嫉妬

『そ、その。元気だった、幸人ゆきと?』

 ――盗聴器から聞こえてくるその呑気な問いに、あたしこと竜禅寺りゅうぜんじ美咲みさきは舌打ちしそうになった。

 ここは走る黒塗りの乗用車の中、後部座席。そこにはあたし一人で、空いたスペースには資料が散乱している。

 膝の資料に視線を落とすと、張り付けられた顔写真が飛び込んでくる。

 佐倉さくら千佳ちか、二十四歳、大手商社勤務とあって、それに付随するパーソナルデータがずらずらと並べられている。

 伝を使えばこれくらいの調査はなんでもなく、要望するすべての情報は網羅されていた。

 写真は近影なのか、少しやつれが見える。それでも相当な和風美人で、特にその泣きぼくろがあたしには艶めかしく見えて、余計に神経を逆立てる。

「あんたが元気じゃなくしたくせに!」

 あたしも詳しい事情までは分からない。でも、幸人さんにひどいことをしたのは知っている。だからこそ、あたしは幸人さんの返答が気になっていた。

 幸人さんのことだから口汚く罵ったりはしないと思うけど、どんな心境なのかは気遣ってしまう。

 お願い、落ち着いて、幸人さん……!

『ああ。元気だったよ』

 でも、聞こえてきたのは殊の外、穏やかな声だった。

 その声はドキドキさせるような高鳴りではなく、安心させるような響きをあたしにもたらした。

 その後に聞こえてきたのは、ひどく聞き苦しい自分語り、いえ、自己弁護としか言えないものばかりだった。

 盗聴器の向こうの幸人さんの反応はあんまりよく分からないけど、意外にも幸人さんの友人――藤井ふじいとおるさんが苛烈であたしの代弁をしてくれることも多かった。

『……け、結婚って、本当に?』

 けれど、その時に聞こえてきたその言葉。

 それは、あたしの神経を凍らせるに十分な威力を持っていた。

 それは、幸人さんがそこまで思っていた相手だという事。

 なのに、そこまで思ってくれていた相手を裏切った。

「……消しておいた方がいいかしら?」

 あたしがどうしても欲しいその思いを無残に打ち捨て、今なおそれを向けられる可能性がある女。

 息が、胸が苦しくなる。手に力が入り、資料にしわが寄る。その中の写真が、ほくそ笑むように、勝ち誇るように歪む。

『あのね……やり直せないかな、私たち』

『いや、無理だろ』

 けれど、幸人さんはその復縁の誘いをあっさりと断ち切ってくれた。

「さっすが幸人さん!」

 一転、喜ぶあたしの耳に再度の誘いの声が入ってくる。煩わしいそれを、同じ調子で再度切り捨ててくれる幸人さん!

「やた! やったやった! さっすが幸人さん、あたしの将来の旦那様! って、あいたっ!?」

 突き上げた拳が天井に刺さって、指を痛めちゃった。でも、そんなことは問題外!

「さっすが幸人さんね! 昔の女なんて、眼中になし! 藤井さんもナイスフォロー! さっすが幸人さんの友人ね!」

 うっきうきのあたしをよそに会話は進んでて、幸人さんはお店を出るようだった。

 やば、盗聴器はお店に仕掛けてるから、これ以上の幸人さんの動きは分からない。

 幸人さん、平気そうな感じだったけど、本当はどうなのかしら?

 ふ、不安だわ。幸人さん、ちょっと儚そうな感じだから、帰る途中で変な女に声かけられたりしないかしら……!

 で、で、傷心の幸人さんはそのままふらふらと……!

「いやああああーっ!」

 あまりの想像に絶叫してしまったあたし。でも、車の運転は軽やかなままだ。さすが竜禅寺付きの運転手は常に平静ね!

 考えてる場合じゃない、幸人さんの元に急行しないと!

