第1話: なお、足元はガチで見えない



 ──フッ、と。



 意識を取り戻した彼が、最初に感じたのは……肉体があるという強烈な違和感だった。


 息をする、しなければ息苦しく、息をすれば軽くなる。


 身体に感じ冷たさ、温かさ、それら全てが、新鮮に感じる。



 どくん、どくん、どくん、と。



 心臓の鼓動を感じる。鼓動に合わせて生み出された血流が、全身に熱を届けてくれる。


 己は、目を瞑っている。


 なにかに背中を預ける形になっているのだということを、瞑った真っ暗な視界の中で認識する。


 音が聞こえる、風の音だ。


 穏やかだと分かる涼しげな風が、身体を撫でてゆく。なんとなく、己は外に居るのでは……そんな予感が脳裏を過る。


 息をする、身体が軽くなる。大きく息を吸えば、口から入った活力が、血流に乗って運ばれていくのが分かる。


 短い期間とはいえ、肉体を失い幽体として活動していたからだろう。


 幽体には、暑さも寒さも無い。風を感じる事はなく、体温も無い。痛みも無く、肉体があるゆえの苦痛の一切が存在しない。


 己そのものが空気になっているかのように、あらゆる感覚が遠く……けれども、幽体であった時、その事にはまったく違和感を覚えなかった。


 だからこそ……生きている、心臓が鼓動しているという実感が妙に生々しくも新鮮で、目を開けるまで……しばしの時間を必要とした。



「……ここは?」



 そうして、目を開けた彼は……いや、違った。



「これ……ああ、そうか、そうだったな」



 彼女が驚いたのは、一瞬だけ。


 何気なく、視界の下側を占領する膨らみに軽く目を見開いた彼女だが、事前の説明通りである事を思い出し……フッと冷静になった。



(……寝間着っぽい恰好だな。ネグリジェ、というやつなのかな?)



 モデルの通りなのかはまだ、判断出来かねない。


 だが、確認のために股に手をやれば、なんの手応えもなかったので……彼女は今の己が女であることを理解した。



 ……戸惑いが無いかと言えば、嘘になる。



 有るはずの感覚が無くて、替わりにそこに……そう、穴が空いているのが分かり……そこに違和感を覚えないかと言えば、嘘になる。


 というか、そこだけではない。


 ある意味、股の違和感よりも直接的な、男の時にはなかった胸の膨らみと、それに連なる重量感。


 ずっと前に何かの番組で、巨乳の人は肩にペットボトルを2本、肩から掛けているのと同じ状態……というのを見た覚えがある。


 実際のところは不明だが、確かに、重い。


 背を預けている木々から身体を起こすだけで、その重量を感じ取る事が出来る。というか、胸がつかえて身体を起こし辛い。



(……うわっ、でっか)



