暴走事故

暴走事故

 その日私は軽自動車に乗って、街中を走っていた。再開発で活気に溢れたこの街をドライブすると、日々の疲れやストレスが、体から抜けていくような気がする。私にとってドライブは、重要なフラストレーションの捌け口の一つになっていた。

 その日の街は、歩行者天国を実施しているようだった。数十、数百の人々が、穏やかに街を闊歩している。信号が点滅し、その下では「歩行者天国」と書かれた看板が、三角コーンのバリケードにかけられていた。私は一度そこから出るために、路地へと入っていった。

 路地では何人かの人が、白線に沿ってそれぞれの進路を歩いていた。ゆっくりと車を走らせる。すると私はそこで、ある違和感を感じた。ブレーキペダルを踏んでいるのに、車が加速し始めているのだ。確かに、右足が左のブレーキペダルに軽く踏み込まれている。車は徐々に加速していく。十キロ、十一キロ、十二キロ...。速度メーターが遅速ながら確実に、その針を回していく。車がエンジンを起こすように、段々と重く険しい音を響かせていく。車は路地を加速しながら通り抜けて行く。景色が不気味な規則性を持って後退し、くっきりとした残像を作り出していく。二十キロ、二十一キロ。路地を慌てて曲がる。直進方向の車と接触しかけて、クラクションを鳴らされた。しかしその音さえも加速の突風にかき消される。私は焦っていた。このままでは危ない。死にたくない。しかし、私は突然の出来事に、対応することができなかった。軽自動車は加速し続ける。三十二キロ、三十三キロ。そしてこの時私は気づいた。このまま進めば再び歩行者天国に当たる。このままでは人を轢き殺してしまう。加速は私を追い詰めて行く。四十キロ、四十一キロ。人を殺す。加速は私を順当に歩行者天国へと導いた。歩行者天国の看板が見えて数秒、それは目の前に迫りつつあった。

「うわあああ!」

 私は咄嗟に右の電柱へとハンドルを切った。そこで私の視界はスローモーションになった。電柱へと車が大きく曲がると、そこには一人の女性の姿があった。女性は小綺麗な格好をして、スマートフォンの画面を眺めていた。待ち合わせだろうか、顔には笑みを浮かべている。衝突寸前という時に、女性はようやくこちらに気づいた。すると恐怖と、未だ抜けきれていない何かへの期待が混ざったような、絶妙な表情を浮かべた。

 そして私は電柱へと衝突した。凄まじい衝撃と共に、私は意識を失った。


 意識を取り戻すと、そこは暗闇だった。ピピ、ピピ。脈か心拍数の、安静を促す音がする。ここは病院なのだろうか。目を開けることができない。しかしそれ以上に困ったのは、耳をのぞいた身体の感覚が、全て消え去ってしまっていたことだった。手や足、胴体に至るまで、その感覚の片鱗すらも感じられないのだ。耳だけが鮮明に状況を伝えようとしている。繰り返される機械音の後ろから、看護師が会話しているのが聞こえた。

「不憫よね。あの歳で自動車事故なんて。」

 中年ほどの女性が言う。

「昏睡状態から、すぐ覚めればいいですね。」

 年下らしき男性が、その女性に当たり障りのない返事をする。どうやら私はあの事故の後、昏睡状態に陥っていたようだった。ここで私は一つの疑問を感じた。私は今意識を取り戻している。しかし、それを看護師は認識できていないのだ。こちらからコンタクトを取ることができない以上、私はずっとこの状態のままなのではないか。耳の感覚だけが残る身体で、まるで音声が再生されない録音機のように、ガラクタとしてそこでひっそりと、息絶えるのではなかろうか。そう思うと、ただひたすらに恐怖を感じた。

 しばらくすると、両親がやってきたようだった。看護師に父が何かを質問している。そして両親はこちらに歩いてきて、少し遠くで止まった。

「ごめんなさい。」

 父の声が聞こえる。父はそこで、誰かに謝罪をしていた。奥からは、「仕方のないことだったんですよ」と言う男性の声がする。私は事故直前のことを思い出した。電柱と軽自動車の間には、一人の女性がいた。もしかすると、彼はその女性の知り合い、あるいはもっと深い関係の人物なのかもしれない。父はその男性に、何かを渡そうとしているようだった。封筒に入った何か。その音からして、軽い菓子類などでないことは確かだった。「やめてください」と男性は言った。すると父は床に膝をついて、何かをしようとした。男性が父に寄って「もういいんです」と言う。すると父は、もう一度謝罪の言葉を呟いてから、私の方へと歩いてきた。