「目的地変更よ!」

 あたしの指示に従って向かったのは、お店と幸人さんの自宅から算出した繁華街の大通り。

 はたして、幸人さんはそこにいた。

 車を寄せてもらって、窓が開き始めると同時に顔を割り込ませる。なんだか溺れて必死に水面から顔を出そうとしているような感じだけど、構っていられない。

「幸人さんっ、無事!?」

「……竜禅寺」

 応えたのは、ぽかん、とした幸人さんだった。

 あら、そんな気の抜けた表情も素敵。今日もまた、別の幸人さんを知ることが出来て嬉しいわ。

 送って行くって言ったけど、幸人さんは二言三言会話を交わすと軽快に走り去ってしまった。

 なんだか意外と元気なようでそこはほっとしたけど、もっと一緒にいたかったのに残念。

「強引に車内に連れ込むべきだったかしら?」

 自問してふと気づく。

「つ、連れ込むって、別にそんな意味じゃないけどお……! いえ、そんな展開になったら諸手を上げて無抵抗だけどお!」

 一人で悶々と妄想を膨らませるあたしだったけれど、竜禅寺の運転手は常に平静なので安全運転だった。

 ちょっとは止めてよ!



「でも、やっぱりまずいとは思うのよね。消そうかしら」

 退勤時間のオフィス街。

 軽やかに歩を進めながら思うのは、昨日交わされた幸人さんと前の女の会話だ。

 ……前の女っていやな響きね。

 前も何も、幸人さんの女はどこまで行ってもあたしだけでいいのにね。

 ま、まあ、現状を言っちゃうと、あたし別に今の女というか、まだ彼女ですらないんだけど……うう、落ち込んじゃうわ。

 あっと、だめだめ。これから幸人さんに会うんだから、こんな事じゃ良くないわ。

 ビルの窓ガラスに映し出された自分を見て、髪型を整える。

 うん、我ながら大人っぽく見える。

 シックな色合いのツーピース、ノーブランドのポーチ、顔には銀縁眼鏡、頭にはキャスケット、と人目にさらされた時の対策もばっちり。

 大丈夫、幸人さんの横に並んでも問題ない自信しかないわ。

「……まあ、でも。あっちが消えても、あたしの好感度を上げないと意味ないか」

 それは当たり前の話だ。好感度が天秤になっているわけがないんだから、あっちが自爆さながらに好感度を落としたとして、こっちが自動的に上がるわけじゃないものね。

「結局、地道アピールに勝るものなし。そんなわけで、行くわよ、美咲」

 オフィス街に映る自分に発破をかけて、あたしは身を翻す。

 よし、計算通り。

 視界に映るのは、務めている会社のビルの入り口から出て、こちらに歩いてくる幸人さん。

 仕事の緊張から解放されるためか、ネクタイの首元を緩めながらだ。

 そんな仕草にも、ぞくぞくしてしまう。仕草自体がセクシーだし、あのネクタイになりたい、とも思ってしまうのだ。

「Hello. Excuse Me」

 横道から、ちょっと奇をてらって英語で話しかけてみた。ネイティブ仕込みのクイーンイングリッシュ、先生お墨付きの発音で。さて、幸人さんはどういう反応をするかしらね?

「Yes? ……って、なんだ、竜禅寺か。びっくりした」

「こっちこそびっくりしたわ。最初に英語での返答がくるんだもの。お疲れ様、幸人さん」

「ああ、ありがとう」

 なんだか自然な会話ね! 日々成長する凄い子なのよ、あたしは!