 何気なく胸元を引っ張って中を確認。みっちりと詰まった二つの膨らみを見て、自分の身体だと思うと何だか有難みも半減だな……と、ちょっと思う。


 いちおう、ちゃんと実物を見た瞬間は、ちょっとドキッとした。


 なにせ、デカい。何気なくネグリジェを摘まんだ指先の細さを考慮しても、片方だけで両手ですらはみ出るぐらいには大きい。


 そんな異性の象徴がドカッと露わになれば、少しぐらい動揺しても仕方がないだろう。


 でも、それだけだ。


 だって、その巨大な二つの膨らみが搭載されているのは、己だ。とりあえず、それだけで彼女……いや、彼にとっては魅力半減であった。



 ……で、だ。



 深い谷間から視線を外した彼女は、よっこらせと身体を起こし、少しふらつきながらも立ち上がる。


 何時までも、自分のππを見てあ~だこ~だ考えている暇も余裕もない。なるほど、肩が凝るわけだと胸の揺れを実感しつつ、彼女は軽く息を吐いた。



 次いで、当たりを見回す。


 周囲にあるのは……緑色の自然ばかりだ。



 どこを見ても生い茂る木々しか見えない。唯一の例外は、少しばかり離れた場所にポツンと建っている……木造の家であった。


 いわゆる、ログハウスというやつだろうか。パッと見た限りでは真新しく、つい先程完成したと思ってしまうぐらいに艶やかだ。


 周囲が自然しかないおかげか、妙にこの場の雰囲気とマッチしている。場所が場所なら、お洒落な飲食店としても活用出来るのでは……と思わせる外観をしていた。



 ──誰か住んで……いや、誰かの敷地に勝手に入ってしまったかもしれない。



 そんな予感をハッと覚え──直後、彼女は安堵のため息を零した。


 どうしてかと言えば、そのログハウスの入口の傍。


 そこに、デカデカと大きな看板が設置されており、看板には先ほど顔を合わせた自称女神の写真が張りつけられていたから。


 しかも、写真の中の女神は満面の笑みを浮かべており、金槌を片手に『私が建てました』と日本語でアピールすらしていた。



 ……説明されなくても分かる。ああ、あの家は女神様が用意してくれたのだろう、と。



 さすがに、この状況でアレは別荘だから使わせるつもりはないなんて事はないだろう。


 わざわざ、万が一を考えてこの身体を作ってくれたぐらいに優しい神様だ……ここは有りがたく、使わせていただこう。




 ……それはそれとして、あの女神様、独特なセンスがあるな。




 そんな感想を抱きつつ、彼女は……男だった時とは異なる重心の変化に戸惑いつつ、ログハウスへと向かった。







 ……そうして、中に入って室内を確認した彼女は……外観とは裏腹に、生活するために必要となる設備が一通り整っている事に、二度目の安堵を零した。


 内装は、部屋が四つ。


 寝室に当たる部屋と、物置と思われる部屋と、リビング兼ダイニングとして使用すると思われる大きめな部屋と、浴室とトイレが一緒になっているユニットバスの部屋。



 例えは悪いが、上から見れば下が出入り口となっている、漢字の『田(歪な形)』が近しい感じだろうか。



 大きな部屋には、併設する形でキッチン(竈? だと思う)があり、各部屋(ユニットバスや寝室)へは扉が設置され、別にされている。


 ログハウスの中には家具を始めとした道具一式が用意されていて、ひとまず、今すぐ必要になるといった問題は起きなさそうだ。



 外はまだ確認していないが、ガラス窓より見える家の裏手には、井戸と思わしき設備もあり、小屋も設置されていた。



 タンスには己のモノと思われる衣服類がぎっしり。当然と言われたらそれまでだが、衣服もそうだが、女物のブラジャーや下着しかなかった。


 これからは、こういうモノを着なければならないのだろうか……たぶん、着ないと生活をするうえで不便なのだろう。


 物置と思われる部屋には、大量の木箱の他に、25kgの紙袋がギッシリと詰め込まれている。



 木箱の中は……大量の物資だ。


 なにやら、見覚えのある……具体的には、メーカー品。



 ファンタジー世界には似つかわしくない現代の商品がギッシリと詰め込まれおり、物置にある物だけで1年以上は生活出来そうなぐらいであった。


 ちなみに、紙袋の中は米と小麦粉が半々だ。


 小麦粉を使った料理をした経験はないが、これからはそんな事も言っていられない。使える食材は何でも調理できるようになるべきだろう。


 幸いなのは、どちらも天井に届かんばかりに大量に山積みされており、これも他の物資と同じく、腐りさえしなければ、1年以上は持ちそうなぐらいなところだろう。



 ……言い換えれば、己で生きていけるよう自給自足の目途を立てる必要があるわけだが。



 とはいえ、本当に身一つで放り出されているわけではないから、これで泣き言をこぼすわけにもいかない。


 かまどを使った経験はないが、いちおうは見ただけでだいたいの使い方は想像出来る。サブカルチャー、バンザイだ。


 実体験としては、幼い頃にキャンプをした経験があるだけ……でも、その頼りない記憶を頼りにやるしかあるまい。


 ちなみに、家電は全く無かった。


 まあ、こんな場所で家電が有ったところで、電気が通っていない以上は漬物石以下の扱いにしかならなさそうだし……で、だ。



「スターターパック……って、これ?」



 寝室のベッドの上に置かれていた、表紙に『スターターパック』と書かれた一冊のノート。


