竜坐岳
@sarabae
第1話 竜坐岳
子どもが迷い込んできた。おそらく里の子であるが赤い着物を着ている。慣習であれば船に浮かべられるのであるが、ここ最近の日照りで作る金がなかったのかもしれない。花染めの布は里の立派な産業であるが、地元の者は着用しない。名と歳を尋ねると悟、七つであることが分かった。名も見た目も男児かと思われたが人身御供であることをみるとおそらく女児であろう、男のような名前だなというと死んだ双子の兄の名前だということだった。頭髪や目の色素が薄く、双子であるとくれば随分な苦労が想像されたが、子供相応の楽観的無表情、鷹揚さの感じられる甘くずうずうしそうな顔立ちをしていた。今までであれば山の背を渡らせ離れた里へ流すのが常であったが、悟の歳では山で野垂れ死んでしまうだろうし、里に返せばどうなるかは目に見えている。本音の前に建前が並び立つ。実際はもっと単純で、目の前の子どもは過去のどの人身御供とも違う。真っ白に澄んだ白目は水面のような清らかさを、瞳と瞳孔は琥珀に沈む死骸のような引力となつかしさをたたえていた。
見ていたい。悟は今日からわたしの子どもになった。
山の中腹の鳥居から悟の手を引き二合ほど登り、池のふもとまで下る。子どもの体力を侮ってはいけないのか、貧しい暮らしで鍛え上げられているのか、悟の脚はずいぶんな健脚だった。池で体を清めてやり、元の着物を着せる。途中腹に痣を見つけて問うと、鳥居で蛇に巻かれたといっていた。わたしにもある。おそらくほかの雨乞いにはなかった。悟と一緒に備えられた着物もあったが、背格好にも年齢にも不相応な無垢仕立てであったため、社の奥にしまい込んだ。着替えは古いものを着てもらうしかない。名前を聞かれたので覚えて無いと正直に答えると、霞という名前をくれた。鳥居の霞の向こうから現れたからだそうだ。里の者は竜神様とか呼ぶよといったが私にとっては恩人だから、私の霞さんがいいといった。悟は無表情だし大人びた話し方をするけど、純粋で温かい子どもだった。
山で採れる山菜や池の魚を食べさせた。悟は並の者と比べて狩りに秀でており、社にあってわたしが拝借していた弓をかすと、すぐに鳥を狩れるようになった。淡々としているようで好奇心が強く、鹿や猪を狩りたいと言い出したので止めておいた。そのうち罠から教えなくてはいけない。鳥や魚を軽々ととらえる竜の子は、まさしく天狗のようだった。
子供の成長は早い。悟は十二になり、近頃こことわたしのことについて尋ねられるようになった。竜坐岳はその頂上に池を抱えている。池には竜がいて祈りをささげると雨を降らせてくれる。わたしははるか昔に人身御供としてここに召しあげられ、里にはきちんと雨が降った。今着ている白い着物と赤い襦袢は、悟と同じものである。わたしの前にも人身御供はいたらしいが、今の悟のように先人に出会うことはなかった。先人のときもきっと雨は降ったのだろう。わたしはお礼の品としてたくさんの花染めの着物を船に携えて行った。悟が雨はまだ降らないのかなと言った。悟の着物は白無垢だけで、里の衰退が窺われた。里も山の霊験も、変わってしまった。
悟が、自分が引き取られた当時なぜ子供の服があったのかと尋ねてきた。花嫁道具として船に積まされたものだった。すぐに着られる状態だったのは、わたしが時折洗濯していたからだった。輿入れの際、わたしの腹には子どもがいた。池に沈んだ時に子どもは死に、わたしだけが竜坐についた。日に干して温かくなった着物を膝に抱いていると、心に日が差すようだった。悟をもらった日、社の引き出しを開けた時、役目が来たと思った。里の誰も籠女とは知らなかった。竜神は怒り、里には大雨によって洪水と地崩れが起こった。人々は山の中腹に鳥居を建て、神域へ入らなくなった。
悟には、昔は今より花嫁道具が豪華だったんだよ、ときかせた。
悟が十五になった。大きくなっても顔立ちはそう変わらず、特段女らしくはないどっちつかずな、けれどまどろんだような、甘い顔をしている。お前は身体はでかくなっても変わらないね、というと霞さんもねと言われた。わたしは置いておいて、悟は人間の時間の経過を疑わせる見目をしている。この子の兄も、似たような顔をしていたのだろうか。無神経かと思いつつ、兄の名をもらう前の名前を問うと、無いといわれた。霞さんと同じ、だそうだ。
悟が山から帰ってこない。探しに行くと、悟と同じ年の頃の少年が、悟と何やら揉めている。心がざわついた。悟は鳥居を挟んで突っ立ている。話を聞くと、少年は悟の同郷で、狩りに来ていたところ神域に人がいるのを見つけて声をかけたらしい。みると昔一緒に遊んでいた、雨乞いとなった子どもだったのでひどく混乱したらしい。もともと信心が薄いのか、与えられない恵みに見切りをつけたのか、生きてるなら里に帰ってこいとわめいている。竜神だなんだと人を殺して空しいばかりだ、昔と違って今なら守ってやれると説いている。少年が悟るの腕を掴んだ時、空が光った。光ると同時に空が鳴った。少年が怯んだ隙に悟を奪い走る。雨が瞬く間に悟と私を隠した。体を貫く怒りに稲妻が応えるようだった。肌がざわつくのを感じる。私は竜の嫁なのだ。
社まで登った。眼下に広がる池の景色に里のざわめく景色が重なる。先ほどの少年が見える。少年の話を聞く男の顔に困惑、すぐに驚きの色が浮かぶ。父親だろうか、目元がよく似ている。人を助けることを厭わない、勇敢な目だ。灯りを携え、山へ登ってくる。神域を超える。天も地も無くなる。竜が雲の上でのたうっている。悟は私の震える肩を後ろから抱きしめ、どこにも行かないからと説いている。悟の手を手を重ねると、髪に顔を埋め、擦り付いてくる。背中に感じる悟の体温が、やけに熱く感じる。悟が私の鬣に指を絡める。
「帰ろう、霞さん」
私はまた子の命を願った。
体を刺す水の冷たさを、懐かしいと思った。
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まだ冷たかったけど、霞さんに会いに池に潜った。私は竜坐についた。水面が上昇し、山は溢れて里は洪水と地崩れにあった。
私は赤ん坊の頃、この山で狩りの親子に拾われた。色の薄い髪に歯が生えていたそうで、拾ってくれた親子以外の里の者は鬼子だと噂した。石も投げられたし人身御供の白羽の矢は当然の如く私に立った。理不尽だとは思ったが、里よりも山が自分の居場所だと感じていたので辛くはなかった。
鳥居で蛇を見た時、夢に見た蛇だと思った。夢の中では竜だったり鰻のような姿だったりしたが、私の中では全部同じ存在だった。霞さんには少し嘘をついた。腹の痣は生まれつきだったし、双子の兄は実際には生まれていない。霞さんを初めて見た時、この人が母だと思った。
池には今蛇の死骸が沈んでいる。腐敗した死骸ではなく脱皮した後の抜け殻のように柔らかい、臍の緒のような鱗だ。腹のあたりに子どもの歯と髪が見える。
竜は妻が孕んだ不義の子を許さなかった。女の私だけを生かした。腹には印がある。絡まった臍の緒のような、這う蛇のような。
女として人間として、どっちつかずでいる。
けれど今は、母と同じ花染めの襦袢と白無垢を着ている。
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