 幸人さんはさりげなくあたりを見渡すと、あたしがいる横道へと身体を滑り込ませた。

「……今日は竜禅寺か」

「うん? 今日は?」

「ああ、いや。なんでもない」

 知ってるわよ、昨日はあの女だったものね。

 その再会を上書きしてやろうと思って、今日はあたしが待ち伏せしたの。あたしがそれをわざわざ言う事はないけれど。

 ――でも、本当は少し怖かった。

 昨日のことがあったからこそ、今度はあたしと出会うことで昨日のことが呼び起こされてしまわないか、うまく上書きして忘れさせてあげられるかどうか。

 それは全くの未知数で、やってみないと分からない事だから。

 その賭けに、どうやらあたしは勝ったみたい。

 心なしか幸人さんの表情は柔らかく見えた。それがあたしの贔屓目なのか、願望なのかは分からないけれど。

「で、今日はどうした?」

「で、ででっ」

「ん?」

 か、噛んじゃった。ええい、頑張れ美咲!

「デ! デート! デートのお誘いに来たの!」

「声でけえな」

 よく言ったあたし! そして声大きくてごめんなさい!

 熱くなる顔を伏せて、上目遣いで幸人さんの表情を窺う。

 不思議そう、と言う感想が大半で、迷惑は……していなさそう、だと、思いたい。でも、困惑もしていそうだった。

「……前も言ったが、竜禅寺の想いに俺は応えられないぞ? それなのにここでデートを了承するとか、そりゃどんな二枚舌野郎だって話になるんだが」

「そ、それはそうなんだけどお……!」

「ああ、いや。そう言いつつ、俺も前にお茶に誘ったっけ……。もうすでにやらかしちまってるのか、俺」

 言いながら落ち込む幸人さん。

「あ、あれはそう! お、お茶友達というか! オフ会みたいなもんじゃない!?」

「オフ会。まあ、言われてみれば……?」

「今回もその延長みたいなもので! 第二回オフ会! そんな感じでどうかしら!?」

「いや、俺が言うのもなんだけど、竜禅寺はそれでいいのかよ?」

「いいの、お題目はなんでも! 幸人さんといられることが大事だし!」

「……直球だなあ」

 なんだか必死になっているあたしに、幸人さんは苦笑でお茶会を了承してくれた。

「けど、一時間くらいだぞ? まだ学生だし、遅くならないうちに帰れよ」

 み、短い……!? で、でも昨日の女も同じくらいの時間だったし、気遣ってくれてるから嬉しいし、感情の整理が難しいなあ、もお……!?

「こ、今度はあたしに奢らせてよね!」

「アホか。学生相手にたかるわけにはいかねえよ」

「配当が入ったから大丈夫! 前回のお返しさせて!」

「株かよ。さすがお嬢様だな。……けど、俺にも社会人としての意地があるんでな。妥協して割り勘だ」

「……幸人さんって、割と頑固だったのね」

「失望したか?」

「ううん。そんな一面があったんだなって」

「……そっか」

 そんな会話を交わしながら歩いて、喫茶店に入って、飲み物を注文して、席について。

 あたしは始終スキップしそうだった。もちろん、喜びのスキップを。

 だって、前回はなんだかふわふわしていて、ここまでの過程を味わう余裕もなかったもの。

 あたしも成長したって事かしら? このまま余裕のある女になれればいいわね。いいえ、なって見せるわ!

 そんなわけで、着いた席は二人掛けのテーブル席。前回で学んだわ。あたしにカウンター席での隣りあわせはまだ早いと。

 こうやって徐々に慣れて行って、いつしか肩を並べてみせるわ!

「前から思ってたが、竜禅寺って姿勢いいよな。そういう習い事でもしてるのか?」

「う、うん? そ、そお?」

 唐突にお褒めの言葉を頂いてしまって、あたしの心は途端に落ち着きをなくした。

 だって、幸人さんの様子は思ったことを口にしているだけってわかるくらいに自然だ。

 おべっかを散々見てきたあたしだもの、それぐらいすぐわかる。

 それ以前に、愛しの人からの誉め言葉だもの。嬉しくなって舞い上がってしまうに決まっている。

「ま、ま、まあね。お茶とかお華とか習ってるから」

「へえ。長いのか?」

「物心ついたころからだから……十年以上は?」

「そりゃ凄い。頑張って来たんだな」

 くううーーっ!