 見た目は、いわゆる大学ノートというやつか。


 やっぱり女神様のセンスって独特だなと思いつつ、彼女はペラリと中を開いた──瞬間。



「──ぎっ!? ごっ!?」



 ナニカ……いや、違う。



 記録媒体にデータを書き込むように、膨大な情報が己の頭に書き込まれていくのを知覚した。


 それ自体に、痛みは無い。しかし、違和感が強烈だ。


 まるで、脳の裏側をゴリゴリ爪で擦られるかのような……グルングルンと明暗する視界に、彼女は思わずベッドに両手を付いた。



 ……そうして、時間にして数分後。



 今しがたの違和感など初めから無かったかのように体調が回復した彼女は……己の状態を改めて認識すると同時に、深々と安堵のため息を吐いた。


 いったいどうして……それは、『スターターパック』と呼ばれたノートの正体が、己に備わった身体の使い方を習得させる道具だったからだ。



「……火よ」



 つまり……彼女が立てた指先にて小さく灯る、炎。


 そう、これこそが、この身体の能力の一つ。


 女神の権能……と呼ぶにはおこがましい程に何もかもがスケールダウンされてはいるが、本当の意味での魔法……である。


 しかも、『スターターパック』には知識や技術も含まれていた。


 例えば、釣りのやり方、狩りのやり方、生肉などの処理、様々な薬草の知識、等々など……本当に、多岐に渡る知識もセットであった。



「……良かった。うん、これなら、この先も生きていけそうだ」



 心から……今日だけで何度目になるか分からない、安堵のため息を零した彼女は。



「ありがとう、女神様……せめてものお礼として、祈らせてください。本当に、ありがとうございます」



 心からの感謝と共に……手を合わせ、深々と祈るのであった。






 ……。



 ……。



 …………それからの日々は、特に大きな出来事もなく平穏で……いちおう言っておくが、本当に何も起こらなかったわけではない。



 むしろ、小さなトラブルというか、取るに足らない問題は多々起こった。



 その中でも最も頻繁に起こったのが、男女の身体の違い……女体の感覚の違い、その感覚に慣れない事からくるトラブルであった。


 いちおう、『スターターパック』で頭では理解していた。



 しかし、頭で理解しているからといって、身体は全く慣れていない。



 例えるなら、取扱説明書はしっかり頭に入れてきているけど、実機に触るのが初めてのプレイヤー……といった感じだろうか。


 何気ない動作の一つ一つが、ああ今の己は女なのだなと理解させられ、その度に、いやいや男の時の感覚でやっては駄目だと反省させられる。



 特に強く認識させられたのは……入浴の時だろう。



 最初の頃は、鏡に映っている己の姿を中々直視できず、目を逸らしてしまう事が多かった。


 興奮するとかしないとかではなく、単純に、女神より与えてもらった身体が……あまりに女性的過ぎた。



 なにせ、胸がデカい。腰は細く、尻に至っては胸よりも大きい。



 そりゃあもう、男だった時よりも一回り小さいとはいえ、片方の乳房ですら、両手を使ったとしても少し余ってしまうぐらいに大きいのだ。


 おまけに、顔も美人だ。ただ、気になるのは閉じられたままの両目だろう。


 目を閉じているはずなのに、バッチリと前は見えている。


 鏡で確認すれば、目は閉じたまま……なのに、閉じている己の顔を、周囲全てを、何一つ遮られることなく確認する事が出来た。


 傍から見れば目を瞑っているように見えるのは、仕様なのかバグ(?)なのか……まあ、気になるのはそれぐらいであった。


 そう、気になるのがそれぐらい……それぐらいだから、目立つ女体に注意が行ってしまい、自分の身体だと分かってはいても気恥ずかしかったのだ。



 まあ……それも、一ヶ月も経つ頃には慣れたが。



 やっぱり、いくら美人の女体とはいえ、自分の身体ともなると認識が変わるのだろう。


 最初の頃は鏡を見る度ドキッと目を逸らしていたが、三ヶ月目には、乳が邪魔をして床に置きっぱなしになった道具に小指をぶつけた時、舌打ちしたぐらいには慣れた。



 後はまあ、アレだ。



 女神様が厚意で用意してくれた身体を、何時までもみっともなく恥ずかしがっては失礼だと思ったからで、むしろ誇るべきだと発想を変えたのが良かったのかもしれない。



 他には、まあ、畑を作ったり、動物を狩ったり、本当に色々と手を出した事からくる、小さいトラブルだ。



 『スターターパック』には、どうもそこらへんの知識や技術も含まれていたようで、手間取ることはあっても、まったく分からないなんてことはなかった。


 言い換えれば、その手間取るという部分がまあ、大変なわけだが……それもまあ、魔法でだいたい解決出来たから、取るに足らない問題なわけだけれども。



 ……。



 ……。



 …………そうして、だ。



 第二の人生が始まってから、半年後。



「今日も私に美味しい食事をお与えくださり、ありがとうございました。それでは、今日も行ってまいります」



 身体にも生活にも慣れた彼女は、何時ものように、魔法を駆使して手作りした女神像に祈りを捧げ……その日もまた、カゴを片手に、日課の作業へと向かうのであった。




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