第6話 水鏡
水鏡を覗き込んだ私の脳裏に浮かんだのは、この光景を知っているという既視感だった。
どこで、いつ見たんだっけ……。
でも、知っている。
「最初は、何かがおかしいということだけでした」
風邪ではない何らかの病が、この地・ラフレシアを覆ったのはほんの数年前のこと。
ただ、人々の症状は多岐にわたっていた。
頭痛を訴える者、四肢に異常が出る者、呼吸器に障害が生じる者、皮膚疾患に精神の異常。
「これらが、同じ病の仕業だと気付くまでに要した時間は……多大なものでした」
水鏡に映る、ヨーロッパの片田舎に似た平穏な街並みが一変していく。
病なんてどこにでもある。誰にでも起こり得る。
身体の中に起きた異常は、通常くるくると回る正常な歯車達によって除去されていく。
それは細胞だったり、身体の機能だったり。
癒すための能力によって、大なり小なりの反応を生じながらも回復へと導こうとする。
けれど、もしそれらが全て狂ってしまったとしたら?
そこに、おびただしい人の最期が映し出されて、胸がぎゅっと詰まる。
暗い影のフィルターを落とし込んだような凄惨な光景。
言葉にするのもためらわれるような、人との繋がりが切れていく瞬間。
自分の鼓動が大きく響いて、周りの音が遠ざかっていく。
これは、この地で起きたこと?
それとも、私達のいた世界でのこと?
そう、私は知っている。
私達の母親を失ったあの日を、忘れるわけがない。
人々の絶望に、自分の姿が重なって上手く呼吸ができない。
「あ……」
やっと零した声に涙が滲んだ瞬間、大きな水音と共に映像は掻き消えた。
「……これは、今も?」
「真、羽」
ぐっと強く私の手を握った真羽は、水鏡に片手を突っ込んだまま眉根を寄せていた。
「いえ。今は、もう」
クレアは静かに首を横に振った。
水で出来た美しい髪が左右に揺らぐ。
私はようやく大きな息を吐いた。
「大丈夫か」
「うん。ごめん……」
「気にすんな」
あれから何年も経っているのに、まるで昨日のことのようだ。
冷たくなっていた指先に、真羽の体温が馴染んでいく。
「この地に医者は?」
「もちろんおります。けれど、当時……魔力を用いたスキャンには一切反映されず、原因は分からないまま人々だけが失われていきました」
「魔力……」
馴染みのない言葉が、クレア達の日常にあることを実感する。
彼女の存在や、さっきのティータイムでそれは目の当たりにしているけれど、魔力や魔法が存在する世界。
そんなところに、今私達は来ていた。
「ラフレシアは忌むべき地として中央の権力からも切り離され、衰退の一路を辿っております」
「じゃあ、ススーの一族も……」
「ううん、ボクらは別件。無関係じゃないけど」
ススーはテーブルの上に足を投げ出すように座ったまま、私を見上げる。
「ボクら妖精が、何を食べて生きてるか知ってる?」
人が大勢いなくなったこの地で、食料に困ったってこと? 一族が絶滅に瀕するほどに?
大きく首を傾げると、隣で真羽が目を見開いた。
「……お前、まさか!」
「マハネ、今すっごい失礼なこと考えたでしょ。食べないよ、人は」
ばっさりと言い切るススーに、ほっと息を零す真羽。
思ってたよりも恐ろしい発想だった。
でも、まあ、そういう思考に至るのも……真羽なら分からないでもない、かな。
「じゃあ、何食ってんだよ。人が作る野菜か? それとも花の蜜?」
「虫じゃないんだけどな、ボク」
不本意そうに頬を膨らます姿が可愛くて、思わずその頬をつんと突くと、不意打ちだったのかススーは驚いたように私を見つめた。
「花ならここにいっぱい咲いてるんだし、違うよね」
「あ。ここの花は、全部ボクの一族だよ」
「……え?」
何でもないことのように伝えられた事実に、頭が一瞬真っ白になる。
「もう妖精の形を保ってられなかったんだ。メタモルフォーゼって言えば伝わるかな」
「……え?」
何を言われているかは分かるけれど、何をどう処理していいか分からない。
さあーっと渡っていく穏やかな風に、淡い花々が一斉に揺らぐ。
この泉のほとりを埋め尽くす小花が、全部? ススーの仲間? 全部?
「でも。生きてる。まだ、生きてるんだ」
ススーは大きなアメジストの瞳に花々を映す。
その感情をどう受け取ったらいいんだろう。
踏まないで欲しいって、そういう意味だったの?
「そんな……」
零した声は、ひどく小さく掠れる。
「え、アエル!?」
驚いたように大きく見開いたススーの瞳には、涙を溢れさせた私が映っていた。
「な、泣かないで! え、どしよ、クレア! マ、マハネ!」
動揺する妖精は、しょげたように羽を下げて、思わず真羽にまで助けを求める。
「はいはい。泣くな泣くな」
「あ。やっぱ、何かむかつく。クレア!」
通常運転で私をなだめる真羽に、ススーは何だか忙しい。
「逢の涙腺は、蛇口みたいなもんだから気にすんな」
「何その分かってる感!」
悔しがるススーを見ていたら、何だか唇が弧を描いてしまう。
すると、ススーの羽もふわりと持ち上がっていく。
辛いのは自分じゃない。
けれど、どうしてか……止められない想いが時々顔を覗かせてしまう。
「優しいんですね、アエルは」
そっと私の手を包み込むように触れたのは、クレアだった。
何故だろう、冷たいだろうと思ってしまっていた体温はそこにあって、柔らかな温度に包まれる。
それは、とても心地よく癒してくれるような感覚で……。
「人の慰め方が、いまいち分からずにごめんなさい」
「ううん。私こそ、泣くつもりなかったのに……ごめんね」
はにかんで伝えると、クレアは美しい微笑みを返してくれる。
「これは、マハネ様に教わっておかなければですね!」
あ。何だろう。もう好き、この子。
ファイトだよ、クレア!
思わず笑顔を覗かせた私に、ススーは心底ほっとしたように息を吐く。
そして、ふわりと舞い上がると、鼻先の高さでじっと私を見つめて…─
「よかったあ、泣き止んでくれて。ボクまで泣きそうになっちゃったよ」
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