 む、報われた! 今この瞬間、報われたわ!

 なんでこんな面倒くさくて足が痺れるだけのことに時間を割かなきゃいけないのってずっと思ってたけど、この時のためだったのね!?

 心の中で悪態つきまくって来たけど、撤回するわごめんなさい! 教えてくれた先生方、本当にありがとう!

 テーブル下で、ぐっ! と拳を握りしめるあたし。幸人さんの眼に触れないのよう、必死に制御出来て偉いわあたし。

「お嬢様教育ってやつか? 英語もその一貫か?」

 あたしが今日呼びかけた時の事を思い出したのか、そんな質問を投げかけてくる幸人さん。

「そうね。英語、中国語、ドイツ語は日常会話ができるくらいまでは叩き込まれたし、今はフランス語も勉強中ね」

「大変だな。寝る暇あるのか?」

「大丈夫。外国語の勉強は、もう割とコツを掴めてるから」

 それに、そうやって幸人さんが労わってくれるから、ふつふつと元気が湧いてくる。

 ねえ知ってる? あなたがどれだけあたしに活力を与えてくれるか、笑顔にしてくれるか、勇気をくれるか。

 ねえ知ってる? あたしがどれだけあなたに惹かれているか、欲しいのか、焦がれているのか。

 今すぐ、この火傷するかのような想いをぶつけたい。

 ぶつかって、ぐちゃぐちゃになって溶け合って混ざり合って一つになって、直接この心を味わって欲しい。

 けれど、こうやって何気ない会話をテーブル越しに交わして、あなたの瞳に宿る感情に一喜一憂する時間もとても愛おしい。

 ねえ、いつか知って? あたしのこの感情を。

 そして願わくば、同じ感情を向けてくれたら、あたしは――。

「おい竜禅寺、大丈夫か?」

「……え?」

「え、じゃねえよ。なにか、じっとこっち見て動かなくなったからさ。やっぱり、眠れてねえんじゃねえのか?」

「え、あ、大丈夫。ちょっと幸人さんに見惚れてただけ」

「……そうなのか」

 視線を逸らす幸人さん。照れてる、って感じじゃない。ちょっと気まずそうだった。

 幸人さんは自分のことを平凡だと思っている……というより、劣等感を抱いているところがある。

 それは前の女とのことだけではなく、過去に色々あったからだろうと思う。

 それはもう仕方がない。あたしに会う以前のことで、それはどうしようもない。

 でも、出会った後は何とでも出来る。

 だからあたしは、幸人さんが自分のことを卑下するようなら、あたしがその分――じゃあ足りない。それを超えて肯定するのだ。幸人さんがあたしを無条件に褒めてくれるのと同じように。

「……あー。それで、あんな流暢な発音だったんだな」

「練習の賜物ってやつね。そういう幸人さんも、反射的に英語で返してなかった? なかなかできない事よ?」

 ごまかすような流れに、あたしは素直に乗る。うふふ、これが出来る女ってものよね。

「同じ部署に英語圏の人もいるし、日常会話くらいは何とかな。だから急に英語で話しかけられた時は、会社の人間に呼びかけられたのかとびっくりしたわ。仕事終わったと気が抜けてただけに余計な」

「ふふ、ごめんなさい」

 謝りつつも、いたずらが成功してご満悦のあたしだった。

「けど、英語だけで精いっぱいだな。何リンガルか分からんが、竜禅寺は大したもんだ。気苦労も多いだろうけどな」

「そうなのよね、お嬢様は辛いわ。例えば――」

 そこであたしは、思いついたことを口にしてみた。

「――突然、婚約者を用意されたり、とか」

「……はあ。そんな世界があるんだな」

 思わず立ち上がるあたし。

「あっさり!? ちょっとは驚くとか嫉妬するとかしてよ! むしろ嫉妬してよ!」

「むしろSit Down。目立ってるぞ」

「うまいこと言わないで!」

「Cool Down」

「もお!」

 なんなの、すんなり躱されすぎじゃない!? 咄嗟に繰り出した「嫉妬を煽る作戦」大失敗! 完!

