政婦紹介所に何度も足を運びましたが、いずれもだめで、全戦全敗でした。皆さん家政婦さんといっても、昔ながらの仕事をしたがる人は減っていると言うことも確か、」

ジョチさんはそういった。

「あの、理事長さんちょっとよろしいですか?」

ジョチさんの言う事を遮って、あずささんが言った。

「ガミさんどうしたの?」

杉ちゃんが言うと、

「あたしが気になるのは、水穂さんの体のことです。彼を背負ってわかったんですけど、ものすごく軽いんです。あたしの国で経験した天秤棒より軽かったんです。」

とあずささんは言った。由紀子は天秤棒とは、両端に桶をつけて、水を運ぶための道具だと気がつくのに、少し時間がかかった。確かに両端に水をいっぱい入れて歩くには重いだろう。

「つまり、軽いということは、」

ジョチさんが言いかけると、あずささんは、

「ええ。何日もご飯を食べてないってことになると思うんですけど。そのまま食べないで放置していたら、水穂さんは確実に餓死してしまいますよね。」

と恐ろしいセリフを言い始めた。

「そうだねえ。実はそうなんだよねえ。ガミさんが指摘する前に、水穂さんずっとご飯を食べさせようにも、咳き込んで吐いてしまう状態が続いていて。」

杉ちゃんは正直に言った。

「まずそこをなんとかすべきだと思います。庭掃除をさせるのは、二の次で、まず、ご飯を食べることをしないと。」

「だったらどうして、いきなり庭掃除をしようと思ったのだろう。働かざるもの食うべからずとでも思ったんかなあ?」

あずささんに続いて杉ちゃんはすぐいった。するとあずささんは、

「ええ、これについては、あたしはよく経験しているのでよく分かるんですけど、日本でこの光景が見られるとは、少々びっくりしているのですが。」

と変な事を言い始めた。由紀子には少なくとも変な発言であった。

「あたしの国では、まだ食料は配給制の地域があって、あたしたちのむらもそうだったんです。例えば、子供さんがたくさんいるのに、お米が足りないとか、そういう家族がいっぱい居て。それで、一日三食食べるなんてとても無理な家庭もあって。ひどいときは、次の配給が来るまで、ごはんを食べられなかった人が大勢いました。そうなると、地面に落ちている小石をまんじゅうだと思って口に入れたりしてしまった人も中には居たんです。多分水穂さんが庭掃除をしだしたのも、それに近いのではないかと。」

確かにそうかも知れなかった。戦時中などでは食べ物を得られなくて、おかしくなってしまった人の話も聞いたことがあった。でも、水穂さんが同じ事をしていると由紀子は思えなかった。

「確かに、ガミさんの言うとおりだと思う。だって、いくら食べさせてもだめだもん。なんとかならないものかなあ。飲み込めないとか、そういう問題でも無いと思うんだよ。だって薬はちゃんと飲めるんだから。なんか食べ物を口に入れると罪悪感でも感じてしまうのだろうか?それは本人に聞かないとわかんないよ。」

杉ちゃんが言うとおりであった。それが水穂さんの抱えている最大の問題かもしれなかった。

「そうですね。医者に見せようにも、医者が見てくれないという問題もありますけどね。やっぱり、銘仙の着物を着ているというところから、どうしても、ああこの人はってなってしまうでしょうしね。そうなったら、なかなか受け入れてくれる病院も無いでしょう。せめて水穂さんが他の着物を着てくれたら良いのですが、本人はそのようなことは全くしないようですし。今の時代は解決済みという政治家も居るけれど、まだまだ銘仙というと、貧しいものが着るという定義を持ってる方もたくさんいらっしゃいますよ。」

ジョチさんがそういう通り、水穂さんの着ている着物にはそういう事情があった。明治とか大正時代だったら、きっと新平民と呼ばれてバカにされていただろう。銘仙とはそういうものだったから。

「それに、同和問題に理解がある医者を探す方が難しいと思うよ。やっぱり食べないのは、自分はそういうところの生まれだから、二度と愛されることもないってことを水穂さんが感じているからではないかな。それに、さっきみたいな、病院に行っても、見てもらえないとか、そういう人種差別が、いっぱいあるからな。」

