第2話 悪四郎

 烏森という村に悪四郎という少年がいた。その男の家は代々傘屋をやっていた。ご先祖から改良され続けた雨を良くはじく傘は評判で、里で他に傘を作る者はいなかった。母は死んで兄弟は無く、父と二人だけで骨、傘を分担し紙はよそから仕入れて染めていた。日ごろ使える安価なものから、大名用の高価なものまで、すべて蛇の目だったが土地に由来して黒で染めた。日照りの多いこの地では、日傘としても、雨を祈る祭具としても重宝された。祭具としての傘は絹を無垢仕立てにしたもので、他の絹傘に比べて透けにくい。染め方も紙の時と違って、山の中腹から汲んだ水に、一晩だけ沈めたあと、夜叉五倍子で染める。骨から仕上げまで、一貫して一人の職人が作らねばならないので、熟練した者だけに役目が下りた。唯一の後継の悪四郎は、この傘のために父から技を叩きこまれて育ち、今年で十四になった。


 悪四郎は黒染めの夜叉五倍子を探しに山へ入った。生まれた時から体の弱い悪四郎にとって荒れた山道は堪えたが、澄んだ空気は村よりも息がしやすかった。悪路を休み休み登り、目的の実を順調に手に入れていると、どこかから獣の鳴き声が聞こえた。咄嗟に身構えたが猫のような高く細い声をしている。耳を澄ませているとどうやら近いらしいことが分かった。悪四郎は声の元を辿り、山の中腹の川のそばに生まれて間もない赤ん坊がいるのを見つけた。慌てて抱き上げると、赤ん坊は目を開けて泣き止んだ。柿染めのような髪と目をしていた。花染めの包みの隙間から、黒く染まった指にイモリが這った。通り雨が降っていた。


 烏森には稀に山から下りてくる者があった。身寄りのない年頃の娘たちは竜の化身として大事に育てられ、祭具を山の上の社へ召し上げる役割を担った。どの娘も白無垢を着ていたが、献上の際には、黒く染めた。役目を終えると、村の長である烏森家に娶られた。

悪四郎は赤ん坊を連れ帰り、父に話した。瞳の色はどうしようもないが、髪を黒く染めた。村の者には捨て子を養子に迎えると話した。子は悟と名付けられた。悟を拾ってから、村は雨に困らなくなった。悪四郎は紙の傘ばかり作ることになった。

 悟は十五になった。体力のあまりない悪四郎の代わりに、悟は山を登った。傘を染める草花や実を山ほど集めて来た。ある日悟は山から着物を拾って来た。天衣無縫の白無垢だった。


 悟が大きくなるにつれて、雨はだんだんと降らなくなっていた。烏森家の嫁が傘を献上しても、雨は降ってこなかった。村は弱っていた。悪四郎は心がざわつくのを感じた。悟にその気が無くとも、妻にしたいと思っていた。もしもこれを、お歯黒に染めたら。悪四郎は桶を抱えて寝床を抜け出し、白無垢を山の中腹にある川の水に浸した。桶の澄んだ水面で、繰り返し白無垢を侵した。指先から血管を伝って全身の体温が奪われていく心地がした。翌朝家に帰り、悟に着物から傘を作ると話した。悟は喜んで、役目が来たんだと笑って見せた。

 一日、また一日と染めを繰り返し、新月の晩に濡羽のような黒無垢が完成した。悟を薬で眠らせ、黒無垢を着せた。父親の肩を借りて三人で山に登った。池の淵で黒無垢を暴き、悪四郎は不義の男と成り果てた。闇の中で、悟の黒染めの髪に触れる男の指先から、夜叉五倍子の黒が広がったように見えた。悪四郎の骨の浮いた首に悟の爪が食い込み、もつれるようにして眼下の池へと吸い込まれる。竜もかくや、悟の目は黄泉の水面のように澄んでいた。

 数日後村に現れた父親は、脚や肩に墨で染めたような痣が広がっており、一週間も経たぬうちに全身を痣に飲まれて死んだ。池を穢した祟りとして、山の中腹に結界の鳥居が建てられた。黒蛇の目は災いを呼ぶと噂され、地元の者には忌避されたが、外の一部の行商人の間で、雷を呼ぶ雨乞いの呪具として、絹傘は特に高値で取り引きされた。

 行商人の旅話に、竜坐岳での心中の逸話が残っている。麓の村の傘職人は、山から降りて来た竜の化身と恋に落ちるが、村には化身の娘を土地の長へ嫁がせるしきたりがあった。心を病んだ二人は、来世を願って池へと身を投げたが、竜神は花嫁を取り上げられたことに怒り、黒蛇の目は雷の標的となったという。

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