 ああもう、作戦練り直しよー!



 会話自体は楽しかったし最後は二人してけらけら笑い合って、これぞ恋人同士! って感じで別れたけど、いざ家に帰って来ると、少々頭が冷える。

 いなされた感が否めないな、ってね。

 あれが大人の余裕ってやつかしらね?

 あたしはどこまで行っても子ども扱いなのかしらね……幸人さんがあえて距離を取ってるからって言うのもあるけれど。

 少し切なくなってしまう。

 距離はすなわち壁で、要するにあたしはそこまで気を許されていない。

 おそらく友達くらいには打ち解けているとは思うけれど、精々そこまで。あたしが踏み込みたい領域はもっともっと、ずっとずっと奥なのに。

 けれど、それを押し付けて幸人さんを傷つけるのはもっといや。

 玄関の帽子掛けにキャスケットをかけ、うーん、と背伸び。

 一つ頭を振ると、はらりと視界を黒い髪が流れ揺れる。

 自慢の綺麗なつややかな髪。

 これを触ったり撫でたりしてくれるのはいつの日か。

「な、撫でたりってなんだか、ぺ、ペットみたいね」

 かあっ、と急激に体温が上がる。

「ま、まだ早いわよ美咲。でもそれいい目標ね。うん、がんばろ」

 ぺしぺしと顔を叩くあたし。

 落ち着こうと視線をうろうろさせたあたしの眼に、家の奥を染める暗がりは濃い。

 自他ともに認めるお嬢様のあたしだけど、家は別に豪邸とかじゃなくマンションの一角。とは言っても4LDKと間取りは大きく、その分、一人をより強く意識する。

 この時間帯はいつも一人だ。ううん、この時間帯だけじゃなく、この三か月は一人暮らしのようなもの。

 両親は忙しい人たちで、常にどこかを飛び回って、よく家を留守にする。竜禅寺と言う財閥の大黒柱だからと言うのもあるけれど、精力的と言うのがその一番の理由。

 けれど、それを寂しく思ったことはない。だって――。

 ポーチの中のスマホが震える。

 ほら来た、とあたしは苦笑気味に口角をあげた。

 リビングに移動すると照明をつけて、ソファーに身体を投げ出す。スマホをサイドテーブルに置いて、着信に答えた。

『Hello My dear daughter! How are you!?』

 朗らかな男性の声が飛び出してくる。そのボリュームは大きく、スピーカーにしていないのにあたりに響き渡るほどだ。

「元気よ。声大きいわよ、パパ。こっちは夜なの知ってるでしょ」

『すまないね。けれど、愛しの娘と会話を交わすのに、これが興奮せずにいられるかい?』

 電話の先の男性はパパこと、竜禅寺高峯たかみね。声に張りがあり、それに伴って若々しくタフな父親だ。向こうではまだ朝だというのに、ハイテンションなのがそれを証明している。

 あたしはパパの声が少しは落ち着いたのを確認して、スマホをスピーカーに切り替えた。

「はいはい、あたしも愛してるわ、パパ。でも、そっちにいる間はママを優先してあげてね」

『もちろんさ。優しい娘を持って、僕たちは幸せだよ』

 こうやって、外を飛び回っていて忙しいはずの両親は、僅かな隙間を縫ってあたしを気にかけてくれている。ママと一緒になって交代制で時間を作ってくれているみたい。昨日はママの番だったから、今日はパパの番だっていう事なんだろう。

 だから、寂しく思ったことはない。

『ところで美咲、Bad Newsだ』

「なによ急に」

『美咲に婚約者候補が出来そうだよ』

「いらないわよ! ホントに急に何言いだしてんの!?」

 嘘から出たまこと!? 駆け引きから出た悪夢!? どっちにしろ、たちが悪いわ!

