幸せの残り滓

高間晴

幸せの残り滓

 とある休日の昼下がり。武装探偵社に勤める四人が揃って訪れた店はふわりと漂う、いい匂いに満ちていた。生クリームやチョコレート、バター、キャラメル、蜂蜜、それから果実や木の実などの様々なものが組み合わさった、甘い甘い、蕩けるような洋菓子の匂い。

「太宰さん、敦君。今日はボクとナオミに付き合わせてすンません」

 改めて谷崎がテーブルの向かいでぺこりと頭を下げる。敦は笑った。

「謝らないでください、谷崎さん。それにこういうの、僕憧れてたんです。逆にお礼を云いたいくらいですよ」

 ――今日のこの状況。その発端は、谷崎兄妹がお互いを驚かせようとした事から始まる。流石に兄妹ともなれば思考も似てくるのだろうか。二人はこの洋菓子店のケーキバイキング、そのカップル用ペアチケットを同じ日付でこっそり取ってしまった。そして当日の朝になって谷崎が意気揚々とナオミにチケットを見せた処、驚いたナオミも学生手帳に挟んでおいたチケットを取り出した。

 斯くしてペアチケットが二組――つまり四名分のケーキ食べ放題券が谷崎兄妹の間に現れた。このままではどちらか片方、二名分が無駄になる。それは余りに勿体ない。そこで思いついたのが頭の回転が速いナオミである。「敦さんと太宰さんを呼んでしまえば佳いのですわ」と。その二人が好い仲だと云うのは探偵社内では周知の事実。谷崎は敦に連絡を取り、太宰と共に呼び出したのが一時間程前になる。

 太宰は敦の隣で紅茶を一口飲んだ。正直な話、甘い物はそこまで好みではない。だが、電話をしてきた敦があんまり嬉しそうにするものだから、ついつい期待して来てしまった。

 ――まあ惚れてしまった弱みというやつだよね。

 考えつつ横目で隣の恋人を見やる。当の敦はナオミと一緒に、テーブルの上に四人それぞれが持ち寄ったケーキを眺めている。それはもう、うっとりとした顔で。

 甘いものの争奪戦が起こるような、厳しい孤児院で幼少期を過ごした敦。彼にとって、いま眼前に広がるのは本当に夢のような光景だろう。目がきらきらしている。

「ショートケーキ、ガトーショコラ、モンブラン……嗚呼、どれから食べよう……!」

「ナオミは、まず林檎のタルトにしますわ。

 ――兄様と太宰さんは如何なさいますの?」

「あっ、じゃあボクはとりあえずこのミルクレープで」

 そこで太宰は思案した。どれが一番胃にもたれないだろうか。

 太宰は基本的にどんな時でも食欲というものが無い。空腹だと感じることがほぼ無いのだ。以前までは一食抜くなんてのはざらで、食事を摂らない日すらあった。だが敦と付き合うようになってからは、なるべく一日三食食べさせられている。

「僕やっぱりショートケーキからいきます!」

 結局敦が白い生クリームに苺が乗ったケーキを選ぶ。それを見た太宰は心から嬉しくて、頬がゆるむのを止められない。

 太宰自身は食に興味ないが、幸せそうに食べる敦を見るのは大好きだ。頬いっぱいに食べ物を詰め込む彼の姿は、まるで人が愛玩動物を眺めるが如くに癒やされる。

 敦がケーキを一口頬張ってから太宰をちらりと横目で見る。

 ――そうか、私も選ばないと。

 雰囲気に飲まれて色んなケーキを取ってきたはいいけど、自分が食べるのはあまり想定していなかった。テーブルの上のケーキを見渡した太宰は、消去法で「チーズケーキにするよ」と宣言する。これならクリームもチョコレートも乗ってないし、そんなに甘くないだろう。胃への損害も少ない筈だ。

「あら、太宰さん。折角なのにそんな素っ気ないケーキで宜しいんですの?」

 ナオミがフォークを使って林檎のタルトを切りながら、小首を傾げる。長く艷やかな黒髪がさらりとその細い肩を滑った。

「嗚呼、私は甘い物がそんなに好きじゃなくてね」

 嘘は云っていない。

「そうでしたの。それではその分、敦さんに沢山食べて頂きませんとね」

 ナオミは微笑むと一口大に切ったタルトをフォークで刺す。そしてそれを隣の谷崎の口へ向けて差し出した。

「はい兄様、あーん?」

「ちょ、一寸ナオミ。そンなことしむぐッ」

 有無を言わさず口にタルトを突っ込まれた谷崎が、目を白黒させている。

 ――そうか、その手があったか。

 太宰は手元のチーズケーキをフォークで切り分けた。そしてショートケーキに夢中になっている敦の肩をつんつんと指先でつつく。反射的に振り返る敦。太宰はとっておきの甘い笑顔で、フォークに刺したチーズケーキを差し出す。

「敦君、あーん?」

 相当驚いたのか、「もごっ」と声にならない声が漏れ、顔が苺みたく朱に染まる。口の中のケーキを飲み込んでから、敦は照れて戸惑ったように太宰を見つめる。

「だ、太宰さんってば……」

「私は君が食べているのを見るのが好きなんだ。

 ――だから、ほら。口を開け給えよ?」

 にまにま笑いつつ少しフォークを揺らして急かすと、敦は観念して口を開けた。そこへチーズケーキを入れてやると、すぐにもぐもぐと敦はケーキを咀嚼して飲み込む。太宰は満足して目を細める。やはり彼が食べる姿は好ましい。

