第5話 34歳
「アエル、あなたに感謝いたします」
美しい泉に一滴の波紋を広げたように、澄んだ声音が届けられる。
はわ~、何て、何て、綺麗な声なんだろう。
まるで鈴を震わせたような。
あれだ、前に神社で買った水琴鈴のお守りみたいな……。
思わず言葉を失っていると、ススーが私の顔を覗き込んだ。
「アエル?」
「あ、ごめん……あまりに綺麗な声だったから」
「クレアは、精霊だからね」
精霊。女神じゃなくて精霊か……。どっちにしても、初めて見た。
妖精も初めて見たけれど。
「ススーを助けてくださったとお聞きしました。本当に、ありがとうございます」
「あ、ススーを助けたのは、真羽です!」
真羽を振り返ると、双子の片割れは小刻みに首を横に振った。
「や、俺は何もしてないが?」
「したよ。咄嗟に保護したのは真羽だもん」
クレアというその精霊は、私達を穏やかな眼差しで見つめて、にっこりと微笑んだ。
「お二人の優しさに救われたのですね、幸せな子。ススーは
……最後の?
同じところが引っかかったらしく、真羽が横目に私を映す。
会話がなくても、真羽が何を言いたいのかは分かる。
「この子が現れて35年、ラフレシアの妖精族は年々減って、ススーが最後。どうにかしてあげたいと願っても、糧になる要も見つからず……」
「ちょ、待ーっ!」
突然の情報過多だけど!
今一番気になるところっ!
「35? 35って言いました!?」
「お前、35歳なの!?!?」
真羽と二人で詰め寄ると、ススーは大きな瞳を和らげる。
「やだな、クレア。ボク、まだ34だよ?」
「あら、ごめんなさい」
「そこの1歳は変わんねえよ!」
この愛らしい妖精……、随分と、お兄さんだった件。
信じられない気持ちで見つめていると、ススーはにっこりと笑った。
「ボクらの寿命は大体200歳だから、まだまだヒヨッコだよ」
「ざっくり100歳換算して、17か……」
「あ。それならちょっと納得かも」
即座に計算する真羽に頷いていると、少し気持ちを落ち着けた真羽がクレアに尋ねる。
「改めて、真羽と申します。さっき、ラフレシアと仰ってたが、この地の話……もう少し聞いても?」
「ええ、ええ! 何でもお聞きください。私のことは、クレアとお呼びください」
胸に手を当てて、嬉々とした表情を浮かべるクレア。
あれ? この感覚……知ってる。
元の姿の時もそうだった。
真羽は、無自覚イケメン。自分ではそう思ってないらしいんだけど、やたらとモテる。
理由は分かる。優しいし、頭いいし、落ち着いてるかと思えば面白いし、何ていうか……人たらしだし?
女子だけでなく同性からも人気があるタイプ。
でも、精霊の目にも良と映るとは思っていなかった。
「では、お茶の用意をいたしますね」
「お茶?」
目を瞬いている間に、泉の水面が急速に盛り上がり、水で出来たテーブルに椅子、ティーセットが突如出現する。
「何でもありだな」
「マハネ様は、ハーブティーはお好きですか?」
おおう、様呼びだあ!
思わず隣でキャッキャしそうになると、てしっと額に手刀が落ちてきた。
「何考えてんのか、分かるんだけど」
「いや、流石だなあと思って」
そんなやり取りをしていれば、上機嫌で美しいハミングを奏でるクレアがポットを持ち上げる。
瞬間、中に入っているであろう水がじゅわっとお湯に変わる音がした。
「怒らせない方が、よさそうだな」
「同感」
マハネと一緒に、硬化した水で出来たテーブルにとりあえず着く。
美しい造形の透明な茶器に注がれるのは、淡い色のついた涼やかな香りのするハーブティー。
「あれ、この香り……ミント?」
「だな」
馴染みのある香り、同じ食材があることに安心感を覚える。
「お疲れのようでしたので、こちらを用意させて頂きました」
「ありがとう、クレア。確かに、少し疲れてるかも」
突然他人の姿でこの地に放り出されてから、初めてゆっくりと座ったし、初めて何かを口にする。
お礼を伝える私の横で、真羽はティーカップを持ち上げるとすぅっと香りを吸い込んだ。
「もらっても?」
「是非!」
何て優雅なんでしょう。
双子ながら、所作の美しさや品の良さは全部真羽が持っていったと思っている。
片割れをほんわか見つめていると、真羽の喉がこくりと動いた。
「大丈夫そうだ。お前も飲め」
ぽそりと零された言葉に、思わず目を瞬く。
まさかの毒見でした。
「もー、もーほんと! 真羽のそういうとこ!」
「何怒ってんだよ」
「自分が時々嫌になりますわ~」
能天気な自分と違って、真羽はきっと今も色々考えている。
この守られてる感が何か悔しくて、情けなくて。
私だって、もっと役に立ちたいのに……。
「ミントティーには鎮静作用もある。今のお前にぴったりだな」
緩やかに笑って、真羽はクレアに向き合った。
「美味しいです」
「よかった! マハネ様のお口に合って」
美女という文字をそのまま人型にしたようなクレアは、意外にも顔がくしゃっとなるほど歪めて嬉しそうに笑った。
あれ、笑うと可愛いな。
何だか私の方がドキドキしてしまう。
そんな様子を横目に映しながら、口元へとお茶を運ぶ。
「あ、美味しい……!」
「嬉しい! どうぞ、ゆっくりお飲みになってくださいね」
「ありがとう、クレア」
何だろう。クレアとは、すっごく仲良くなれる予感しかしない。
女子にモテる女子とか、もう最強の美女じゃん。
すぅっと馴染む清涼感のあるお茶と一緒に、私達がニコニコと笑顔を交わし合っていると、カップを置いた真羽が静かに口を開いた。
「少し、……幾つか、聞きたいことがあるんですが」
「ええ。勿論です」
大きく頷くクレアに、真羽は自分達がこの地に詳しくないこと、ここはどういう場所で一体どんな世界なのかと問い始める。
私達が元いた場所や、姿形も全く違う人間だったことなどは伏せたままに……。
「そうですね。では、見て頂いた方が理解しやすかもしれません」
「え、見て……?」
クレアがすっと手を持ち上げると、テーブルの上に大きなお皿が出現する。
水の張られた洗面器くらいの深皿は、水鏡のように私達の姿を映す。
自分の今の姿を目の当たりにして、改めて驚かされる。
ふわふわのピンクの髪、そして真羽とお揃いの金の瞳……。
私が私であるという元の容姿は、そこには存在しなかった。
真羽は自分の姿にはさして興味なさそうに、目を見張ったまま映っている私の顔を、同じ色の瞳でまじまじと見つめていた。
あれ……?
そんな私達の姿がくるりと円を描く。
水に黒い絵の具を溶いたようにぼやけたかと思うと、何かが映し出されていく。
そうして、私達は知ることになる。
日常を紡いでいたはずの歯車が狂って起こした惨状を。
この地の全てを飲み込むような、おびただしい影の惨禍を…─
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