杉ちゃんがそう言うと、隣で女性の泣き声がした。

「何を泣いているんだよ。」

泣いているのは由紀子である。

「由紀子さん泣いちゃいけないわよ。誰だって、どうにもならないことだってあるわ。あたしたちだって、そうだったのよ。だって、眼の前に病院があったとしても、診察を受けるどころか、帰ってくれって怒鳴られて当たり前だったのよ。それは、国家的にそうなっているからもう仕方ないじゃないの。水穂さんもそうじゃないかな?」

あずささんは由紀子をそう言って慰めたが、由紀子には何も通じず、

「だって、水穂さんの体のことを心配したのはあなたでしょ!」

と思わず言ってしまった。

「でも、どこの国だって、そういうふうに犠牲にならなければならない種族は大勢いますよ。もし、本気で治そうと思うんだったら、日本から出る必要があるでしょ。」

ジョチさんにそう言われて、由紀子は更に泣き出してしまった。そういうふうになっているのは理論ではわかる。だけど、由紀子は、それができなかった。もしかしたら、それはあずささんに比べると経験不足であるだけなのかもしれないが、由紀子は、結局、水穂さんが悪くなったと指摘されても、何もできないという結論に至ってしまわざるを得ないのが嫌だった。

「まあねえ。仕方ありませんよね。水穂さんの差別が改善されるということは、日本の歴史を変えないといけませんからね。それは僕たちにはできませんよ。どうして、水穂さんのような着物を着ている人が現れたのかは、いろんな説があるようですけど、でも、そういうことに結論付けなければならない事情があったのでしょうから。」

ジョチさんがそう言うと、

「理事長さんはもうどうにもならないとおっしゃるんですか。だって、今でこそ、ちゃんと治療法もあって、なんとかなる時代になったじゃないですか。それでも、水穂さんには、できないと言うのですか?」

由紀子は涙を拭くのを忘れていった。

「まあ、そうだけど、そうかも知れないけど、無理な人も居るんだよ。」

杉ちゃんがそう言うと、あずささんも、

「そうね。あたしたちと同じ。」

と、小さな声で言った。

「あたしも、そういう経験してるからわかる。医者に見せようにも、医者は漢族で、とてもあたしたちの事を親切に見てくれるような人じゃなかった。だから、きっと、普通の人なら、簡単に治るような病気でも、あたしたちは命取りだったこともあったわ。日本にはそのようなことはないって教えてもらったことはあったけど、どこの国でもあるのね。」

「なんとかならないというか、難しい問題ですね。」

ジョチさんとあずささんはそう言っているのであるが、

「まあ、しょうがないことはしょうがないとして、うまいもんができたから、みんなで食べようぜ。」

と、杉ちゃんがわざと明るく言った。

「とりあえず、シュトーレンを焼いたからよ。もうすぐ、クリスマスなんだし、シュトーレン食べて、元気つけよ。」

みんなは、杉ちゃんの言う通りにすることにした。だけど由紀子だけは、水穂さんのそばにいてやりたいと思った。あずささんが、由紀子さん食堂へいきましょうといったが、由紀子は私は行かないわとだけ言った。あずささんは心配そうに彼女を見ていたが、杉ちゃんに促されて部屋を出ていった。由紀子は、静かに眠っている水穂さんをずっと眺めながら、自分が何もできないことに、改めて涙を流してしまうところだった。

「由紀子さん、それほど水穂さんのことが好きなんですね。」

不意にそう言われて由紀子はまた顔をあげた。

製鉄所の利用者たちが、由紀子を見ていたのだった。

「あたしたちも、見ているだけで何もできないですけど、由紀子さんがしてあげたいと思っていることは、素敵だと思いますよ。」

本来だったら、なんで見ているだけなのよとか言って激怒するかもしれない。だけど、由紀子はその時はそうする気になれなかった。何故か、由紀子は、利用者たちに対して、ありがとうと言ってしまったのであった。由紀子は眠っている水穂さんの右手にそっと触れてみた。握ってやるしかできないのであった。でも彼の手を強く握ってあげた。


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杉ちゃんのシュトーレン 増田朋美 @masubuchi4996

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