「……太宰さんもちゃんと食べてくださいね? ただでさえ食が細いんですから、もうこの際何でも食べられるものを食べてください」

 それを聞いて太宰は困ったなと苦笑いする。仕方なくチーズケーキを一口、口の中へ入れた。甘い――それが美味しいとは思えなかったが、なんとか飲み込んだ。ただただ食べ物が食道を通って胃へ落ちる感覚がする。それはやはり違和感となって太宰の腹の底へ蟠った。

 ――それから時はあっという間に過ぎた。ナオミはケーキを取ってきては自分で食べる前に、先ずは谷崎の口に半ば無理矢理入れる。敦はケーキ全種類を制覇する勢いで次々と幸せそうに食べる。太宰はそんな敦の横顔を見ながら、なんとかチーズケーキ一個を紅茶で胃に流し込んだ。

 六十分の制限時間が来て、四人はそれぞれ満足げな顔で店を出た。

「あ~、美味しかった……僕、ケーキはもう当分見たくないなぁ~」

「結局、敦君ってばケーキ全種食べたよね。幸せそうな顔しちゃって」

 太宰が笑顔で、敦の頬を指先でふにふにつつく。すると自分の腹をさすっていた敦はむすっと眉を顰めて「子供扱いしないでください」と云う。

 ナオミはそんな二人の様子を見て、うふふと愉しそうな笑みを浮かべる。それからしなだれかかるように谷崎の片腕に抱きついた。何時もの光景だ。

「喜んで貰えたなら何よりですわ。ねっ、兄様?」

「嗚呼、うん。でもボクもしばらく甘いものはいいや……」

 じゃあボク達はこれで、と谷崎兄妹とは店の前でそのまま別れることにした。

「谷崎君、ナオミちゃん。今日のお礼はまた今度するからね~」

 太宰はそう云いつつひらひらと手を振る。

 それから、折角だし敦と二人で雑貨屋でも覗いてから帰ろうかと決まったので、並んで歩き出す。

 歩きながら太宰が深く息を吸って吐くと、ふいに敦が訊いた。

「……太宰さん、大丈夫ですか?」

「え、何が?」

 実は先程から太宰には吐気が襲ってきている。だが、顔には出ていないと思っていた。

「なんか、顔色が良くない。……一寸休みます?」

 敦の手が伸びて、太宰の頬に触れた。触れる手のひらは優しく、やわらかく、温かい。やはり幼い頃から他人の顔色を窺って生きてきた彼は誤魔化しきれないのだろうか。

「――そうだね。少し何処かで休憩したいな」

 そこで太宰は妖艶な笑みを浮かべてみせる。

「何処か、邪魔が入らず二人きりになれる場所で」

 熱っぽい吐息混じりの言葉。その意味がわからない敦ではなかった。すぐに顔がまた熟れた苺みたいになる。

「ま、待ってください。この辺の――その、ホテル探しますからっ」

 全く、何時まで経っても初心な事だ。しかし、取り出した携帯を操作していたかと思えば、すぐに太宰の手を引いて歩き出す。それに従い、太宰は何でも無い風を装ってついて行く。

 歩いて数分で着いたのは、休憩コースがあるホテルだ。情事の為に特化した、その手の宿泊亭。

 部屋に入ると太宰は敦に向けて、シャワーを先に浴びるように言った。

「ほらほら、私だって準備しなきゃいけないんだから」

「わ、わかりました!」

 やがて浴室から水音がしてくるのを確認した太宰は、トイレへ入った。

 個室の鍵を閉めると、流れる動作で洋式便器の蓋を開けて床に膝をつく。便器の縁に手をかけると、すぐさま胃から熱いものがこみ上げてきた。先程食べたケーキと紅茶と胃液が混じったものが、胃から食道を逆流してくる。それは口から出ていく端から溜まった水面に当たって、びちゃびちゃと汚らしい音を立てる。何度か嘔吐いて一通り吐き出せば太宰は楽になり、やっと一息つけた。

 さっき云った『準備』なんてのは方便だ。そんなの、敦と出かけると決まった時点で済ませている。

 便器の水の中に浮かぶ吐瀉物。吐き出されたそれはぐちゃぐちゃの焦げ茶色で、舌に残る味は苦くて酸っぱかった。

 可笑しいなあ。さっきはあんなに甘かったのに。

 でもチーズケーキを選んでおいて佳かった。他の物よりは幾分か吐いたものの見た目がましだ。

 敦と一緒に食事をした後、こうして太宰が食べた物を隠れてトイレで戻すというのはよくある。重要なのは敦がそれを知らないでいる事だ。太宰にとって吐くという行為は最早慣れたものであり、さしたる苦痛ではない。ただこの事実を敦に言えない罪悪感だけは消せずに残っている。

 口許を拭いながら、レバーを回して水を流す。

 ――ばいばい。ちゃんと食べてあげられなくてごめんね。

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幸せの残り滓 高間晴 @hal483

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