『怒らないで愛しい娘。あくまで候補の話だ』

「候補でも許せるわけないでしょ! さっきの愛してる返せ!」

『おお、それは断固として回避せねば。いや、安心してほしい、何度も言うが候補で、建前の話だ。こちらにも色々としがらみがあって、話を合わせる必要があってね……』

「……むっ」

 あたしは竜禅寺の娘で、財閥の令嬢で、それはそれは市場価値がある。両親のしがらみや立場も理解はできる。それをパパの苦い口調から感じ取って、少しは冷静になれたわけだけど……。

「だからって、許容できるわけないわよ……!」

『そうだね、そうだね。今の美咲には、すでに決めた人がいるものね』

「ひう……っ!?」

 あたしの喉が変な音を立てた。それは羞恥であり、驚きであった。

「ど、どうして知って……!?」

『いやだなあ、愛しの娘のことだよ、知らないわけがない。美咲自身の懐とは言え、大きく動いていればね。しかも、これまでにない大きな動きだ。興味が湧くのは当然だろう?』

「あ、あたしの裁量のうちでしょ……!」

『そうだね。だから、文句を言うつもりはないさ。言っただろう? 興味があるって。何に使われているのか……そして、誰に使われているのかは……特に、ね』

 いつの間にか、背中は汗びっしょりだ。別にやましいことをしている気はない。けれど、世界を股にかける海千山千のビジネスパーソン相手に、あたしはまるで蛇に睨まれた蛙も同然だった。

『で、投資分は回収出来そうなのかな? 達成率はどれくらいか聞いていい?』

「……そんなの、あたしが聞きたいわよ」

 どこまで知られているかとか、そんなのどうでもよくなってあたしは投げやりに答えていた。

『おや? 美咲らしくないね。よほどの強敵なのかな? 学校の時とは大違いだ』

「……うるさいわね」

 学校のこととは、幸人さんと出会うきっかけにもなった、学校でのあたしの不遇のことだ。

 あの出会いに奮起したあたしは方々に手を回し、周囲の無害化を達成した。実家の力も使ったとは言え禍根が残るようなやり方はせず、また、実家の益となるように立ち回ったから、両親にはその手腕を褒められたものだった。後から聞いたら、自分で跳ねのけて欲しかったからあえて手は出さずにいたそう。愛がスパルタだわ。

「……強引にして嫌われたくないし」

『なるほど! 確かに大違いのようだ! 結構結構! 大事ほど慎重にね!』

「……面白がってない?」

『まさか! 大事な娘の総力戦だ、応援するよ! だが昔の僕を思い出してね、多少愉快な気持ちになったのは事実だが!』

「また声が大きくなってるわよ。パパの昔って?」

『僕も昔、婚約者をあてがわれそうになってね。全力で抵抗して今があるわけさ。その時の婚約者もしがらみで雁字搦めでね、共闘してどうにかしたものさ』

「そんなことがあったんだ」

『そう、そうして今があり、美咲が僕たちの元に来てくれたわけさ。美咲も学校の件で知ったと思うが、いい結果を手繰り寄せようとして無理をして道理を引っ込め、仁義をおろそかにしては禍根を残し結局は誰も幸せになれない。美咲にもそんないい結果が訪れるといいね!』

「……確かにそうね。ありがとう、パパ」

『どういたしまして! それでは、いい夢を! Good Night, My dear daughter!』

「そっちは仕事よね。行ってらっしゃい、パパ」

 通話を終えると途端に、しん、となる。

 その沈黙が心地よい。家族の愛が、余韻として周囲に満ちている。

「欲しいものは絶対に諦めない。見習わせてもらうわね、パパ」

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