「ああ、こんなになって」と言う母の声が聞こえた。父はしばらく黙ってから、少しだけベッドの端を叩き、「行こう」と母に言った。先に父のものらしき足音が、遠ざかって行く。数秒経って、もう一度足音が立てられると、それは急ぎ気味に奥へと消えていった。ドアが閉められる音がすると、その場所は再び、しばらくの静寂に包まれた。ピピ、ピピ。繰り返される音が頭に浸透してきた頃に、一つの足音が近づいてきた。それは、父や母が立てるような硬い足音ではなく、スニーカーの立てるような柔らかいものだった。男性が右横に立っているようだった。

 男性は少しだけ立ち止まって、すぐに元の場所へと戻っていった。そして少しして、そこからは、ベッドに身体を押し当てるような音がした。

「うううう...。」

 男性の呻き声がする。悲しみと怒りを押し殺すような、そういう呻き声だった。呻き声は少しずつ大きくなって、やがて泣き声へと変わった。男性の低い啜り泣く声が、病室の中に響く。男性はとても長い時間泣いて、病室から立ち去っていった。

 もし私があの女性を昏睡状態にしていたとしたら、どうだろうか。先程の看護師の会話にも違和感がない。現実的に最もあり得る可能性はそれだった。第一、恐らく被害者と加害者の両者がいる場所で、加害者の方から心配する人間がいるだろうか。おまけにそこには被害者の見舞い人までいるのだ。なおのこと、私を話題に上げることを避けるだろう。私は人を大変な目に遭わせてしまったのだ。取り返しがつかないほどの、大きな罪を犯してしまった。しかし、私にはその罪を償うことも、男性に謝ることすらもできない。私は耳だけが存在する世界に、途方もない絶望感を覚えた。

 

 その日から何日が経っただろうか。相変わらず、耳だけが音を記録し続けていた。ピピ、ピピ。機械は冷たい電子音を、私の耳に伝え続けている。あの日から、毎日男性は来ていた。そして毎日泣いて、泣き終わると帰っていった。私はその度に、鋭い針で鼓膜が貫かれて行くような気持ちになった。だからこそ男性が帰る時、いつも私の耳には傷口に潮風を吹きつけられるような、そういう痛みがあった。

 今日は珍しく、父親が一人で来ていた。

「なあ、なんでこんなことになったんだろうな。」

 父の声が震えている。父は私の耳を掴んだ。「聞こえるか、京子。お前が植物人間になったんで、お父さんは仕事を辞めることになった。でもな、お父さんはどうしてもお前を生かして置けないんだ。被害者の人はお金がなくて、延命治療が受けられないそうなんだ。そこに退職金を使うことにしたよ。先生が言うには、お前はもうほぼ助からないらしい。お前が償えない分まで、お父さんとお母さんが頑張るつもりだから、京子も見守っていてくれ。」

 私は少しだけ気が楽になった。勿論延命治療をしたからといって、女性が助かるとは限らないし、仮に助かったとして、罪が消えるわけではない。障がいが残る可能性だってあるし、色んな人が、沢山の時間を失うことになるかもしれない。それでも、私が何か女性にできたなら、私はそれだけでも少しましになるような気がした。

 

 私はその時、明らかな死を実感した。砂嵐が巻き起こり、その音が段階的に大きくなっていく。それに合わせて思考も少しずつ雑で荒くなっていく。頭の中で文章が組み立てられなくなり、やがて単語が、頭からその存在ごと抜け落ちる。私は死に向かうにつれて、砂漠に埋まっていくような気持ちになった。耳から砂が入り込んで、圧迫される。音は完全に、砂の挙動に全てが握られる。ざざざざという音さえも砂に防がれて、無音へと鼓膜が導かれる。頭の中にも砂が入り込む。脳みその周りにザラザラとした砂が雪崩れ込み、覆い尽くされる。脳みその皺にも砂が沈み込む。砂によって孤立した知識や言葉がそれぞれ行き場を失い、動くのを止めた。やがて砂嵐の中で、真っ暗な脳みそが機能を停止して、血液を失っていく。私は何もかもを意識出来ずに、眠るようにして死を迎えた。その正確な瞬間は、物の長さをきちんと正確に測ることができないように、私には知ることができなかった。

 私は人を一人昏睡状態に陥れ、親に仕事と退職金を失わせ、そして死んだ。そこになんの意味があるということではなく、ただそれだけが、事実として存在していた。

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暴走事故 @elfdiskida

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